38 : 溺れたその行方。1
サリヴァンの手のひらから、次々と白いルーフが生まれ出てくる。それは不思議な光景で、見ている分にはとても面白いものだ。
それが、天恵だという。
「サリヴァンさまは、天恵者なのですか?」
背中に張りついて離れないサリヴァンは、たまにツェイルにルーフの花を降り注がせながら、眠そうにうとうととしていた。
「天恵者というか……これは恩寵だな」
「恩寵?」
「初代ヴァリアス皇帝は、天上猊下にその人柄を気に入られて、帝国を譲られた。そのとき、さまざまな恩寵をいただいたらしい。おれのこれはその名残だな。まあ、天恵の先駆けともいえるから、天恵ではある」
ルーフの花を咲かせることができる、天恵。
不思議な天恵もあるものだ。
「なぜ今まで、見せてくれなかったのですか?」
「あまり好きではなかったからな……むしろ邪魔だった」
「え……?」
「これは国主の天恵だ。今はこうしておまえのそばにいられるが、邪魔になるときもある」
政務とか、と言われれば、顔が熱くなる。国主であるとツェイルと一緒にいられる時間を奪われる、と言われたようなものだ。
「あ……っ」
そういえば、ものすごい口づけをされたのだったと、ツェイルは思い出した。一気に羞恥やらなんやらが頭を駆け巡り、身体が硬直してしまう。
そんなツェイルの目の前に、サリヴァンがまた、気だるげに腕を持ち上げたかと思うと、ぽんと一輪のルーフを咲かせた。そんなにいっぱい出されても、活ける花瓶や場所に困るのだが、それでも目を奪われるほどサリヴァンが出すルーフは美しい。
「おまえがこれを見て喜ぶなら、まあいい……」
そう言いながら、後ろ首にサリヴァンが頭を摺り寄せてくる。
「眠い……」
「……そうですか」
子どもみたいなその仕草に、笑みがこぼれる。それでも、眠ってください、とは言えなかった。言ったらまた、恐怖に支配されてしまうかもしれないと、不安になる。
「国主は、こんなに、忙しくない……のんびりできると、聞いていたのに」
「のんびり?」
「忙しいなんて、聞いてない……ルカのやつ、騙しやがって」
ぐずぐずとし始め、これはふつうに眠いのだなとわかったが、やはり「眠ってください」と言うには憚れた。
「まあ、それもあと少し……終わったら、のんびり、できる」
「そうですね」
「……ツェイ」
「はい?」
「眠い……」
「はい」
わたしのそばで眠れるのなら、いくらでも。
そう思いながら、ツェイルは胴に回されているサリヴァンの腕を、ゆっくりと撫でた。
「ツェイ」
「はい」
「……ツェイ」
「はい」
ツェイ、と数度呼ばれ、そのたび返事をしているうちに、ことんとサリヴァンは眠った。最後の最後にルーフをぽんと一輪咲かせてから眠ったので、なんだか可笑しかった。
「まっ、また、ツェイルさまが花だらけに……っ」
その小さな嘆き声に、ツェイルはふと顔を上げる。
リリだ。
「……、リリ」
「もう活けられる花瓶がなくて、ご近所配りまでしたのに……っ」
サリヴァンが次から次へとルーフを咲かせるものだから、部屋がルーフで溢れてしまい、リリが駆けずり回って花瓶に活けてくれていたのだが、少し出ている間にまたツェイルがルーフにまみれている姿を見ると、悔しそうに地団駄を踏んだ。
「す……すまない、リリ。止められ、なくて……」
ぽんぽんルーフを咲かせられると、見ているこちらは面白いので、制止の言葉をかけそびれてしまう。ツェイルも、リリのそれを聞いて改めて身の回りを見渡すと、自分とサリヴァンがルーフまみれになっていることにそのとき漸く気づいた。
「ツェイルさまのせいではありません……もうこうなったら、騎士宿舎にもお裾分けです。あそこはいつでもむさ苦しいですから、飾って差し上げましょう」
「そ、そうだな」
「近くのルーフを集めてください」
「う、わ、わかった」
掃除をしているときみたいな形相のリリには逆らえなくて、ツェイルは背中にサリヴァンを張りつかせたまま、手が届く範囲にあるルーフをかき集める。
