23 : それは赤い花びら。1
ひどい頭痛で、ツェイルは起きた。起きた、ということに疑問を感じて、閉じていた瞼を開く。
「……ここ、は」
どこだろう。
ツェイルは冷たい土の上に寝転がり、両腕を後ろで縛られていた。
真っ暗なことから、ここがどこかの小屋であるらしいことはわかるが、なぜここに自分が縛られた状態で放置されているのか、わからなかった。
ひどい頭痛を我慢して記憶を探り、そういえば兄が倒れたと聞いて車に飛び乗ったことを思い出した。その瞬間になにか薬品を嗅がされた憶えもある。この頭痛はその薬品の副作用といったところか。
つまり、
「罠……か」
ということだ。
兄が倒れたという情報は、嘘なのだろう。そしてそれを伝えた「使い」とやらも、おそらくはあの近衛騎士さえも、ツェイルを騙した者だ。
いったい誰がこんな真似をしたのか。
深々と息をついて、ツェイルはゆっくりと身体を起こした。頭痛は相変わらずであるし、腕も縛られていて痛む。
動いた拍子に、腰にあるはずの重みが感じられず、ハッと視線を落とした。
「剣が……」
サリヴァンからもらった銀の剣が、帯についていなかった。周りを見渡しても、どこにも見当たらない。
どうやらツェイルを拉致した者に、奪われてしまったらしい。
「わたしの、剣……サリヴァンさまから、もらったものなのに」
メルエイラ家の者として簡単に拉致されたことも情けないが、サリヴァンが自分のためにと誂えてくれた銀の剣を奪われたことのほうが、ツェイルには痛手だった。
あまりの失態と痛手に、ツェイルは立てた膝に顔を埋めた。
「サリヴァンさま……」
ごめんなさい。
こんなことになって、銀の剣まで奪われてしまって、護ると言いながら迷惑をかけているだけだ。
ああ、なんてことだろう。
と、前方から光りが漏れ出した。
「目が覚めたようね」
その声には、憶えがあった。
顔を上げると、やはり森の中で逢ったあの美しい女性が、今度はあの豪奢な赤いドレスではなく同色系の落ち着いたドレス姿で、光りの中に立っていた。
「……なぜ、わたしを?」
「あら、呑み込みが早いのね。てっきり脳みそまで筋肉なのかと思ったわ」
救出に来てくれたわけではないと、その唇が語っている。ツェイルの姿を見て満足そうにも笑っているのだ。あの近衛騎士を使ってツェイルを拉致したのも、おそらくはこの女性だろう。
「あなたに使った薬ね、面倒な副作用があるの。即効性の睡眠薬なのだけれど、相性が悪いとひどい頭痛が続いて、しばらくまともに身体も動かせないらしいわ。しかも量を間違えれば、毒にもなるそうよ」
ふふ、と笑った女性に、ツェイルは己れの状態がまさしくその状態なのだろうと教えられた気分だった。
頭痛がひどくて、こうして身体を起こしているのもつらい。だからといって横になっても、おそらくそれは変わらないだろう。
しばらくこの状態が続くのだろうと思いながら、ツェイルは具合の悪さに任せてばったりと倒れた。
女性の高笑いが聞こえ、再び暗闇がツェイルを包んだ。
「なんだ……様子を見に、来ただけか……」
どんな目的でツェイルを拉致したのか。
サリヴァンのことを気にしていたようだったから、おそらくサリヴァンについてのなにかだろう。
しかし、サリヴァンのそばにはルカイアやラクウィルがいる。なにがあろうともサリヴァンを護ろうとする者が、最強の存在がいる。
ルカイアらがなにかしら策を立て、サリヴァンを護ってくれることは確かだ。
ツェイルは身体を丸め、じっと、頭痛が治まるのを待った。
メルエイラ家の者を舐めてもらっては困る。幼い頃から天恵の恐ろしさを教わったのだ。メルエイラ家で一生を過ごす掟の中で、この歳になるまで生きていたのだ。薬が毒になることくらいの知識はある。
そのための耐性は、
「くそぅ……」
残念ながらない。
