26 : それは赤い花びら。4
流血描写、残酷描写あります。
充分にお気をつけください。
アルミラ視点です。
夜会でそれを見たとき。
アルミラ・ウェル・ナルゼッタは、全身から血の気が引く思いをした。
「……なによ、あれ」
本当ならアルミラが皇帝陛下の隣にいて、その愛を、その権力を手に入れているはずであったから、ぽっと出の、それも生粋の貴族でもないメルエイラ家の小娘が陛下の隣にいるのは、ただもうひたすら腹が立つことだった。
あまりにもあり得ないことに、頭が沸騰した。
アルミラに魅力がないせいだと、父であるナルゼッタ侯爵に愚痴られたことも、アルミラには充分な憎悪を抱かせることだった。
アルミラが、このままでいいはずがないと思うのは当然のことだ。なにもしなければ自分がおかしくなるのではという、そんな錯覚まで起こしても当然だ。
そんな中で、ツェイルを城から連れ出したのは、思いつきだったと言える。
夜会にメルエイラ侯爵家当主ツァインが参加していなかった。
それが、アルミラに好機を思わせた。
ツァインが倒れたことにすれば、もしかしたらツェイルが誘いに乗るかもしれない。夜会はシェリアン公国の公子を狙った刺客によってめちゃくちゃにされたこともあるし、この騒動に乗ずれば城から出るなど容易い。中央の門を自分はその権力で通ることもできる。
自分の行動を後押ししているかのように思えてならなかった。
だから、その通りに動いた。
動いて、罠にツェイルがかかったときには、ひとりほくそ笑んだ。
それからは単純に、自分の侍女に命令して、傭兵を雇った。
どうせ貧相なその身体では陛下の閨の相手などできないのだから、傭兵に純潔を奪わせて道端に放り投げてやればいい。
最高の憂さ晴らしだ。
アルミラは笑った。
厩に転がったツェイルを見たときは、たまらなく心地よかった。
どうやったのか逃げ出されても、けっきょくは捕まえることができたし、メルエイラの《白紫の双剣》だと知っても、劇薬になるそれを浴びせてやったら動けなくなっていた。どうやら目が見えていない様子ではあったが、アルミラにはツェイルの体調など関係ない。
最高に気分のいい憂さ晴らしができた。
これ以上ないというほどに、上機嫌になった。
だのに。
「アルミラっ……おまえ、なんてことをしたのだ!」
「あら、お父さま……なんのことです?」
「陛下の婚約者だ。メルエイラの娘だ。なにをした!」
優雅にお茶を飲んでいたところへ、父ナルゼッタ公爵が血相を変えて飛び込んできた。
「なにとは……お連れしただけですけれど?」
「ゴロツキ共とおまえの侍女がひとり、死んでいるのだぞ!」
「……、え?」
アルミラには理解できなかった。
「あれを見なかったのか!」
「……お父さま、なにをおっしゃっているのです?」
「メルエイラ家は天恵を持つ一族だ。昨夜の夜会で、その天恵を見なかったのか!」
「天恵……?」
「あぁ……なんてことだ。議会がメルエイラの娘を承認したのは、あの力だ……あの力があったから、メルエイラの者が陛下のそばに置かれたのだ……っ」
慌てふためく侯爵を、アルミラは首を傾げて見つめる。なにをそんなに慌てているのか、わからなかった。
「とにかく、とにかくだ! 早くメルエイラの娘を、いや妃殿下をお返ししなければ……わたしたちが殺される」
殺される、という単語に、漸くアルミラは瞠目した。
「なぜわたくしたちが殺されなければならないのです!」
「おまえ、妃殿下になにをした」
声を低くした侯爵の剣幕に、アルミラは息を呑む。
「妃殿下をここへお連れして、なにをしようとしたのだ」
「……、なにも」
「なにも? では、あのゴロツキ共はなんだ。奴らが死んでいるのはなぜだ。侍女が死んでいるのはなぜだ。妃殿下に、天恵を使わせるほどのことを、したのではないのか!」
侯爵の剣幕は、アルミラにその疑問を理解させるほどのものだった。
「メルエイラの娘が……天恵で傭兵たちを殺めたと?」
「怒りでわれを失っている」
「……まさか」
ツェイルが天恵者。
まさか、そんなわけがない。
ただの貧相な小娘だ。生粋の貴族でもないのに、宰相の推挙を幸運にも受けられただけの、野蛮な人間だ。
アルミラは慌てて自室を飛び出した。
一目散に、ツェイルを閉じ込めた奥の客室に向かう。後ろを侯爵が追ってきた。
「アルミラっ、よせっ、これ以上、妃殿下に刺激を与えるな!」
なんの刺激だ、と思った。
侯爵はなにを案じているのだ、と思った。
アルミラに天恵はないが、その地位は、権力は、皇族にも匹敵するものなのだ。そんな自分を傷つけられる者など、いない。
だが。
足を進める方向から、嗅ぎ慣れない匂いが漂ってきて。
使用人たちが凍りついている姿が見えてきて。
「なりません、お嬢さま!」
侍女のひとりに引き留められて、足を止めたとき。
アルミラはとんでもないものを目にした。
「なによ……これ」
壁一面に、赤い塗料が広がっている。
床にもその塗料が滴り落ちている。
「動いてはなりません、お嬢さま。動くものに反応しております!」
血だ、と気づいたとき、侍女が着用する衣装の切れ端を見つけた。
「なにが……あったというの」
「わ、わかりません。悲鳴が聞こえて、駆けつけたときにはもう……っ」
「これは……なに?」
「か、カリナです……っ」
それは、見張りにつけていた己れの侍女の名だった。
この、ただ真っ赤でしかないものが、カリナのものだとその侍女は言う。
そんなわけがないと、そう思ったが、赤く塗れたそこに千切れた指を見つけて、アルミラは腰を抜かした。
「お嬢さま!」
「なに……なによ、これ……なんなのよ!」
叫びながら、アルミラは壁の向かいにある、客間を見た。壊れた扉は、扉を支えている部分までも破壊し、向こう側を見ることができる。
美しい獣がいた。
白く濁った薄紫の双眸が、こちらを見ていた。
「……メルエイラの娘」
憎悪を膨らませていたはずのツェイルを、美しいと思ってしまった。
皇族特有であるはずの白金の髪や、帝国でも珍しい薄紫の双眸が、これほどまで美しくあるものだとは知らなかった。
その身が、襤褸となった衣装で包まれていても。
鮮血に、塗れていても。
寝台の上でおとなしく、表情もなく、静観しているだけでも。
美しい獣がいる。
そうとしか、思えなかった。
あれが天恵者。
天の恵みを与えられた者。
ゆえに人間ではいられなくなった、神の遣い。
幼少期に聞かされたお伽噺の一節を思い出して、それが現実に在るのだということを、アルミラはこのとき知った。