36 : 閉ざされた世界は嘲笑う。5
「はっ、あ……え? ツェイ?」
サリヴァンが、漸く己れを取り戻したとき。
両腕をハルトが、騒ぎを聞きつけて駆けつけてきたルカイアが両足を、そして全体的にツェイルが抑え込むようにして、サリヴァンを拘束していた。
「な、にを……している?」
その声はいつのもサリヴァンで。
「ハルト、と……ルカ、まで……なんだ、これは」
ひどく暴れて強張っていた身体が、徐々に弛緩してくのを感じたツェイルは、そっとサリヴァンから離れてその顔を窺った。
「もう、だいじょうぶ、ですね」
そう声をかけると、不思議そうな顔をしたサリヴァンがいた。
だからホッとした。
「なんの、ことだ?」
わけがわからない、という顔をするサリヴァンに、ツェイルは知らず口許を緩める。そのとたんに吃驚されたが、それよりもなによりも、サリヴァンが正気に戻ってくれたことに安堵した。
「やっと正気に戻られましたね、陛下」
ふう、とため息をつきながら、ルカイアがサリヴァンの拘束を解き、またハルトも手を離すと気が抜けたように床に尻もちをついた。
「……なんでルカが、ここにいる」
「エーヴィエルハルトもいますよ」
「は……なんで、こんなことに? そもそも、なんでおれは、こんなに疲れている?」
ぎくしゃくと身体を動かすサリヴァンは、自分が今まで寝ぼけて暴れていたことを、憶えていない様子だった。
「なにを夢に見られたのか、それはわたしにはわかりませんが、悲鳴を上げて暴れられたのですよ」
「は?」
「おかげでこのとおり、わたしもエーヴィエルハルトもぼろぼろ……ツェイルさまに至っては……」
「……、ツェイっ?」
ルカイアに促されてツェイルを改めて見たサリヴァンが、びくっと身体を震わせて跳ね起きた。
「なっ、どうした!」
「あなたの仕業ですよ」
「おれなのかっ?」
そうですよー、とハルトが、疲れた声でルカイアに賛同した。
「おっ……おれは、なにをした?」
とたんにおろおろし始めたサリヴァンに、ツェイルは安堵したせいか身体の力が抜けた。
「ツェイ!」
ふらりとサリヴァンに倒れかかり、ぐったりとその身を預けてしまう。
「よかった、サリヴァンさま」
「なにがあった、ツェイ。なんでこんな……おれはなにをしたんだ?」
ああ、いつものサリヴァンだ。
それを感じるとますます力が抜けてしまい、目を開けているのも億劫になった。
首筋がちりちりと痛む。暴れたサリヴァンの手のひらが首を掠めたとき、その爪が凶器となってしまっていたのだろう。
今頃それに気づいて、つまりそれくらい必死だったのだと、ツェイルは思った。
ああ、怖かった。
サリヴァンが恐怖に囚われて暴れたことは、ツェイルにも恐怖だった。
いつも絶えず笑っているかのようなものであるサリヴァンは、国主という座に就いているせいか冷静沈着で、感情的になることが少ない。雨の中にツェイルがいたときは動揺していたが、それ以外でサリヴァンが冷静さを欠いた姿を、ツェイルは見たことがなかった。
だから、己れを忘れたかのように夢現で悲鳴を上げたサリヴァンを見たとき、ツェイルは一緒になって恐怖を感じた。護らなければと思う一方で、怖くてならなかった。
眠るように促してああなったのならば、サリヴァンがあまり深く眠らないという理由も頷ける。
サリヴァンは、眠るのが怖いのだ。
意識を手放すことが、恐ろしくてならないのだ。
そんな中で、サリヴァンはツェイルのそばでは深く眠ってくれる。安堵して、意識を手放す。
これほど嬉しく、泣きたくなるほどの喜びを感じるツェイルは、高慢だろうか。
「すまない、ツェイ……怪我まで、させた」
ツェイルがひとり思考に耽っている間に、どうやらサリヴァンはルカイアやハルト、リリから状況を説明されたようで、その体温に安堵したまま瞼を閉じて寄りかかっていたツェイルを抱き直した。
「……憶えておられるのですか?」
「いや……だが、おれがやったんだろう、この傷」
サリヴァンの指先が、蚯蚓腫れになっているのだろう首筋の怪我をなぞる。ピリッとした痒い感覚がするだけなので、大したことはない。
「これくらい、平気です」
「だが……おれが、おまえに怪我をさせるなんて……」
気弱なサリヴァンに、それは珍しい姿だったので、ツェイルはふっと口許を緩める。責任を取れ、とでも言えば、取る、と即答しそうだ。嫁ぐことは決定事項なので、言わないけれども。
「とても、怖がられて、おいででした……もう、だいじょうぶですね?」
「ああ。なにに対してそうなったのかは、わからないのだが……」