耐性を作ることは、天恵の代償のせいで、体質的に合わなかったのだ。悔しいがこれだけは諦めるしかなかった。
とりあえずおとなしく、毒が活動的にならないようにすることしか、ツェイルにはできることがない。姉か妹がいれば解毒を頼めるのだが、逢うことすら許されていない今では、その助けを求めることもできない。
剣の腕だけを磨いたしっぺ返しだろうかと、ツェイルはため息をついた。
「とにかく、逃げるか」
おとなしく、縄抜けでもして、脱出してみようと思う。毒に対する抵抗力はないが、捕縛されたときの対処法ならいくらでも思いつくものだ。
そろそろ逃げるか、と身体を起こすと、未だ頭痛には悩まされたが、縄からは抜けだせた。
「……っ、まだふらつくか」
立ち上がると、視界がぼやけ、足許が崩れる。
それでも、銀の剣を取り戻すためには、ここから出なければならない。
よろよろと歩いて、あの女性が開けていた扉に手をかける。もちろん、引いても押しても動くわけがない。
ツェイルは天恵を使った。
音を消してものを壊すことくらい、造作ない。
パキン、と小さな音を立て、扉を抑えていた鍵らしきものが壊れた音がする。
扉を引いてみると、今度はなんの抵抗もなく開いた。
「……見張りもないとは、不用心な」
小さな音でも、見張りに立つ者があれば気づいただろう。そう身構えたのだが、気配がない。
ツェイルは深呼吸して、扉を思い切り開ける。
飛び込んできた日差しに、ぼやけていた目が焼かれた。くらくらと眩暈を起こしながらも、倒れそうになった身体を壁に押しつけ、どうにか留まる。
「まずいな……目が、役に立たない」
色がはっきりとしない。見えるはずのものもはっきりとしない。
これも薬の副作用かと思うと、耐性もなく解毒もできない自分に腹が立った。しかも頼りは天恵のみだ。
腹立だしいったらない。
とにかく銀の剣を見つけよう、と歩き出して、耳だけは無事であることに気がつく。
役に立たない目を閉じて耳を澄ませば、さまざまな音を聞き取ることができる。
「……知らない場所だ」
街の喧騒は聞こえない。
ツェイルに馴染んだ動物たちの声も聞こえない。
聞こえるのは、人が動く音。足音も然り、話し声も然り、僅かな空気の擦れる音も然り。
ツェイルは耳を頼りに、ゆっくりと歩を進める。
閉じ込められていた場所はやはり小屋のようだったらしく、開かれた扉の向こうはすぐ屋外だ。銀の剣があると思われる建物の室内へと入る必要がある。
そうなると、役に立たない目はそのままでも困らないが、頭痛だけは治ってもらわなければならない。身体がふらついてはいざとなったら戦えないのだ。
頼りの耳と天恵ではあるが、この天恵がそれだけのものではないと、サリヴァンに教えられた。それなら、違う使い方もあるはずなのだ。
探そう。
銀の剣を、この天恵が破壊ばかりのものではないという力を、探そう。
メルエイラ家で叩き込まれたその技術を遺憾なく発揮するため、ツェイルは天恵を頼りにし、ふらつく身体のままよろよろと室内への入り口を探った。
空に、鳥の鳴き声が響く。
そのとき。
「おまえっ!」
男の声がした。
前方に複数の人の気配がした。
さっそく見つかった己れの愚鈍さに厭気がさす。
「……わたしの邪魔をするな」
銀の剣を、天恵の使い方を、探しているだけなのに。
厭気が、苛立ちと重なって、怒りが込み上げる。その勢いのままツェイルは前方を、目は閉じていたが気持ちで睨んだ。
「なにをしているの! 薬を使いなさい!」
痛む頭に、あの女性の金切り声が響いて、痛みに拍車をかけられた。
怒りがさらに込み上げる。
「わたしの邪魔をするなと、言っている」
サリヴァンになにかするために拉致したのなら、それは間違いだ。ツェイルには自衛本能があるし、まして破壊の天恵がある。