一輪一輪が散らばっているとそれほど量があるようには見えないのだが、こうして集めてみると大きな花束になる。可愛らしい紐で茎を結んで飾れば、充分豪華な贈りものになりそうだ。いや、もうなっているだろうか。
「遊ぶように出されるのはかまわないのですが……本当に遊んでおられるようにしか見えないところが問題です」
「は、ははは……」
遊んではいなかった、とは言えなかった。
少なくともサリヴァンは遊んでいたと思われる。ツェイルが、それを見て喜んでいたから、次々とルーフを咲かせていた。
「……ごめんなさい」
「え? なぜツェイルさまが謝られるのです?」
わたしも遊んでいました、とツェイルはリリから視線を逸らした。
「……ツェイルさま」
「はい」
「陛下で遊ばないでください」
う、と言葉に詰まる。
「陛下、本気で遊ばれますから」
返す言葉もない。
「政務を放り投げて、丸一日遊ばれていたこともあるんです」
「……、え?」
「騎士宿舎で」
なんと。
「あのときはどうしようかと思いましたわ……消えた陛下を見つけられなくて、とても探し回りましたのに、騎士宿舎で騎士たちと遊んでおられるんですもの」
「……遊ぶって?」
「盤上遊戯です。それも、賭け有りの」
「か……賭け?」
「騎士たちを丸裸にしておられました」
うわ、とツェイルは顔を引き攣らせる。
「不正をしていたのではと思ったのですが、そうではなかったようで……見つけたときにダンガード侍従長がお相手をしたのですが、あっさりと負けられて……あれは惨劇でした」
今思い出してもげんなりするのか、リリの表情は暗かった。よほど悲惨な光景を見たのだろう。
それでも人間、そういう話を聞くと最後まで知りたくなる。いや、ツェイルの場合、サリヴァンのそういう話をたくさん知りたかった。
「ど、どうなったの?」
「侍従長も丸裸に」
「うわ……」
やはりそうなるのか。
「そのあと、ルカイアさまの怒号が響いたんですけどね」
お、と思う。
「言い包めてルカイアさまをお相手に遊ばれまして……」
「うんうん」
「丸裸にされておりました」
「ええ?」
そこまできたら最後まで勝ち続けるものだろう。と、思ったのだが、ラクウィルに勝ててもルカイアには勝てない、その理由はなんとなくわかる。
「ああ、もちろん陛下の場合は上着を二枚ほど脱いで、騎士たちに仕返しとばかりに帯を外され、下衣を剥ぎ取られかけた、という程度のものです。ルカイアさまにそのまま執務室に引っ張られて、七日ほど閉じ込められておりましたけれど」
「……やっぱり?」
「ルカイアさまには誰も勝てません」
同意見である。ツェイルもルカイアには勝てる気がしない。
それにしても。
「盤上遊戯……か」
「ツェイルさまも、それで遊ばれたことがありますか?」
「いや、わたしは専ら、剣ばかりで……姉が妹と遊んでいるのは、見たことがあるけれど」
興味がないわけではない。ツェイルは天恵があったので、剣ばかり学ばせられ、実戦に駆り出されていたから、そういうものに触れる機会がなかっただけである。遊ぶ、というものが、外で動き回る、剣を揮う、というものだった。
「用意しましょうか。わたしも、少しならできるので」
「いいのか?」
「もちろんですとも。ツェイルさまは、もっとご自分のやりたいことなど、おっしゃっていいのですよ」
「やりたい、こと……?」
「ええ。いつも剣の稽古ばかりでは、退屈でしょう?」
身体を動かすのは好きなので、稽古ばかりしていても、とくに不満は感じていない。けれども、盤上遊戯には興味があった。
あともう一つ、できることならやりたいことがある。
「……リリ」
「はい?」
「あの……厨房に、行けないか」
「厨房、ですか?」
うん、とツェイルは頷く。
「ツェイルさま、料理がおできに?」
「いや……」
食事を用意することはできない。けれども、ツェイルは厨房で唯一、作れるものがある。それを作るのは、ツェイルの遊びの一つで、趣味といえるものだ。
どうだろう、とリリを窺うと、リリは少しの間逡巡したのち、訊いてみます、と言ってくれた。
