20 : この手のひらに。1
ツェイルの記憶は、初めて二本足で歩いたときから始まる。
子どもが三人めともなると両親は慣れたもので、ツェイルが歩けるようになってもとくに感激はなかった。感激したのは、八つ歳上の兄ツァインと、四つ歳上の姉テューリだ。
ふたりの目がきらきらしていたのを、今でも憶えている。
『ツェーイールっ! ああ、なんて可愛い妹、なんていとしい妹、将来は僕のお嫁さん決定だね!』
『ツェイルは妹でしてよ、あにうえ!』
『テューリ、妹だから僕のお嫁さんになるんだよ。ねえツェイル、僕のお嫁さんになろうね』
『わたくしも妹よ、あにうえ! んもうっ!』
思えば兄はもうこのときからツェイルに「僕のお嫁さん」発言をしていて、発言を本気にした姉が怒鳴るという構図ができあがっていた。両親もそれは見ていて、大笑いしていた気がする。
だからツェイルは、両親に育てられたというよりも、そのほとんどの時間を兄と過ごすことになり、両親にあまりかまわれなかった。むしろ、多少の距離があったかもしれない。
ツェイルが天恵を初めて発動させた、四歳のとき。
『……まさか、おまえにも、出るとは』
父はツェイルの天恵を見て、悲しんだらいいのか喜んだらいいのか、複雑そうな顔をしていた。母は涙していた。
ツェイルはそれが、よくわからなかった。
『やっぱりツェイルは、僕のお嫁さんになるために生れてきてくれたんだね』
兄が笑っていたから、この力がどんなものか、そのときはわからなかったのだ。
『ツァインよ。本当に、そうするか?』
このときばかりは父も兄の冗談を本気にしようかと思ったらしい。
『ツェイルを僕のお嫁さんに? なにを言うのですか、父上。これはもう決まったことですよ?』
兄が呆気羅漢として言うものだから、父は兄のそれがどうやら常に本気であるらしいと思い至ったようだった。
『いや、あのな? おまえ、それ本気だったのか?』
『本気もなにも、僕はいつだって真面目に言っていたではありませんか』
『あれが真面目……冗談だとばかり』
『ツェイルは僕のお嫁さんですよ。ねえ、ツェイル』
『や、や、や、待て長男、父が悪かった。謝るから、さっきの発言はなかったことに……っ』
『ツェイルぅ、今日も可愛いねえ』
『あっ、こら、妹になにして……っ、ああもう父が悪かったから冗談にしといてくれ!』
天恵が初めて発動した日の、兄と父のこの会話は今も憶えている。この日から両親がやたらとかまってくるようになったので、ツェイルは嬉しかったのだ。
今考えると、兄の愛情深さを危惧してのことだったのかもしれない。
『……いったいどうしたというのだ、ツァインよ』
『なんのことです。まさか、僕が気狂いだと? はは、そんなわけないでしょう』
『おまえ……ツェイルはおまえの実の妹だぞ』
『それが? ツェイルは僕の妻になる娘ですよ』
『ツァイン……』
父が、困惑した顔で兄を見つめていたその光景を、ツェイルは憶えている。父は兄の冗談を、冗談として捉えられなくなっていた。
それから、ツェイルは。
兄と同じ天恵を持ったことで、その力を制御するためにも剣術を習うようになり、身体を鍛え始めることになった。きっかけは天恵を持ったことでも、父の思惑はおそらく、兄の行動にあったのではないかとツェイルは思っている。
兄が婚姻を避け、そういった話も断り続けることになり始めると、父は強制的な婚姻話を持ってきて、強引に婚約までさせた。
『ツェイル、ツァインはいつも冗談ばかり言う。たまに本気のようだが、それでも大半は冗談だ。だから、ツァインの言うことばかり聞く必要はないのだぞ。あれは、ちゃらんぽらんだ』
父の口癖だ。
兄の言動を本気だと捉えるようになっていた父は、それを確信した日からツェイルに言い聞かせるようになり、熱心に剣術を教えるようになった。そして、ツェイルに実剣を握らせて、街を襲った盗賊の討伐に繰り出したこともある。
そう、ツェイルが初めて人を斬ったのは、十歳くらいのときだ。
その天恵で、人を殺めたのも、確かそのときだったと思う。
『ツェイル、憶えておけ。これがおまえの天恵だ。おまえの天恵は、人を殺める。人を死なせる。人を破壊する。忘れるな。おまえは天恵を、無闇に扱ってはならんのだ』
