21 : この手のひらに。2
朝食を、と食事を運んできてくれたリリが、ルカイアも連れてきた。
「……また、ですか」
ツェイルに抱きついて眠っているサリヴァンを見て、ルカイアは半眼で笑っていた。起こしに来てくれたラクウィルやリリなどは満面笑顔だったのだが、ルカイアの心情はどうやら昨夜の夜会のことで埋められているらしく、或いは日々の政務のことで埋められているらしく、眠っているサリヴァンを見て面白くないとしか感じられないらしい。
「起こしてください」
速攻でそう言われたので、相当面白くないのかもしれない。
「……起きません」
困ったことに、サリヴァンは三日ほど眠り続けたときのように、今もなにをしても起きない。頭上でツェイルがリリやラクウィルと会話していても、洗顔をしていても、起きなかった。
「ツェイルさまでは起きませんか……今回は、自然に起きるまで待つなどと悠長なことは言っておれませんので、強制的に起こしますよ」
「強制的……」
三日ほど眠り続けたときですら、なにをしても起きなかったのに、どうやって起こすというのか。
失礼、と言ってそばに寄ってきたルカイアが、腰を屈める。
「シエスタさまがおいでですよ」
と、サリヴァンの耳許に囁いた。
とたん。
「帰らせろ!」
飛び起きた。
なぜその一言で起きるのだ、とツェイルは吃驚である。
しかも。
「なぜ、シエスタが来る。おれは、呼んでない。帰らせろ、おれに近寄らせるな、むしろ消せ、おれの視界に入れるな」
寝台の端まで逃げ、おまけにツェイルその腕の中に巻き込んで、ものすごい勢いで拒絶した。
「さ、サリヴァンさま」
「ああ、ツェイ、やばい、やばいぞ。シエスタが来た。どこかに隠れ……いや、旅行だ。旅行しよう、ツェイ」
「は……?」
「婚前旅行だ。北の大地に猊下の知り合いがいる。これから暑くなる時期であるし、少し早いが避暑に行こう。うん、それがいい。ラク、用意しろ、早急に」
混乱しているのが一目でわかる。とんでもない逃避行だ。そのくせツェイルのことはしっかりと認識し、いつのまにやら「ツェイ」と名を略しているくらいには、僅かながら冷静さを持っている。
「ツェイ、行くぞ」
「い、いえ、あの、え?」
「ああ、そうだ。猊下にフェンリスを借りよう。フェンリスなら移動が速いからな。シエスタは追いつけない、絶対追いつけない、うん」
「サリヴァンさま?」
「着替えならフェンリスの上でもできる。このまま行くぞ、いや行かなければならない」
なにか使命感まで燃やし始めたサリヴァンの行動は早かった。軽々とツェイルを抱き上げると、なぜか露台に向かって走っていく。
「嘘ですよ、陛下」
ルカイアがそう言わなければ、ツェイルは危うくサリヴァンとふたり、寝巻のまま露台から庭へ飛び降りるところだった。
「ちゃんとツェイルさまを連れて行こうとなさるそのお姿は立派ですが、毎回そのように逃げられては……それに、この時期にシエスタさまが唐突にいらっしゃるわけがございませんでしょう」
「……、嘘なのか?」
「正確には、シエスタさま本人ではなく、使者が来ております」
「……来るんじゃないか」
行く、と再びサリヴァンは欄干に足をかけた。
「国主としていらっしゃる旨を伝えに、使者は来ております」
ルカイアがそう言うと、逃げようとしていた動きが完全に止まる。どうやら露台から飛び降りることにはならなそうだ。
しかし、ちらりと見たサリヴァンの顔は、とても厭そうだった。
「……どなたかが、いらっしゃるのですか?」
それもサリヴァンが厭がる人間が、来るらしい。それは国主のようであるが、サリヴァンにとって敵でないような気がする。
「ヴェルニカ帝国の、シエスタ・ウィウェール・ヴェルニカ皇帝です」
世界三大国の一つ、ヴェルニカ帝国。
大海を挟んだ向こうの大陸にあるその帝国の国主を、サリヴァンは厭がっているようだ。
「ヴェルニカ皇帝が国主としていらっしゃるのですから、わが帝国の国主もそれなりの態度でお迎えせねばなりませんね、陛下?」
にぃっこりと、ルカイアは微笑む。
サリヴァンは顔を引き攣らせていた。
「ご安心ください。いらっしゃるのは半月後か、それより先のことです。今日はとりあえず使者に目通りしてください」
にこにこと笑うルカイアをサリヴァンはしばらく疑いの眼差しで見つめていたが、国主としての責務を果たさねばならないとは感じたらしく、深々とため息をつくと寝台に戻り、ツェイルを腕から下ろした。
「ツェイ」
「……はい」
「今日は、ここから動かないでくれ」
