32 : 閉ざされた世界は嘲笑う。1
目覚めるとやはりサリヴァンは隣におらず、なんというか、もの寂しさを感じたツェイルは、起きがけに深々とため息をついてしまった。
よく眠る人だと思ったのはいつのことか。
「どうしました、ツェイルさま?」
起こしに来てくれたリリに心配げに問われて、ツェイルはなんでもないと首を左右に振る。
「ただ……サリヴァンさまがおられないな、と」
あの雨の日から、ツェイルはサリヴァンとは一緒に眠っている。
なにかを恐れるようにツェイルを離さないで眠るサリヴァンだが、朝になるとその姿はなく、また日中も姿を見せない。政務が忙しいのだというのはわかるし、その中で夜はきちんとツェイルと一緒に休むのでいいのだが、ツェイルの心情は複雑である。
「公子の、いえ元公子のキサネさまのことがありますし、シェリアン公国にはサグザイール公爵が大公としてお立ちになると決まりましたからね……今少し忙しいかと思われます」
わかっている。
今がとても忙しいのだと、それはわかっている。
隣国シェリアンの問題のほかに、通常の政務もあるのだから、その忙しさが倍増しているのだということは、容易に想像できることだ。
それでも、ツェイルは思ってしまうのだ。
朝も隣にいてくれたら、と。
「今日は天気がいいので外に出ましょうか、ツェイルさま!」
たびたび深いため息をついたツェイルを励ますように、リリがその提案をくれた。
「出てもいいのか?」
「ええ。そこの森までなら。そろそろ調子も戻られたでしょうし、ツェイルさまさえよければ外に出てもいいと、お医者さまにも言われました」
それなら、とツェイルはパッと、寝台の横に立てかけてあるはずの銀の剣を振り返って、ハッとなる。
銀の剣は、奪われたままだ。
「ツェイルさま?」
「……剣が」
「けん?」
「わたしの、銀の剣が……」
あるはずの場所に、それがない。
胸にぽっかりと穴が空いたような喪失感に、ツェイルは動けなくなった。せっかくリリが外へ出ようと提案してくれたのに、それがいやになるほどの失望感がツェイルを襲う。
不意に、涙が込み上げてきた。
「……ぅ」
ここに来てから、泣くことを覚えたせいで、泣いてばかりいるような気がする。もちろんこらえることも覚えたので、頬からぽろぽろと涙がこぼれ落ちるだけで、ツェイルは声を抑えた。
「ツェイルさま……っ」
「うっ、く……わたしの、剣……ない」
剣がない。
それを口にして、ますます悲しさが込み上げてしまい、寝台に突っ伏した。
サリヴァンがわざわざ誂えてくれたもの。
サリヴァンが贈ってくれたとても大切なもの。
ツェイルを騎士にするその証。
奪われたまま、取り返すことができなかったことが、悔しくて悲しくてならなかった。
ツェイルは寝台に突っ伏したまま、どれくらいそうしていたのか。涙が止んでも、すぐにまた涙が溢れ、止め処なくそれを繰り返した。
「ツェイ……」
その声が聞こえたとき、ツェイルはびくりと身体を震わせた。
「いつまで泣いている……リリが困っているぞ」
ぎし、と寝台が軋む音がし、続いて背中に手のひらを感じて、ツェイルは慌てて掛布を握ったまま寝台の端に逃げた。
どうやら、泣き続けるツェイルに困り果てたリリが、その原因となったものの贈り主を呼んだらしい。
「……、ツェイ」
手のひらが自分を追いかけてきた。ツェイルはさらに逃げようとして、寝台から落ちる。身体に感じた衝撃を思うことなく、体勢を整えると部屋の隅まで逃げた。
「ツェイ、こら」
逃げても追いかけてくるので、どうしようかとさらに慌てたツェイルだが、掛布を握ったまま逃げていたので、それに躓いてしまった。
ぼふ、という音が聞こえたと思ったとき、ツェイルはけっきょくその腕に捕まったうえに、一緒に転んでいた。いや、転んだから捕まった。
「逃げ足の遅い姫だ」
くつくつと笑う声がした。もちろんツェイルは顔など上げられるわけもない。
「可愛いな、ツェイ」
どきっ、とした。
可愛いだなんて、兄と姉以外に言われたことがない。
「なんだ、もう逃げないのか?」
そうだった、と思い出したところで、意味はなかった。その腕はしっかりとツェイルを捕え、離すまいとしている。
「逃げても無駄だ、ツェイ。おれはおまえを手放さないと決めている」
言うなり、グッとその体温が近づく。
え、と思ったときには、頬にその感触とぬくもりがあった。
それは触れただけの口づけ。
「ツェイ……」
ぱっちりと開いた目に映るは、見慣れたサリヴァンの顔。