剣を握る怖さと、天恵を使う恐ろしさを、ツェイルは身をもって教わった。強くあらねばならないことも教えられた。
それからの日々で、ツェイルから表情を奪うほどには、酷な教え方をされただろう。
メルエイラ家の者で、女に天恵がもたらされるのは珍しいという。ゆえに、女に天恵がもたらされた場合、一生をメルエイラ家で過ごす決まりがあった。婚姻を結ぶことも子孫を残すこともなく、ただ一生をメルエイラ家の者として過ごすのだ。
特殊な天恵ゆえ、その存在を隠すための、それは掟だ。
『だいじょうぶ。僕が、ツェイルの旦那さまだから』
兄は父に強引な婚約をさせられても、それまでの言動を改めることなどなかったし、掟すら無視していた。
『ツェイルは僕のお嫁さんだよ。僕との子ども、たくさん作ろうね』
兄の冗談に、幾度、救われたことか。
天恵の代償として奪われた肉体の成長を、どれほど疎ましく思ったことか。
女としての生き方、女としての未来、それらを切望しなかったわけではない。当たり前のそれらを、初めから切に願わなければならなかったのだ。それも、願っても叶うことのないものを。
ゆえに兄の存在は、ツェイルにとって安堵にも等しい。
兄が自分を欲し、必要としてくれなかったら、きっと今頃は家族を恨み、憎み、それでも家族を想いながら、深い闇の底にいたことだろう。
兄の冗談は、たとえ本気でも、ツェイルにはどちらでもよかった。
そういう兄だから、家族をいとしく想うことができる。なによりも家族を大切に想えるようにしてくれたことに、ツェイルは感謝していた。
「……まだ、泣くのか」
サリヴァンの優しい声がした。
「できれば笑って欲しいが……まあ、いいか。おまえになにかしらの表情があると、とても安心する」
髪を掬う感触に、ツェイルはどうやら夢を見ていたらしいと自覚し、けれども強い眠気には耐えられず、うとうととしながらサリヴァンの少し冷たい手のひらに身を任せた。
「泣きたいときは泣くといい……おれの、袂で」
額にぬくもりを感じた。全身を包む暖かさに、強い安堵感が込み上げた。
兄に抱きしめられたときとは違う、家族との抱擁とも違う、とても強い安堵感。心地よくて、それがなんだかいとしくてたまらなくて、ツェイルは無意識にぬくもりに擦り寄った。
こんなにひどく安堵できるものは、初めてだった。
目覚めて、ツェイルは声もなく驚いた。正確には、声を出せないほどの驚きではなく、声を出すことすら躊躇われるほどの驚きだ。
サリヴァンが、ツェイルを腕に抱いて、眠っている。
いつかのときのような状態に、ツェイルは声を出せなかった。
しばらく無言でサリヴァンの綺麗な寝顔を、これを眼福というのかと思いながらここぞとばかりに眺める。
「……傷跡?」
ふと、サリヴァンの目許に、目を凝らさなければ見えないほど薄っすらと残った、切り傷を見つけた。
こんなところに傷があるなんてと、うっかり声を出してしまったゆえに、サリヴァンの瞼が震えて碧い双眸を覗かせる。
「……ツェイル?」
「はい。起こして、しまいましたね。おはようございます」
ん、と身体を伸ばしたサリヴァンが、そのまま抱きしめていたツェイルを開放してくれる。眼福もこれまでだ、とツェイルはホッとしながら身体を起こし、寝台で猫のように身体を伸ばしているサリヴァンを真似して、グッと背中を伸ばした。
窓から小鳥たちの鳴き声がする。
いつもの鳴き声のようなので、おそらくここはツェイルに与えられた居室の寝室だ。
「よく眠れたか」
「はい。なにか夢を見ていた気もしますが……」
「夢……夢、ねえ」
「なにか?」
「いや」
「……ところで、なぜサリヴァンさまがこちらに?」
今さらだが、ツェイルはいつ眠ったのか記憶がなく、ましていつ寝巻に着替えたのかもわからない。サリヴァンが隣で眠っていた理由も、思いだそうとしても思い出せない。
ここはわたしの居室だよな、と改めてぐるりと部屋中を見渡してみる。
「……あれ」
どことなく、調度品の配置が、違うような気がする。
「おれの部屋だぞ」
「……、は」
「おれの部屋で、おれの寝室だ」
耳を疑うよりも早く、ツェイルは寝台から降りようとして、未だ寝台に寝転がっていたサリヴァンに捕まった。
「なぜ逃げる」
なぜと訊かれても。
「……お身体、つらくありませんか」