「まあ、陛下がよいとおっしゃれば、それで済むことですけれど……厨房の方々にもお伝えしなければなりませんからね」
「リリはいい?」
「もちろんです」
貴族の令嬢がそんなこと、と言われなかったことに安堵した。
「ありがとう、リリ」
それからのリリは行動が早く、許可はサリヴァンが起きたときに取ることにして、厨房に努める人たちにツェイルの意思を伝えてきてくれた。とても小さな剣、或いは小ぶりの包丁も用意して欲しいと頼めば、首を傾げつつも用意してくれた。
その日はけっきょくサリヴァンが起きなかったので厨房へ赴く機会はなかったが、サリヴァンが眠り続けることもなかった。
それは夜更けのことだ。
「……サリヴァンさま?」
厨房を使えるかもしれないと、気分が高揚していたツェイルは、なかなか寝つけずにいた。だからなにかが動く気配にすぐに気づいて寝台を起きると、隣にいたはずのサリヴァンが露台にいるのを見つけた。
サリヴァンさま、と声をかけようとして、その息を呑む。
露台にいたのはサリヴァンだけではなかった。
「……大きな、鳥」
露台に立つサリヴァンに、とても大きな白い鳥が顔を近づけて頬ずりしていた。
「ん? ああ、ツェイ、起こしたか」
ツェイルに気づいたサリヴァンが、月明かりを側面に受けながら振り返る。
サリヴァンに頬ずりしていた鳥が、その赤い瞳にツェイルを映した。
「メルエイラの娘か」
喋った。
「ああ。おれの嫁だ」
「うむ、よい嫁だな。よい気を持っておる」
赤い瞳が細められる。
笑っているのだ。
それを感じると、その大きさに驚いていた心も落ち着き、自然とツェイルを露台に誘った。
「サリヴァンさま、このお方は……」
「聖鳥フェンリスだ。前に話したことがあっただろう?」
ああ、この大きな鳥が、以前話してくれたあの鳥か。
そしてサリヴァンを、幽閉されていたそこからよく連れ出してくれたという、心優しい獣。
「フェンリスさま……このお方が」
「フェンリスでよい、メルエイラの娘」
「ツェイルと申します。どうか、ツェイルと」
「ふむ、ツェイルか。よい名だ」
そっと手のひらをフェンリスに伸ばすと、フェンリスは身を寄せて撫でさせてくれた。
フェンリスの白い羽毛は、とても綺麗で柔らかく、暖かかった。
「そうだ。フェンリス、ツェイを乗せて飛んでくれないか」
「え……?」
サリヴァンの急な提案に、驚いたのはツェイルだけだ。
「われはかまわぬが……ツェイルよ、高いところは平気か?」
「え……あの、よろしいのですか?」
聖鳥に対し、それは恐れ多いことだ。しかし、フェンリスの赤い瞳は細いままで、笑っていた。
「なに、われは聖鳥などと言われておるが、ただの大きな鳥よ。少しばかり天恵で人語を解せるだけだ」
それでも聖鳥なのだから、とツェイルは思うのだが、フェンリスはくるりとツェイルたちに背を向けると、露台から乗り易いようにと体勢を整えてくれた。
「え……え? フェンリスさま?」
「フェンリスでよい。さあ、乗れ」
乗れと言われても、とツェイルが戸惑っていると、サリヴァンがひらりと欄干を乗り越えフェンリスの背に降り立った。そうしてスッと、その手をツェイルに差し出す。
「おいで、ツェイ」
ツェイルの迷いなど吹き飛ばす、優しくて柔らかな微笑みが、ツェイルの心を攫った。
「サリヴァンさま……」
この世界で、この人に心を奪われない人など、いるのだろうか。
そう思いながら掴んだ手のひらは、やはりいつものようにひんやりとしていた。
とん、と裸足の両足がフェンリスの背に乗り、衝撃に備えてサリヴァンと並んで座る。最初に感じたのはふわっと舞い上がるような浮遊感、その次にはグンと重力を感じた。
少し冷たい風が頬を掠めていく。
震えたら、サリヴァンに引き寄せられた。
「見ろ、ツェイ。これが世界だ」
そう言ったサリヴァンが示したのは、高く上へ昇ってもまだ遠い空だった。
大小二つ、仲のいい双月が夜空を照らすように輝いている。
月がまだあんなに遠い。高く高く昇っているはずなのに、手が届きそうもない。
ああ、この世界は広く、大きい。
