31 : 侍従長散録。
ラクウィル視点です。
おそらくそこは、誰の目も届かないような場所だった。
『……なにをしているんだ?』
『死ぬの待ってるの』
『……ここ、墓場なのか?』
『たぶん違う。ただの森だと思う』
『アウニの森だ』
『ふぅん? 地名なんて知らないからなぁ』
『……で、ここで死ぬつもりなのか?』
『そう。だって帰るところないし、生きるのも大変だからね』
歩き疲れたから、適当な木の幹に寄りかかって休んでいただけだったけれども、このまま死んでもいいかと思って瞼を閉じていた。だから話しかけられても、視界は暗いままだった。
『帰るところがないなら、おれのところに来るか?』
『いい。言ったでしょ。生きるのも大変なんだって』
『なんで?』
『おれ、天恵者だからさ。どこに行っても、この天恵のせいで煙たがられてね。ついには親にまで死なれちゃったから、子どものおれがひとりで生きるには難しくなっちゃったわけ』
『この世界、ラーレに広がり散らばりし天恵に、忌避すべきものなどないぞ』
『法則から外れた天恵者でも?』
『法則に従わない天恵者もいる。そもそも、法則などというものは人間が勝手に定めたものだ。精霊と契約するのは、その力が増すという特典があるというだけのこと。必要ないなら、契約などしなくてもいいものだ』
『へぇ……』
そんなことを言う人は初めてだった。だから、閉じていた瞼を上げ、興味本位にその人物を見てみた。
自分と同じくらいか、それより少し歳下くらいの少年だった。
『……子どもだ』
思わずそう言えば、少年は怪訝そうに首を傾げた。
『おまえも子どもだろ』
そのとおりだ。
『おれ、たぶん十歳くらいなんだけど、そっちは?』
『おれもそれくらいだ』
『なんであやふや?』
『数えたことがない』
『……そうか。まあ、おれもはっきり数えたことはないけど』
随分と綺麗な身なりをしているから貴族かと思ったのだけれども、貴族ならきっちりと誕生日くらい祝うはずであるから、数えたことがないわけがない。
どうやら少年は貴族の常識から外れているようだ。
『なあ、おまえのその髪と眼、元からか?』
いきなり少年にそう問われて、一瞬なんのことかわからなかった。
『うん、たぶんそうだけど』
『……ちょっと、来いよ』
『なんで』
『帰るところがなくて、死ぬの待ってるだけなら、ちょっとくらいつき合ってもいいだろ』
『……まあ、確かに』
死を待つにしても、動けないほど空腹というわけでもなく、おそらく時間がかかるだろうから、動けなくなるまでならつき合える。それに、そうなるまですることもない。
『養父上の召喚獣で来たから、すぐに着く。来いよ』
少年に手を差しのべられて、まあいいか、と安易にその手を取って立ち上がり、自分より小さかった少年に引っ張られるようにして向かった先で、早くも失敗したと後悔した。
『……なに、このでかい鳥』
『養父上の召喚獣だ。フェンリス、こいつを連れて行く。いいか?』
少年は、大木よりも少し小さいくらいの、それでもおとなが軽く数人は乗れるだろう白い大鳥を前に、怯むことなく歩み寄る。引っ張られているほうとしては迷惑な行為だ。
『ついに人間を拾うたか……われはよいが、責任は持たぬぞ』
『養父上にはおれが言う。乗せていいか?』
『転ばぬようにな』
巨大な鳥は、人語まで解していたから、おそらくこういう動物が魔とか呼ばれる生きものなのだろうと解釈した。
『乗っていいぞ』
『簡単に言ってくれるなぁ』
『怖いのか?』
『見たことない生きものだし』
『フェンリスは聖獣だ。動物にも天恵があるのは知ってるだろう』
『え、そうなの?』
知らなかった。
『魔も、けっきょくは天恵を持つ動物だ。大抵が黒いから魔と呼ばれるが、白ければ聖だ。天か地か、どちらかの意味で魔と聖は分かれる。それだけの違いだ』
『へぇ……もの知りだな』
『そういうわけでもない。知らないことは多くある』
それでも自分よりは賢い少年だと思った。
『行くぞ』
『いいけど。どこに行くんだ?』
『おれが住んでいるところ』
『え、なんで』
『おれも、死ぬの待ってるから』
それは意外な言葉で、けれども少年の瞳は自分と同じくらい虚ろだということに、そのとき気がついた。
『べつにひとりで待たなくてもいいだろ。ふたりでも同じだ。それに、ふたりでいればなにか楽しいことがあるかもしれない』
『そうかなぁ』
『たぶんな』
そのときは、ただの時間潰しが目的で、少年について行った。フェンリスという名の大鳥の乗り心地はよく、落ちる不安も感じさせないほど安定していて、空から街を眺めるという余裕すらあった。
そうして、フェンリスに乗せられて降り立った、少年が住んでいるというところは、どこかの森の中にある塔のような城だった。
やはり少年は貴族であるらしい。しかし、そのわりには塔の周りに人気がなかった。
『やけに静かだな……誰もいないのか?』
『おれと養父上と、アルトファルがいるだけだからな』
『母さんは?』
『知らない。逢ったことないから』
『え』
『……なんだよ、その顔』