サリヴァンはそう言うと、ツェイルの返事も聞かず、ルカイアと寝室を出て行った。
「……寝台から?」
消えた背に問いかけるも、もちろん答えはない。
「食事を摂ってから着替えましょうか、ツェイルさま」
リリよ、そのなにごともなかったかのような振る舞い、いい加減理由を教えてはくれまいか。
と、思った。
「……そうですね」
言っても無駄であることはわかっているので、ツェイルはとりあえず、朝食をいただくことにした。
ツェイルの毎日は、いつでも単調だ。
午前中はひとりで勉強し、午後は天気がよければ身体を鍛えに外へ出る。最近はサリヴァンがルーディを剣術の指南役に寄こしてくれていたので、騎士団の型を完全に習得しつつあった。午後の中頃を過ぎるとリリがお茶の準備を始めるので、ルーディや彼が連れてきた騎士と休憩したり、そこにラクウィルが混じったりしながら一時間ほど過ごす。その後は読書の時間で、夕食を終えても眠る時間まで本を読み続けることが多い。
「このままですと、城の蔵書を読み尽してしまわれそうですね」
とリリは言うが、さすがに城の蔵書は多く、読むのが遅いツェイルでは読破に一生かかりそうだ。それに、古代語で書かれた本は辞書がなければ読めないし、辞書があっても理解できない文章があると、意外に博識なラクウィルに手伝ってもらう必要がある。それでも一冊を読むのに六日はかかるので、手間がかかるとわかってからは、古代語の書物を避けるようになった。
今日は、サリヴァンが政務に行ったあと、ここを動かないでくれと言われてしまったので、ツェイルは律義に寝室に留まって、読むのに手間がかかる古代語の書物を手にしていた。
「その建国史、ついにお読みになりますか」
「今日は、ここから動けないから」
「時間潰しには最適、と?」
「こういう時間でないと、読む気が起きない……」
「確かに」
手にした初代の建国史は、数百年前に作成されたものの贋物だ。初代の建国史は古代語で書かれているので、考古学者を目指す者の教科書に適用されることが多い。もちろん現代語で書かれた初代の建国史もあるので、解読はそれほど難しくなかった。
ツェイルには無縁かと思われる初代の建国史、古代語の勉強には最適であるが、ツェイルはそれを目的にしているわけではない。
「やっぱり、どうしてもそこが読みたいのですか?」
「うん……これには、初代皇帝の手記の写しがあるから」
考古学者なら誰でも持っている建国史だが、今ツェイルが手にしている建国史は、どこを探してもこの城に一冊しかないだろう。それは編纂もされずにそのまま写された、言わば写本だ。初代建国史の写本には、初代皇帝ヴァリアスの手記が残されている。
「どうしても、読みたくて……読まなければ、ならない気が、して」
リリがこれを持ってきたとき、リリは間違えたと言っていた。建国史は貴族の礼儀として読むことが義務とされていたので、ここに来てまで読むものではないと思ったらしい。
だが、なぜか避けたそれが、持ってきた本に紛れてしまっていた。
リリは不思議そうにしていたが、ツェイルは漠然と、ああ読まなければならないものなのかと、そう直感した。
古代語は勉強にもなるので、午前の勉強時間に少しずつ建国についての話を読み続けていくうちに、どうやら終わりには初代皇帝の手記が付随していると知り、最終的にツェイルが読まなければと思った部分がそこであることも気づいた。
「ダンガード侍従長を呼びますか?」
「いや、ここはひとりで読む。どうしても読めなかったら、そのときは頼むよ。リリも少しは読めるだろう?」
「本当に少し、ですけれど。わたしは古語の勉強、大嫌いでしたから」
「わかるよ、その気持ち」
異界語に見える古代語だ。ツェイルとて得意ではない。
「では、なにかあったら呼んでくださいね。わたしはツェイルさまがおとなしいうちに、部屋をぴっかぴかに磨いてきますから」
「……いつも邪魔してすまない」
「意図を感じていたら、本気で怒りません」
不器用、ではないはずなのだが、こうして考えると実は不器用だったのだろうかと、リリを見ているとたまに思う。
「お茶の用意はしておきますよ」
「頼む」
「はい。では」
リリが寝室を出て行ってから、ツェイルは辞書を片手に、さっそく初代建国史の写本を読み始める。
『わたしは一貴族の、平凡な若者だった。少し変わっていたのは、聖国の、ひいては世界の創造主であられるお方が、わざわざわたしのところへいらっしゃってくれることか……』
という冒頭から始まった写本の手記は、不思議なことに辞書がなくともすらすらと読めた。
