35 : 閉ざされた世界は嘲笑う。4
幾日ぶりだろう。
そう思ったツェイルの目の前に、ゆったりと笑ったサリヴァンがいる。ただ、その表情に上手く隠された疲労を、ツェイルは見逃さなかった。
「サリヴァンさま……」
ツェイルは迷わずサリヴァンに駆け寄り、その頬に手のひらを添えた。
「久しぶりだな、ツェイ」
微笑み続けるサリヴァンは、ツェイルの手のひらに安堵したように擦り寄ってきて、己れの手を重ねる。その仕草は優しくて、暖かくて、だから余計にツェイルは不安に煽られたが、心底嬉しそうに微笑むサリヴァンにそれは言えなかった。
しばらくそうしていたサリヴァンは、やはりツェイルが案じていたとおり、長椅子に案内しようとした瞬間には前のめりに倒れた。
「サリヴァンさまっ」
当然だが支えきれず一緒に倒れたが、倒れた先にはふかふかの絨毯があったのでその衝撃も少ない。ツェイルは慌ててサリヴァンの呼吸を確認し、その寝息が聞こえてから、ホッと息をついた。
自分のところに、休みにきてくれた。
そう思うと嬉しくて、ちょっとだけ体勢は変えたが、そこから動く気にはなれなかった。
「ツェイルさま、ハルトさまがいらっしゃいまし……、陛下っ?」
扉を叩いてすぐ姿を見せたリリが、サリヴァンがいることに驚いて声を上げた。咄嗟に「静かに」とは言ったが、こうして倒れたときサリヴァンが何をしても起きないことは知っている。
「サリヴァンさまがいるのですか? それならちょうどいい……って、おや?」
リリに続いてひょっこりと顔を見せたのは、このところ毎日のように診察に訪れてくれるハルトだ。
「ツェイルさまの前では爆睡するって……本当だったんですね」
ハルトはそう言いながらそばに寄ってきて、サリヴァンの脈や体温を診る。
「相変わらず低温……熱出されたら怖いですねえ」
ぶつぶつ言いながら、サリヴァンが目覚めない今のうちにと、ハルトは触診して体調を把握していく。
「痩せましたね……きちんと食事も摂っていただかないと……ああ、腕が強張っていらっしゃる……揉んで差し上げないと」
あまり診ることができないのか、ここぞとばかりに診察したハルトは、ツェイルを促してサリヴァンを長椅子へと運んだ。とはいえ、ツェイルでは体格的に無理なところがあったので、近くにいる近衛騎士を呼んだハルトに任せての移動だった。
サリヴァンが眠りながらもツェイルを離さなかったので、体勢が崩れないようにしながらツェイルも一緒に移動した。
「この深い眠りはツェイルさま限定ですね……」
「そうですか?」
「眠っていてもツェイルさまを離さないなんて……さすがとしか言いようがありませんよ」
「はあ……」
よくわからなかったが、とりあえずツェイルはサリヴァンを膝に抱えて長椅子に座り、今度は自分がハルトの診察を受ける。
「調子はいかがです?」
「視界の狭まりは、消えました。けれど、まだ違和感は……」
「うーん……となると、あの薬が目に入った可能性は否定できませんね」
「そうは、感じなかったのですが……」
「毒にもなるものだと、言いましたでしょう? あの薬は睡眠を促すだけだと思われがちですが、実は神経を麻痺させるものです。神経を麻痺させられるから眠くなるのであって、その感覚すら本当のところは違うのです」
「そ……そうなのですか」
「エカリプトという草の根が、そういう効果をもたらすのですが、そこにナガタリという草を混ぜると、効果を促進させてしまうのです。ナガタリ単品はそれほど強くない睡眠誘発ですが、エカリプトと混ざると相乗効果が起こるようで、そこにさらにスールを混ぜると……」
ちんぷんかんぷんな説明なので、ツェイルはそれらを聞き流すことにする。毒薬に関してはそれなりの知識があるものの、その分野は姉テューリが得意とするもので、ツェイルはあまり覚えていないのだ。
「と、いうことなので、油断は禁物だと申し上げたのです」
漸く終わった、と思った頃には、半時が過ぎていた。ハルトの説明にはリリも飽きていたようで、ツェイルにお茶を用意して自分も飲んで寛いでいたくらいである。
ハルトが勉強熱心であることは、充分に理解できた。
「今の目薬は継続しましょう。視界の狭まりが消えたのなら、効果はあるということです。身体に合わない、ということはないようなので、徐々に回復するでしょう」