ふと、もしかするとこういうことを想定したルカイアが、ツェイルなら打破できると思って後宮に連れて行き、サリヴァンの婚約者にまでさせたのだろうかと、思い至った。
なるほど、そうかもしれない。
目の前の女性は、初対面で厭味や皮肉を言う人間だ。そんな人間をサリヴァンのそばに置きたくないと、ツェイルは思う。こういう者を排除するためにも、ツェイルのような人間に囮り役は最適だ。
「早く捕まえなさい! あの者がここにいると知られるわけにはいかないのよ!」
女性が、取り囲む者たちに命令する。とたんにその者たちはツェイルに向かってきた。
「邪魔をするな……わたしの剣を返せば、なにもしない」
命知らずな者たちは、ツェイルの忠告を、聞くわけもなかった。
「おとなしく捕まりやがれぇえ!」
「うぉりゃぁああ!」
「おれたちの金ぇえ!」
三つめの言葉に、どうやら雇い者を使っているらしいと知り、それなら多少は腕が立つのかもしれないと、ツェイルは身構えることができた。
走る音に、風を斬る音が混じっている。
雇い者は剣でも握っているのだろう。
それなら、こちらは体術と天恵で、応戦するだけだ。未だ頭痛はするし、目は役に立たないし、身体もふらつくが、一瞬で決めることさえできればこの場から姿を眩ませることはできる。
ツェイルは、自ら懐に飛び込んだ。
ぎゅっと握った拳を腹部に叩き入れ、呻いた声を聞いてからすぐに蹴りを送り、反動を使って逆回転からの蹴りを入れてひとりを張り倒した。残るふたりも、同様に拳と蹴りで、小柄なツェイルだからこそ立ち回れる俊敏な動きで惑わせ、倒した。
「なっ……なんて、乱暴者なの……っ」
女性の引き攣った声に、それがどうした、と思う。
雇い者を体術で倒したツェイルは、さすがに頭痛のせいで吐き気が込み上げてきており、肩で息をしていた。
「わたしは、メルエイラ家の者だ……《白紫の双剣》と、聞いたことがないのか」
「《白紫の双剣》ですって?」
ツェイルはなにも、天恵だけで己れを作り上げたわけではない。
剣術の腕は、兄にも並ぶ。父を負かしたこともある。
腕が立つようになってからは、賊退治に行くのは専らツェイルと兄だった。そこでつけられた渾名が、『白紫の双剣』である。
双剣であるのは、ツェイルと兄とが並んで剣を握っていたからで、白紫とは、ふたりとも天恵を使うと薄紫の瞳が白く濁ることから、天恵者だとを知らない者たちがつけたものだ。
「まさか、あなたが……ひとりはツァインさま、ひとりは小さな少年と」
「わたしはいつも、こんな格好だからね……さあ、わたしの剣を、返していただこう」
銀の剣さえ返してくれれば、今はそれでいい。今帰れば、きっとツェイルが城から消えたことも、大きな騒ぎにはならない。サリヴァンに迷惑もかけないはずだ。
「わたしの銀の剣を、返せ」
あれはサリヴァンからもらったもの。
サリヴァンが、ツェイルのために誂えてくれたもの。
あれはサリヴァンを護るもの。
あれがあることが、サリヴァンを護る者の証だ。
「ふ……ふんっ、あの剣は、わたくしが持っていてこそ、光り輝くものよ。本来はわたくしに贈られるべきものよ。わたくしのものよ」
「……飾りものだと?」
この女性は、なにを勘違いしているのだろう。
剣とは、人の命を脅かすものであり、また護るものだ。飾るためにあるのではない。
まして銀の剣は片刃で、ツェイルにしか扱えない仕様になっている。飾り立てるような装飾も、薄紫色の宝石と細かな彫刻だけで、刃はするどい斬れ味を誇っている。
「あのように美しい剣は、わたくしが持っていてこそ、価値が出るのよ。あなたのような野蛮な者が持つ代ものではないわ」
「……扱えぬ者が、あの剣を持つに相応しいと?」
「扱う必要などないわ」
羨ましい、と思った。
護られることに慣れ、護られることが当たり前と思っているその姿が、いっそ晴々しいほどに羨ましい。
