19 : 宰相回想録。
ルカイア視点です。
『陛下は、少し変わっておられる』
宰相たちの常套句であるそれを聞いたとき、帝国ヴァリアスの国主はほんわかと笑っていた。だが、笑っただけでなにか言い返すことはない。
『のんびりと構えられるのはかまいませんが、少しは焦っていただきたいものです』
『后妃候補の姫君はすでに後宮へいらしておられるのですよ』
『お世継ぎを、とは申しません。その心配は無用です。ですが、だからといってそう構えられるのは、姫君への無礼となりましょう』
宰相は三名いる。うち二名に捲し立てられても、国主はただ微笑み続けていた。なにも言い返さないことをいいことに、宰相ふたりは口々に後宮問題を並べ立てているが、けっきょくは国主を案じての発言だ。
最終的に、宰相ふたりは息切れを起こすほど、喋り続けた。それでも微笑みを絶やさない国主に、がっくりと肩を落としている。
『これだけ言っても、頷きませんか……』
気苦労させているが、これはいつものことなので、宰相ふたりは今日のところは諦める方針を立て、一番歳若い宰相を残して退室する。
『今日は短かったな』
うきうきとして言う国主に、歳若い宰相ルカイア・ラッセはため息をついた。
『陛下……本当に、真剣に考えておられませんね』
『おれは彼らに遊ばれている』
『陛下が彼らで遊んでおられるからでしょう』
『そう。だから、遊ばれてやっている』
ニッと国主は笑う。こういう場では茶目っ気の多い国主は、いつもその柔らかな微笑みですべてを流し、そしてそのすべてを許容範囲に収めてしまう。懐が深いというよりも、狡猾で計算高いかもしれない。
『どうするおつもりで?』
『いつもどおり。駄目なら、おれは病床に就こう』
軽やかに逃避を宣言され、ルカイアは再びため息をつく。
『陛下……戯れもいい加減にしませんと』
『ルカ。おれは、サリヴァンだよ』
『……陛下』
『サリヴァンだ』
重ねて己れの名を言われ、ルカイアはグッと拳を握る。
それまで国主の顔をしていたサリヴァンは、ふっと苦笑して、少し生意気な子どもっぽい青年になった。
『今のおれは、サリヴァンだ』
サリヴァンの碧い瞳が、悲しげに暗く光った。それはルカイアに馴染み深い色で、あまり見たくないものだった。
『申し訳ありません、サリヴァンさま』
『いいや。こっちこそ悪いな、ルカ』
『謝らないでください。わたしが悪いのです』
皇帝の顔を持つサリヴァンの、その悲しみを抱えた心が痛い。
『ルカが理解ある宰相で、よかったよ』
サリヴァンは笑う。サリヴァンがルカイアの前に初めて現われたときと同じように、すべてを許容してしまう大らかな微笑みだ。
『さあ、ルカ。今日はもう終わりだ。部屋に戻ってお休み』
『……はい、サリヴァンさま』
『明日は朝から病床に就くつもりだから、どうしても必要なものだけ、運んでくれ。部屋にはいないかもしれないが』
いつもの、茶目っ気の多い国主の言葉を使ったサリヴァンは、ルカイアに一瞬でも見せた悲しみを既に消し去っていた。
『できれば政務だけでも、きちんとして欲しいのですが』
『遊ばれてやっているわけだから、そこは許してくれ』
『……わかりました』
頭を悩ませる国主に戻ってしまったサリヴァンに、ルカイアはため息をつくのではなく、苦笑をこぼして見逃すことにした。
「ルカ」
ハッと、ルカイアはわれに返る。
一瞬、目の前のサリヴァンと、回想のサリヴァンが重なり、どちらが現実かわからなくなった。
その腕に、泣き疲れたのであろう眠ったツェイルを抱えていなければ、こちらが現実だとわからず、挙動不審で怪しまれていたかもしれない。
「とんだ夜会だ」
「……申し訳ございません。刺客の存在を予測し、警備を強化したつもりではいましたが、抜け道があったようでございます」
「だろうな……ツェイルを戦わせたんだから」
「申し訳ございません」
公子はとうに、夜会から退場してもらっている。ラクウィルが片づけてすぐ、近衛騎士に命じて居室へ戻ってもらった。その対処をしていたがゆえに、サリヴァンを襲った第二波の襲撃者への対応が遅れ、ツェイルに動いてもらった次第だ。
そして、ツェイルの戦闘ぶりと、天恵を見た。凄まじい天恵だと思った。襲撃者が血塗れで倒れ、絶命し、ふたりの無事が確認できても、ルカイアはその場を動けなかった。
しかし、ツェイルが大泣きし始め、サリヴァンがそれ宥め、こうして話しかけられるまで動けなかったのは、サリヴァンの今までにない穏やかな表情を見たからだった。
少し前までは常に国主の姿勢を崩さず、己れを蔑ろにし、ひたすら国主で在り続けていた、そんなサリヴァンしか、ルカイアは見たことがない。
思わず回想までしたほど、今のサリヴァンには違いがある。
「お怪我は?」
「ない。あったら、おまえを殺しているところだ」
不愉快そうな顔をして物騒なことを言ってくれるが、声はいやに単調で、瞳は穏やかだ。