リリがお茶を持ってきてくれたことにも気づかないほどに、ツェイルはそれに夢中になる。
『わたしの父のときも、父の父のときも、そのまた父の代からもいらっしゃる天上猊下は、己れが人間ではない存在であると自覚なされておいでだった。だが、天上猊下は人間がお嫌いだった。同じ生きものではないことを、心底喜ばれるほどに、お嫌いだった。しかし、わたしにはそれを語る天上猊下の瞳が、とても悲しそうに見えた。このお方は人間で在り続けたかったのではなかろうかと、そう思えるほどに……』
世界がラーレと呼ばれるようになった所以たる、ヴァリアス帝国の天上猊下、聖王について、初代皇帝の想いが滾々と語られている。それだけでなく、ヴェルニカ帝国の初代皇帝のことも書かれてあり、ふたりが歳の離れた親友同士であることも、写本には記されていた。
一つの壮大な物語を読んでいるようだ。
いや、確かにこれは物語だ。
世界が、国が、現実に作られていく物語。建国史が神話と同一視されるのも、この壮大ゆえのことなのかもしれない。
「……天上猊下、か」
このヴァリアス帝国におわす天上猊下、神々の長、聖王。人間が嫌いで、けれども人間を捨て切れず、己れは人間ではいられなくなり、神となった聖王。
写本を読んでいると、やはり実在するのかと、思えてくる。けれども写本には、その聖王が死んだことも記されていた。
「この世界は……ラーレは、不思議だなぁ」
神がおわす。
それは世界に浸透し、当然とされている。それでも聖王の存在は、お伽噺になっている。
考え始めると混乱して要領をまとめられない。
「……うん、やめよう」
もともと神を信じていなかったツェイルだ。放棄しても問題はない。
ただ気になるのは、聖王が死に際に起こした最後の奇跡、それが人々に天恵を与えたことだという部分だ。この時代から、天恵は世界に広まったらしい。
続きが気になる。
先を知りたくなって、頁をめくろうとしたときだ。
「ツェイルさま」
扉がコンコンと叩かれ、呼ばれた。区切りがよいところであったのでそれが聞こえたツェイルは、はい、と返事をする。
「失礼します、ツェイルさま」
扉を開けたのは、リリではなく、ラクウィルでもなかった。格好から近衛騎士のようであるが、その顔に見憶えはない。
「……なにか?」
「あの……メルエイラ家の使いだと、おっしゃる方がいらして」
「え?」
「至急、邸にお戻りをと……どうやら当主さまがお倒れになったようで」
なんだって、とツェイルは勢いよく立ちあがる。膝に置いていた写本が床に落ちたが、気にしてなどいられなかった。
「兄さまが……」
心情はともあれ、肉体的には風邪を引いたこともないほどの強靭さがあるあの兄が、倒れるとはあり得ない。いや、心労が重なれば、いくら兄とて倒れてもおかしくはない。
ツェイルはここに来て、一度もきょうだいたちには逢っていない。逢うことを許されないので、もちろん手紙すら許されていない。
リリから姉のことはちらりと聞いたが、それでもそれはルカイアに無理やり届けられた姉からの手紙で、直接的なものではない。
「使いは帰ったのか」
「は、はい。だいぶ焦っておられたようで」
メルエイラ家の者を焦らせるなど、それはよほどのことだ。
「あっ、でも、車は用意しているそうです。お戻りの際はそれを、と」
どうしようか、迷った。
線が細くて見た目は頼りない兄だが、その天恵を所有するがゆえの代償など支払っていないかのように思えるほど、身体だけは丈夫な人だ。
その人が倒れ、使いを焦らせるほどのことが起きたのなら、それはおそらくは天恵がなにか起因しているとしか思えない。本当は代償を隠し続けて、無理をしていたのかもしれないと思うと、いてもたってもいられない。
ツェイルは拳を握ると、部屋を見渡した。
寝台の横にツェイルの銀の剣が立てかけられているのを見つけると、それを手にする。
「行きます。メルエイラ家に」
「よ、よろしいので?」
「あの兄が倒れるなど、あり得ない……だが、天恵の代償であるなら、その可能性は十分にある。行かなければ」
同じ天恵を所有する者としても、もちろんきょうだいとしても、ツェイルは兄のところへ駆けつけるべきだ。いや、行く。
「車はどこに?」
「あっ、自分が案内します!」
「頼む」
ツェイルは着の身着のまま、帯剣できるよう帯だけは持ち出して腰に巻き、銀の剣を提げて、近衛騎士に先導させて寝室を、部屋を飛び出した。
サリヴァンに、ここを動くな、と言われていたことを、ツェイルはこのとき頭になかった。