「おまえが逃げなければこんな格好をしなくて済む」
少し難しい体勢でツェイルの胴体に腕を回したサリヴァンは、どう見ても幾分かつらそうな体勢に見える。
「ちょっと、戻れ。さすがに腕がきつい」
「す……すみません」
怪我をさせたいわけではないので、ツェイルは慌てて寝台に戻った。
なにか間違えた気がしなくもない。
「……あの、なぜわたしは、サリヴァンさまのお部屋に、お邪魔しているのでしょう」
再び寝台に寝転がったサリヴァンだが、その片腕はツェイルの胴体をしっかりと掴んでいる。逃げられそうにないので諦めた。
「おれが、眠れそうになかったから、おまえを部屋に連れ込んだ」
「……はあ」
こんな骨と皮のような貧相な身体を、抱き枕にしたところで寝心地は悪くなるだけだと思うのだが、サリヴァンのその考えをツェイルはいまいち理解できない。
そういえば、昨夜はなにがあったか。
サリヴァンが眠れそうにないことが、起きただろうか。
「昨夜は……」
声に出して、それが記憶の覚醒に繋がったのか。
ツェイルはあっというまに昨夜の、夜会を思い出した。
そこで起きた襲撃事件も、瞬くまに思い出して、息を詰まらせる。
とたんに込み上げてきたものに胸が苦しくなって、俯くと両手で口許を覆った。
「……ツェイル?」
サリヴァンの怪訝そうな声が、ツェイルの耳に入る。その響きの優しいことに、やはり安堵した。
「わ……わた、し……」
サリヴァンに、あの天恵を見せてしまった。人を殺し、死なせ、壊す天恵を、見せてしまった。だのに、サリヴァンはツェイルを受け入れて、抱きしめてくれた。それが嬉しくて泣いたことを、ツェイルは忘れていない。
忘れられるわけもない。
ツェイルは、家族以外には感じ得なかったその安堵を、サリヴァンに与えられた。ずっと欲しかったものが、与えられたようなものだ。
「……なあ、ツェイル」
胴体に回されていたサリヴァンの腕が、ぎゅっと強くツェイルを引き寄せてきた。僅かに身じろぎ、その背にサリヴァンのぬくもりを感じる。
「おまえ、おれのものにならないか」
言われたことの意味がわからず、ツェイルは小さく首を傾げ、視線をさらに落として腹部にあるサリヴァンの片腕を見る。
「……わたしは、サリヴァンさまの剣です」
この右腕の代わり。
剣を握れないサリヴァンの剣になると、護りたいと思ったときからそう思っている。
「そういうことではないが……まあ、今はいいか。言ってしまえば同じ意味だからな」
なんのことだか、ツェイルにはさっぱりわからない。だがサリヴァンはなにやら満足気だ。
「久しぶりによく寝た。やはりおまえを傍らに置くと、よく眠れる」
「……そう、ですか?」
「別の意味で寝づらくはあるが」
「……貧相ですから」
「……、そう捉えるか」
ごつん、と背中にサリヴァンの額が衝突した。痛くはなかったが、サリヴァンは痛かったのではないかと振り返ると、サリヴァンは苦笑していた。
なにか間違えたことを言った、気はしない。
「もう少し、ゆっくりしていい。夜会の翌日は一般的に休日だ。おれたちも例外ではない。襲撃があったとしても、な」
「目が覚めました」
よく眠れたのですっきり目覚めている。その要因はサリヴァンの存在であるが、ゆっくりしろと言われても身体が起きてしまっていては、いくら安堵できるサリヴァンのそばでも二度寝は無理そうだ。
「なら、おまえの膝の上で、おれを眠らせてくれ」
「……貧相ですが」
「それはもういいから」
どうせなら豊満な女性を傍らに侍ればいいのに、と思わなくはない。けれども、サリヴァンにそばへと望まれるのは、嬉しいと思った。
ツェイルは大きなふかふかの枕を背にして寝台に座り直すと、ほぼ抱きつかれるようにしてサリヴァンを膝に抱いた。さらさらの金髪を撫でていると、すぐに寝息が聞こえてくる。
よく眠る人だ。
サリヴァンの寝顔は、二度と目覚めないのではないかと思うこともあるが、それほど安堵しているのだろうと思えば、心が温かくなる。
ほんわかとした心に、ツェイルは口許を緩めた。
なんて、いとしいのだろう。
たまらなく、そう、思った。
ツァインがどれだけシスコンなんだっていう話が、というお言葉をいただきましたので、本編に過去のシスコンぶりを導入してみました。