貴族の令嬢でも小剣はお守りの代わりにして落ち歩く、とリリが教えてくれたが、本当に持ち歩いているだけのようだ。その恐ろしさも知らずに、ただ安穏としているのだろう。
剣を握れないサリヴァンでさえ、護られるのではなく、護るのだという姿勢を持っているのに、臣民がこれではサリヴァンが可哀想だ。
「……サリヴァンさまが、悲しむな」
「なんですって?」
「国を、護ろうと、必死であられる……国の犠牲になっておられるのに、護ろうとしている者たちが、同じ志ではないなど……悲しいことだ」
なんと言葉に表現したらいいのか、わからない。ただひたすら、悲しいことだと思う。寂しいことだと思う。
国を想うサリヴァンの心を、この女性は無視しているとしか思えない。
「知ったような口を……っ」
「では、あなたは知っているのか? サリヴァンさまが、どれほどの荷を背負っていらっしゃるか……サリヴァンさまが、どれだけの想いで、この国を護らんとしているのか」
「皇帝が国のために在るのは、当然のことよ。それがなんだというの」
「その意味を、あなたは本当に、理解しているのか」
サリヴァンとて、ひとりの人間だ。
たったひとりの人間に、国は護られている。
その意味が、この女性には理解できるというのだろうか。
多くの人の支えや協力があってこそ、国を護れるたったひとりになれる。その重さを、理解できるというのだろうか。
ツェイルは無理だ。自分のことだけで手いっぱいだ。
だからせめて、人として危うく儚く、壊れてしまいそうなサリヴァンを護りたいと、護れるだけの力を差し出したいと思うのだ。
サリヴァンをいとしく想えば、それはなおさらだ。
「わたしは、サリヴァンさまの剣……あなたは、そうなれるのか」
なれるなら、銀の剣を奪われたままでもいい。ツェイルにはまだ天恵がある。サリヴァンを護るためなら、天恵を発動させることに躊躇いはない。
それでも、ツェイルの膝で眠るサリヴァンを見れば、力だけがすべてでなないことがわかる。
ツェイルの存在がサリヴァンを護ることになるなら、ツェイルはこの身のすべてを帝国のために、サリヴァンのために捧げる。
「……っ、もう黙りなさい!」
女性が叫び、そのあとでなにかを投げて寄こした。
なにかが飛んでくる気配だけを感じたツェイルは咄嗟に腕で顔を庇い、硝子のようなものが割れる音を聞く。
ばしゃっと、全身になにか液体を浴びた。
「なにを……、え」
ぐらりと、身体が傾いだ。身体に力が入らず、頭痛が増して耳鳴りがした。吐きたい衝動に駆られ、地面に倒れると咽喉を抑えた。
「あなた、その薬と相性が悪いようね。先のものも抜けていない状態で、さらにその薬を浴びたら、どうなると思いまして? 致死量は、とっくに超えたわよ?」
狂喜に満ちた女性の声がした。
身体の状態から、ツェイルは拉致されたときに使われた薬らしいとわかったが、わかっただけで、やはりなにもできなかった。あまりの気持ち悪さに、ぐらぐらと脳みそが揺れている。もともと目は閉じていたが、開けたらひどくなる気がして、きつく閉じているしかなかった。
「そうやって、悶え苦しむといいわ。メルエイラ家の《白紫の双剣》? 笑わせるわね。そんなもの、わがナルゼッタ家の足許にも及ばないのよ。わたくしの母は前皇妹殿下、メルエイラ家などすぐに取り潰せるわ。残念ね?」
引き攣った狂喜の笑い声。
ああ、なんて失態を犯したのだ。
なんて愚行だ。
そう思ったところで、もう遅い。
家族を護るために、きょうだいを護るために、今まであそこにいたのに、逆のことをしてしまった。
サリヴァンを護りたいと思うことは、ツェイルには傲慢なことだったのだろうか。
「……サリ……ヴァン、さま」
悔しい。
ごめんなさい。
謝っても謝り切れないことを、犯してしまった。
どうやったらこの罪を償えるのだろう。
「ごめ、な……さ……」
あなたを、護りたいのに。
それだけなのに。