サリヴァンは国主だ。たったひとりで国を護る人だ。
その肩に、その背に、なにを背負っているのかはツェイルには計り知れない。
だからツェイルは、そんなサリヴァンを支えたいと思うのだ。護りたいと思うのだ。サリヴァンとてひとりの人間で、そこには感情がある。ツェイルのそばで安心して眠ってくれるのなら、ツェイルはそれらを支え護り、そばに寄り添うだけである。
「ラクウィルさまを、呼んでおられました」
「ラクを? ……ああ、そうか」
「お心当たりが?」
「……斬られたことがあるんだ。ラクを」
「え……?」
ツェイルは寄りかかっていたサリヴァンの肩口から顔を上げ、それを語ってくれたサリヴァンを見た。
サリヴァンは悲しげに、微笑んでいた。
「それほどひどい傷ではなかったが、あのときのおれには、ラクを護れる力がなかったから……殺してしまうかと思ったんだ」
それで悲鳴が、「やめろ」や「いやだ」だったのかと、その恐怖だったのかと、ツェイルは思った。
「あのとき、とは……?」
「そうだな……あの頃は塔にいたから、時間感覚が狂っていて、よくわからないんだが」
そう言ったサリヴァンは、なにかを求めるようにルカイアに視線を投げた。
僅かばかり眉をひそめたルカイアは、しかし長々と息を吐き出すと口を開いた。
「十八年です」
その数に、ツェイルは首を傾げる。
「そうか……それくらいだったな」
サリヴァンのほうは、なにかを納得したように頷き、唇を歪める。
「それからどれくらい経った?」
「五年です」
「ふぅん……この歳月が、五年か。ツェイが来てからは?」
「半年ほどになります」
「ふむ……やっぱりよくわからないな」
よくわからないのツェイルのほうだ。サリヴァンとルカイアの会話が、さっぱりわからない。なんの話をしているのか、要領が掴めないのだ。
「外に出て五年……ツェイと出逢って半年……同じくらいの長さに感じる」
「ツェイルさまとの時間は濃密であると、そういうことでしょうね」
「ラクが斬られたのはいつになる? おれの感覚では、外に出る少し前なんだが」
「八年ほど前のことかと。その場にはわたしもおりましたので」
「……おまえ、いたか?」
「いましたよ。そのときが、わたしが初めてあなたにお逢いした日ですから」
「最悪な出逢いだな」
くつくつと、サリヴァンは笑う。
ルカイアは忌々しげに、ため息をつく。
ふたりのそれと、数が示すものがわからなくて、ツェイルは混乱するばかりだ。
「そういえばあのときも、ルーフは赤かったな……綺麗だった」
「わたしはあのとき初めて、ルーフが赤く染まったところを見ました」
「おれは白いルーフを、外に出てから初めて見たんだぞ」
「脅威が消えた……からでしょうね」
「だからおまえを信用した。ルーフはおれを心配する花だからな。おまえが敵ではないと、教えてくれた」
「今さらながら、ルーフには感謝していますよ」
ふと、ルカイアの視線が窓辺に流れる。透明なガラス花瓶に活けられた白いルーフが、美しく咲き誇っていた。
「こんな会話をしているのに、ルーフは白いままです。少し面白くありませんね」
「ルーフは素直だ。今もおまえが敵ではないと知らせてくれる」
「……腹が立ちます。わたしの心を、たかだか花一輪に示されるなど」
白いルーフは、ツェイルが拉致されたときから、常に部屋のどこかに置かれるようになった。ツェイルやサリヴァンの身の危険を、いち早く察してくれるだろうという目的からだ。
「おれの周りに咲くルーフは、いつも赤かった……いつもおれは、ルーフに心配されていた。だから、ラクが斬られたときも、わからなかったんだ。血だらけでおれのところにラクが来て、それで漸く、ああそのときが来たのかと思ったんだが……」
サリヴァンが、遠いものを眺めるような瞳で、白いルーフを見つめる。
「ラクを死なせるわけには、いかなかったからな。死のうとしていたラクが、天恵術師として帝国に認められ始めていたから……」
「ラクウィルが斬られたのは、あなたのせいではありませんよ。あれはラクウィルが、あなたの名前を出したからです」
「おれの騎士だって? はっ、ばかだよな……おれのことなんか、捨て置けばよかったのに……自分のことだけ、考えていればよかったのに」
笑うサリヴァンが、とても虚ろに思えた。それは夢現で暴れていたときと同じような虚ろさで、ツェイルは恐怖した。
「サリヴァンさま……っ」
そんな顔をしないで、としがみつけば、サリヴァンはふっと優しい笑みをツェイルに向けた。
「だいじょうぶだ、ツェイ。おれはもう諦めた」