はい、と目薬がリリに渡される。日に四回、目に直接液体を垂らす治療は、ツェイルが自分ではできないので、リリに任されていた。
「はい、ツェイルさま、力を抜いてくださいねぇ」
「うう……異物が」
「なんでもないですよ。わたしを見ていてください」
「そ、そうしている、つもりだが……っ」
どうも、垂れてくる液体を中途半端に見てしまうので、ツェイルは目薬が苦手だ。液体が目に垂らされると、僅かに滲みるのもいただけない。
「うひゃ……っ」
痛い。
それなのに治るのだから、医学は素晴らしい。
「ううー……」
「ツェイルさま」
生理的にこぼれた涙をごしごしと拭ったら、肌が痛むからとリリに柔らかな布を手渡される。それを受け取り、涙を拭いつつ滲みる痛みと戦った。
ふと、目許を押さえていた手に、誰かの手のひらが重なった。
「ツェイ……?」
サリヴァンだ。
起こしてしまったのかと、ツェイルは慌てて目許から布を離した。
そうして、息を呑む。
「泣くな……ツェイ」
サリヴァンが、今にも泣き出してしまいそうな笑顔で、ツェイルをじっと見つめながらそう言った。
「おれがいる。な、ツェイ……だいじょうぶだ。おれがいるから」
「……サリヴァンさま」
「おれが、ずっと、そばにいるから……泣かないでくれ」
サリヴァンの、透明感の強い碧い瞳は潤んでいて、泣いてしまいそうなのに微笑んでおり、それはツェイルをひどく驚かせた。
「もうだいじょうぶだから……おいで、ツェイ」
伸ばされた手のひらが、ツェイルの頬を撫でる。持っていた布をぽとりと落としてしまったあとは、グッと強く引かれ、両腕で頭を抱え込まれた。
サリヴァンが寝ぼけているのだと気づいたのは、このときだ。
「ツェイ……ツェイ、おれの、可愛いツェイル」
ぼっと、顔が熱くなる。心臓が高く跳ね上がる。
「さっ……サリヴァン、さま」
寝ぼけてなにを言うのかと慌てるが、その羞恥を上回る嬉しい言葉が、ツェイルの胸をしめつける。
これはさっさと寝つかせてしまわなければ、心臓がもたない。
「ね……眠って、ください。わたしは、だいじょうぶ、ですから」
「……ツェイ?」
「だいじょうぶ、です。だから、眠って、ください」
「……頭がな、ふわふわするんだ。なあ、ツェイ……おれは、眠いのか?」
首に巻きつかせて、ツェイルの頭を抱えていたサリヴァンの腕が、ゆっくりと解かれる。予想以上に近くにあるサリヴァンの顔に、ツェイルはますます顔を火照らせた。
「ね、眠いのです。だから、眠って」
「いやだ」
「さっ、サリヴァンさま」
「いやだ」
ふと、その眼が虚ろになった。
「……サリヴァンさま?」
急にどうしたのだろうと、ツェイルは頬に熱を感じながらもサリヴァンをじっと見つめる。
ツェイルを見ていたはずの眼が、虚ろなまま彷徨い始めた。
「……くるな」
「え?」
「くるな…っ…やめろ」
震えた小さな悲鳴が、サリヴァンから紡がれる。
虚ろな眼は、もうツェイルを見ていなかった。
いや、どこも見ていなかった。
「いやだ、なんで……っ」
さすがのツェイルも、サリヴァンの様子がおかしくなったことには気づく。
「サリヴァンさま?」
虚ろな眼は、現実を見ていない。夢現のまま、別のものを見ている。それは目の前のツェイルが見えないほど強力なもので、そして恐れるているものだ。
「なんでだ…っ…もう、やめろよ」
「サリヴァンさま」
「あ……あ、あ……っ」
息を詰め、小さな悲鳴を上げて、サリヴァンは宙に腕を伸ばす。見ていられないほどそれは痛ましくて、思わずツェイルはサリヴァンを両腕に抱き込んだ。
この人はなにを見ているのだ。
なにが見えているのだ。
いったいどんな恐怖の中に、いるのだ。
「サリヴァンさまっ」
「いやだ……ぁ」
もがいたサリヴァンは宙を掻き、呼吸を忘れてしまったかのように短く息を切らせなら、断続的に小さな悲鳴を上げて、ツェイルの腕の中で暴れる。
それでも、ツェイルは辛抱強く、サリヴァンを抱え続けた。次第にその暴れ方がひどくなり、ひとりでは抑えきれなくなっても、ツェイルはサリヴァンから離れなかった。
サリヴァンがなにかに怯えている。
怯えて、恐怖に支配されている。
それがわかったから、離れられなかった。
恐怖からサリヴァンを、護りたかった。