優しく笑み、神々しいほどまでの美しさをたたえながら、見つめずにはおれないほどの魅力に溢れている。
「目が真っ赤だ……可愛いな、ツェイ」
それは誤魔化しているのではなく。
困ったように、けれども嬉しそうに、サリヴァンはさらに言い募る。
「可愛い」
どうやらそれらは幻聴ではないらしいと悟ると、ツェイルは瞳がこぼれ落ちんばかりに瞠目し、次いで耳まで真っ赤になった。
「さ…っ……サリヴァン、さま」
思わず声が裏返ってしまうほど、ツェイルは心臓を高鳴らせた。
「ん?」
小さく首を傾げる、そんな優しいサリヴァンの仕草が、たまらなくツェイルの胸をきゅっと締めつける。
だから、止まりかけていた涙が再びポロリとこぼれ落ちたのは、サリヴァンへの募る想いに感極まったからだった。
「ツェイ……まだ泣くのか」
「う……っ」
この涙は、悲しいからではない。
ツェイルは泣き顔を見られまいと、その想いをこぼすまいと、自らサリヴァンに抱きついて顔を胸に押しつけた。
「……ツェイ?」
心配げな声を出すサリヴァンに、ツェイルはぎゅうっと強くしがみつく。微かに聞こえるサリヴァンの心音は、とても安心できる音だった。
ぐすぐすと泣いていたツェイルはそれからしばらくぐずついていたが、まるで子守唄でも聞かせるかのようにサリヴァンに優しく背を撫ぜられ続けると、次第にその興奮も治まってきた。
「落ち着いたか?」
問われて、まだ顔は胸に押しつけていたけれども、ツェイルは小さく頷く。
ふと気づけば、ツェイルが抱きついているというよりも、サリヴァンに抱き込まれるように、ふたりして床に座り込んでいた。それも、部屋の隅のほうで、だ。
「なにが……悲しくて、泣いていた?」
いつもより近く聞こえる声は、ツェイルを労わるように静かだった。
「……けん、を」
「ん?」
「けんを……なくし、ました」
思い出すとまた涙が溢れそうになったけれども、サリヴァンの「そうか」という声はひたすら静かで、穏やかで、たまらなくツェイルを安堵させるものだった。
「失くしたことが、悲しかったのか」
「……はい」
「それなら、もう泣くな。ここにあるから」
「え……?」
まさか、と驚いて顔を上げれば、目の前にあるのはサリヴァンの微笑みで。
促されて向けた視線の先には、ツェイルの銀の剣があった。
「ちゃあんと、見つけましたよ」
ラクウィルが差し出してくれたそれは、確かにツェイルの銀の剣だった。
幻覚ではないよなと、そろそろと腕を伸ばして触れてみれば、ひんやりと手に馴染んだ感触がする。
「わたしの……けん」
ああ、確かにこれは、わたしの剣だ。
よかった、この手に戻ってきた。
喜びが込み上げてきて、ツェイルは銀の剣を受け取ると抱きしめた。
「ん……よかったな」
「はい……っ」
小振りな剣は、以前と変わることなく鈍色に輝き、ツェイルの腕に収まる。
護りたいものを、大切なものを、いとしいものを護れる力が、その証が戻ってきたことは、ツェイルを想像以上に安堵させた。
と、そのときだ。
コンコン、と寝室の扉が叩かれ、控えていたリリが出迎える。そうして、ルカイアが慌ただしく姿を見せた。
「ご歓談中のところ、大変申し訳ありません。陛下、至急お戻りください」
ルカイアの入室にサリヴァンは顔をしかめたが、ルカイアがそれを気にかけるはずもない。
「今日の分は、さっきので終わりだと思ったが?」
不機嫌にそう言っても、ルカイアは引かなかった。
「ツァインが戻りました」
瞬間、なぜかサリヴァンの表情が凍りつく。ツェイルは兄の名が出てきたことに驚いたが、それよりもサリヴァンの様子のほうが気になって、思わずその腕を掴んだ。
「サリヴァンさま……?」
「あ……いや、なんでもない」
サリヴァンはすぐに表情を取り繕って微笑んでみせたが、どこか違和感があった。
「兄が、なにか?」
「頼みごとをしていた。だが、こんなに早く片づけてくるとは思っていなかったものだから、驚いただけだ。心配ない」
「本当に?」
「ああ。だいじょうぶだ。すまないがツェイ、もう少しだけひとりにさせてしまう。リリと一緒に、待っていてくれ」
その言葉に嘘はないようだけれども、表情には嘘があると思った。
しかし、サリヴァンはツェイルにさらなる問いを受ける前に立ち上がってしまい、ツェイルも立たせて寝台に促すと、慌ただしくラクウィルと一緒に寝室を出ていってしまった。
「夜までには戻る」
去り際にそう言うと、無情にも扉は閉められ、ツェイルは取り残されてしまった。