「……諦めた?」
「ラクをおれの歪んだ人生に引きずり込むこと……おまえのことも、な」
「歪んだ……?」
なにが歪んでいるというのか。
「ルカが言うには、十八年だそうだ」
「……その数は、なんですか」
問う声が震えた。それはサリヴァンが、ただひたすら優しく笑むからだ。
「淡の塔、という離宮に、幽閉されていた時間だ」
「幽閉……?」
誰が、と言う前に、気づいた。
「おれだよ」
サリヴァンが自ら、さらりと言う。
「よくわからないが、十八年、おれは淡の塔に幽閉されていたらしい。外に出たのは、五年前のことだ」
「サリヴァンさまが……なんで」
「まあ、おれにはそんな自覚なんてないから、かなり自由だった。なにせ、フェンリスがいたからな。思いっきり自由ではあったが、人目についてはならないことはわかっていた。だから、近場の街とアウニの森以外には、行ったことがない。外、というのは、塔を囲む城にいた者たちのことだ」
ただ微笑むサリヴァンから、その事実を聞くのは違和感があった。
笑って言えることではないと、ツェイルは思うのだ。おそらくこの場でツェイルと同じ気持ちなのは、サリヴァン以外の者たち、つまりルカイアやリリ、ハルトだろう。
なぜ、笑っていられるのだ。
父に斬られた、と右腕の傷のことを明かしたときもそうだったが、どうしてこの人は、そういうことを笑って言えるのだろう。
「……どうして、サリヴァンさまが」
この人は皇帝で、国主だ。そうなる前は、皇太子であったはずだ。大事にされることが当たり前であるのに、なぜ十八年もの間、幽閉されていなければならなかったのだ。なぜ父親に、剣で斬られねばならなかったのだ。
「ツェイ、そんな顔をするな……おまえに表情があるのは嬉しいが、そんな顔は見たくない」
自分がどんな顔をしているかなど、ツェイルにはわからない。けれども、それを言うなら、無理もなく笑んでいるサリヴァン自身のほうをどうにかしてもらいたかった。
笑ってなど、いられないことのはずなのに。
「なにも悲しい話などしていないだろうが」
そういうサリヴァンの瞳は、とても澄んでいる。
ああそうか、この人にとってそれは当たり前の日常だったのか。
そう気づいた。
慣れ、というものを感じる前に、ツェイルもそうであるように、誰しも日常には疑問を感じないものであるから、それらは疑いようがない。
サリヴァンは、生まれたときから幽閉されており、それが日常であったから、疑問にもならなかったのだ。慣れを感じるまでもなく、当たり前のことだったのだ。むしろ今が異常であるとさえ、サリヴァンは感じているのかもしれない。
けれども。
「寂しく、なかったのですか」
「ん?」
「悲しく……なかったのですか」
ツェイルはきょうだいが多い。両親もいた。仕えてくれている人たちも、一緒に仕事を手伝ってくれる人もいた。いわば大家族の中で、ツェイルは育った。
孤独を感じたことはない。
天恵があっても、それは兄と同じものであるから、孤独というものは感じなかった。
しかし、サリヴァンはどうだろう。
「悲しくはなかったな……たぶん、寂しくもなかったと思う。猊下やアルトファル、フェンリスがいたし、途中からラクも一緒だったからな……むしろ今のほうが悲しくて寂しいことが多い」
「今……?」
ふっと、サリヴァンは苦笑した。
「おまえがそばにいないと、悲しいし寂しいんだ」
「え……」
「ずっとそばにいたいのに、国主だからって、政務に引っ張り回される……これなら、塔にいた頃のほうが自由だった。まあ、今も塔にいたら、おまえには出逢えなかったわけだが」
おまえに逢えない日々が続くのは苦しい、とサリヴァンは言って、そうして顔を近づけてくる。
息がかかるほど近づいたかと思ったら、気づけば唇を塞がれていた。
「んっ……?」
なにが起こったのかと、頭がそれを理解しようとする前に、サリヴァンの顔は離れていく。呆然としていたら、サリヴァンはくつくつと笑い出した。
「可愛いな、ツェイ」
口づけされたのだ、と気づいたときには、また塞がれていて。
「んむ……っ」
さっきは触れるだけだったのに、ぺろりと上唇を舐められたことに驚いて口を開けば、熱いものに侵入されてしまった。それどころか蹂躙され、呼吸もままならないほど、貪られているかのように吸われた。
「ふっ……」
サリヴァンが漸く離れていったとき、ツェイルはぐったりとしていた。
口づけされたことに羞恥を感じるも、それを凌駕するほどの胸の高鳴りに、自分でもどうしたらいいかわからなくなった。