『だって貴族だろ、おまえ』
貴族の子どもは、親に可愛がられるだけ可愛がられるものだと思っていた。だが、父親はいるようだけれども、母親がいないというのは、とても不思議なことだった。
少年は気だるげにため息をつく。
『……とりあえず皇族だ』
思わず吃驚して、目を見開いた。
『おっ……皇族だってっ?』
皇子なのか、皇子だから身なりがいいのか。
だが、少年は相変わらず虚ろな眼差しをしている。
『とりあえず、な。それより、おまえ沐浴しろよ』
『なんだよ、その言い方! ……って、もくよく?』
『あー……湯浴み? 水浴びの暖かいやつ』
『水浴び……なんで?』
『汚いから』
行くぞ、とまた少年に手を引っ張られて、少年が皇族であることやその行動に驚きつつも、気づけば湯を浴びせられ洗われて、遊ぶように少年と沐浴とやらを楽しんでしまっていた。
『ふぅん……やっぱりおまえ、おれと同じ色だな』
『同じ色?』
『髪だよ。瞳も』
沐浴し終わって、身体も拭いて綺麗な服を着せてもらってから、少年はそう言った。
『おまえ、おれと同じ色だ』
『……そうか?』
自分の髪や瞳の色など、気にしたことがなかった。確かに周りとはちょっと違うような気はしていたけれども、持っている天恵が法則から外れているものだという自覚があったので、そのせいだと思っていた。いや、このときもそう思っていた。
淡い金色の髪と、透明感の強い碧い瞳。
自分もこの色と同じなのかと思うと、まるで少年と同じ存在になったかのように感じる。同じ色、というだけのことでそれは大袈裟なことなのかもしれないが、差異を見つけるよりもそれは簡単なことだ。
だから、気づいたときには少年に声をかけていた。
『……おまえ、なんていうの?』
『なにが』
『名前だよ。おれはラクウィル。ラクでいい』
『ラク?』
『そう。おまえは?』
『……サリヴァン。養父上には、そう呼ばれる』
『サリヴァンか。よろしくな、サリヴァン』
『……よろしくって、死ぬまでか?』
『そう。死ぬまでよろしく』
ん、と挨拶の基本である手を差し出せば、サリヴァンという名の少年は虚ろな眼差しでそれを眺め、そうしてふっと笑った。
『……そうか、死ぬまでか。それもいいな。よろしく、ラク』
初めて見たサリヴァンの笑みは、おとなびた柔らかなものだった。だからラクウィルは、同じように笑った。
この少年となら、一緒に死んでもいいと、そう思ったのもこの笑顔を見た瞬間のことだった。
それから十年と少しが経った今でも、その気持ちは変わることがないくらいには、ラクウィルは生きることを楽しむようになっていた。
いとしくていとしくてならない存在を腕に抱いて、まるで離れまいとするようにしっかりと腕を絡めて一緒に眠っている姿を見れば、生きてそういう存在に出逢えたことに感極まって泣きたくなる。
「よかったですねえ……サリヴァン」
ラクウィルはにこにこと、ツェイルを腕に抱いて眠るサリヴァンを眺めた。
虚ろな眼差しをしていた少年は、あの塔を出てからも虚ろなままだった。けれども、今はどうだろう。命を投げ出していたあの頃とはまるで違う雰囲気の中に、ラクウィルが死を預けた少年はいる。
「ほんと、よかったですよねぇ」
ラクウィルと一緒になってふたりを見ていたリリが、ほんわかと笑っていた。
「リリもそう思います?」
「はい。わたしはそれほど陛下を存知上げているわけではありませんけど、いつも表では笑ってばかりで、ふとした瞬間に寂しげにしていらっしゃる姿を見ていましたから、ツェイルさまとご一緒にこうしていらっしゃる姿を見るのは、とても嬉しいです」
「おれもねぇ……サリヴァンのこういう、子どもみたいな姿を見るのは、すごく嬉しいんですよ。ずぅーっと、おとなびた姿しか見てないですからねぇ」
「陛下って、ツェイルさまの前だと子どもっぽいですよね」
「まあ、姫がまだ子どもだから、それにつられて子どもっぽくなるだけなんでしょうけどね」
それでも、とリリは言う。
「帝位をお預かりしたときに比べたら、今のほうが断然、子どもみたいですよ」
「ああ、あの頃はねぇ……まだ外に出たばっかりでしたから」
「外?」
「ん、こっちの話です。さて、ふたりは眠っちゃいましたし、おれたちもご飯にしますかね」
「あ、そうでした。侍従長はこちらでお食べになりますか?」
サリヴァンとツェイルがふたりして眠る寝台から離れたリリが、慌てて隣へ続く扉に向かう。ラクウィルは「急がなくていいですよ」と声をかけ、座っていた椅子を離れた。
寝室を出る前に、もう一度、寝台を振り返る。
『おれの歪んだ人生につき合わせて、すまない』
そう謝られたときの記憶が蘇った。
あのときは答えなかったけれど、べつに答えられなかったわけではない。
「ふたりなら、なにか楽しいことがあるかもしれないんでしょう?」
幼い頃のサリヴァンはそう言った。
「楽しいこと、たくさんありましたよ。今も……ね」
扉を開けて、そこで機敏に働くリリの姿を見て、ラクウィルはただただにっこりと笑むと、寝室をあとにした。