「……まだ起きている街もあるのですね」
視線を下に落とすと、ぽつぽつと明りが見える。夜更けなのに、まだ稼働している街もあるらしい。
「真っ暗だと、寂しいからな」
「そうですか?」
「暗闇に明りを求めるのは、人間の性みたいなものだ」
「……それもそうですね」
まるで、サリヴァンもそれを求めているような、言い方だった。
「サリヴァンさまは、闇がお嫌いですか?」
「いや、わりと好きだ。むしろ暗いほうが安心するかな」
「安心、ですか」
「なにも見なくていい」
「え?」
「まあ、目が闇に慣れたら、見えてしまうがな」
なにかを見ることを、サリヴァンは拒絶している。それは夢現で暴れていたときのそれと、同じものかもしれない。
「この国は闇を嫌う傾向にある。闇は魔だと」
「……はい」
「本当の闇は、自分たちの心にあるものだ。だから闇を司る者は、人間たちのその心を護ってくれる。おれは、闇はわりと好きだ」
それを聞いて、己れの身に宿っている闇の一族のことを考えた。
ツェイルは、その天恵のせいで代償を支払い、こんな身体を持つことになった。それでも、天恵を与えたもうた天を恨みはしても、闇の一族を恨んだことなどない。嫌ったこともない。
サリヴァンが闇を好きだと言ってくれて、ホッとした。
「なあ、ツェイ」
「はい」
「このままどこか遠くへ行けたら、おまえはついてきてくれるか?」
「……遠くへ?」
「ああ。おれは十八年、幽閉されていた。それでも自由だった。こうしてフェンリスがその背に乗せてくれたから、よく、このままどこか遠くへと行ける気がしていた」
その言葉を聞いて顔を上げると、サリヴァンの透明感の強い碧い双眸が、じっとどこか遠くを眺めていた。その視線の先は、どこを見ているのかわからなかった。
「塔にいることが、すべてではないとはわかっていたんだ。ずっとそこにいられるわけでもない。いつか、殺されるだろうと思っていた。そのまま殺されるのを待っていた」
「……サリヴァンさま」
「殺される前に、どこか遠くへ行きたいと、願わなかったわけではないんだ。願えなかったわけでもない。だが……おれは国主だった。逃げるように遠くへ行くことは叶わなかった」
「……天恵が、サリヴァンさまを、国に縛っていたのですか」
そうだな、とサリヴァンは苦笑した。
「誰かに、必要とされたかった……だけかもしれない」
それを聞いたとき、やはりサリヴァンは孤独だったのだと思った。
寂しくも悲しくもなかったと言っていたが、どうしても感じる孤独は拭い去ることができなかったのだろう。そしてその孤独が及ぼすものがなにか、そのときはわからなかっただけかもしれない。
「わたしは、サリヴァンさまのおそばにいます」
「……いいのか?」
「巻き込むと、諦められたのでしょう? なら、ただ受け入れてくださればいいのです」
ツェイルはサリヴァンに惹かれている。好きだと、いとしいと想う。
だから、ずっとそばにいる。
「そうか……」
ホッと、サリヴァンが息をつき、身体に巻きついた腕に力が込められた。
「じゃあ、結婚するか」
「……婚約者ですよ、とりあえず」
もう婚姻は前提にある、と言えば、サリヴァンは「そうじゃない」と笑った。
「おれと、結婚してくれ」
おれ自身と、というその声が、国主としてのサリヴァンではなく、ただのサリヴァンと結婚して欲しいと、言っていた。
ツェイルは少しの間、サリヴァンを見つめる。
そうして、ふっと笑った。
「はい」
あなたのそばにいられるのなら、あなたを護れるのなら、たとえ仕組まれた婚姻でも、喜んで受け入れる。
わたしはあなたに惹かれている。
わたしはあなたをいとしいと想う。
その心は、作られたものではない。サリヴァンと触れ合って作り上げていった心だ。
「ありがとう、ツェイ」
ぎゅっと、抱き込まれた。
幾度もこうして抱きしめられたことを思いながら、ツェイルもサリヴァンに体重を預けて抱きつく。
もっと、女らしい身体であったら、よかったのに。
そう思ったけれども、今はこの至福を、味わっていたかった。