「ツェイルさまにも、お怪我はないようですね」
「それこそ、ツェイルに怪我でもさせたら、今のおまえは首と胴が離れ離れだ」
「ご無事でなによりです」
「ふん」
本気で言っているわけではないようだが、不愉快ではあるようだ。
「公子はどうした」
「居室のほうへお戻りいただきました」
そういえばラクウィルの姿がない。精霊を久しぶりに表に出していたが、その精霊たちの姿もない。
「ラクはおまえがぼやぼやしているうちに、刺客たちを牢に運んだぞ」
「……そうでしたか」
回想に耽り過ぎたようだ。動けなかったことは、サリヴァンにはわかったようである。
「生きているのですね」
「ラクが相手をしたふたりは、な。ツェイルが相手をした刺客は絶命した」
ふっと、サリヴァンの視線が、血溜まりの一点に投げられる。
珍しくも宰相としての仕事を放棄してしまったルカイアに代わり命令したサリヴァンによって、騎士や侍従たちがその場を清めている最中だ。
「……予想以上です」
「なにが」
「メルエイラ家の天恵ですよ」
よもや、あそこまでとは。
ルカイアはメルエイラ家が所有する天恵の詳細を知ってはいるが、実際に見たことはない。見たものしか信じないルカイアであるから、初めて見たメルエイラ家の天恵は衝撃的だった。まったく動けず、ついサリヴァンの様子を見て回想までしてしまうくらいには、驚いている。
「そんなにすごいか」
「ええ。あれほどの天恵がわが帝国にあるとは……」
無数の細い針が、襲撃者を潰した。ルカイアにはそう見えた。あんな力、ヴァリアス帝国中を探しても、いや世界中を探しても、メルエイラ家のみのものだ。。
「陛下も見ましたでしょう」
「……いや」
「見ておられないのですか?」
目の前にいたのに、それはないだろう。
しかし、サリヴァンはとぼけた様子もなく、また不愉快そうな表情を変えることもなかった。
「けっこう、どうでもよかったからな」
「……、はい?」
どうでもよかったとは、どういうことだ。
「見てはいたが、ツェイルのことしか考えていなかった。どうかと訊かれても……どうも言えないな」
惚気られているのだろうか、と思って、ハッとする。
もしかしたら。
「陛下、申し訳ございませんが、話を変えさせていただきます」
「なんだ」
「ツェイルさまとの婚約、どちらです」
「……話がだいぶ変わったな」
「どちらです」
「……どういう意味だ」
「正妃か、側妃か、という意味でございます」
呆れた眼差しを寄こしたサリヴァンだったが、さらに怪訝そうにもした。
「正妃だろうが」
当たり前のように言った。
「ツェイルさまを娶られるのですね?」
「……言っておくが、おれの正妃だぞ」
「はい、そうです」
「これから先、ツェイル以外の者を娶るつもりはない」
「……わかりました」
「なにを言わせたかったんだ、おまえは」
いいえ、とルカイアは首を左右に振る。
「確認したかっただけにございます」
「なんのために」
それは、とにっこり微笑めば、サリヴァンはいやそうに顔を引き攣らせた。
「婚姻式を、いつにしましょうかと」
「おまえな……メルエイラの者たちを盾に取るのは、もうよせ。おれがツェイルを手放さないと言っているんだ」
「ええ。ですから、婚姻式をいつにしようかと思うわけです」
いやそうにしていたサリヴァンだったが、ふと表情を消すと、深々とため息をついて視線を逸らした。
「ツェイルが望まない限り、式は挙げない」
「あなたは国主ですよ」
「だとしても、ツェイルが望まない限り、式は挙げない」
それは残念だ。
しかし、それならそれでかまわない。ルカイアの目的は一つ、達成されている。今はそれで満足しておくしかない。
サリヴァンが妻を娶る。
ルカイアにとってそれは鍵だ。鍵ができたのだから、あとは扉を開き、進むだけである。
「……なにか、企んでいそうだな」
「おや、そう見えますか」
「なにを考えている」
「わたしの考えていることなど、いついかなるときでも、わが帝国のことですよ」
考えていることなど、いつでもそればかりだ。
だからルカイアにとって、サリヴァンがツェイルを娶ることは重要なのである。
「……おまえは、そうだったな」
はあ、と息をついたサリヴァンが、ルカイアに背を向ける。どうやら部屋へと戻るらしい。
ルカイアは近くの近衛騎士を呼び、追従するよう命令した。
「陛下、今宵の夜会、やり直しますか?」
「公子は今夜を以って貴族の列から廃す。それは変わらない。夜会は終いだ」
「では、のちほど食事にでもお誘い致しましょう」
「そうしてくれ」
ではな、と言って講堂を去るサリヴァンの背中を、ルカイアは深い礼をもって見送った。
気配を感じなくなってから顔を上げ、ふっと息をつく。
「そう、わたしの考えていることは、いつも同じ……わたしはなにを犠牲にしても、あなたをわが帝国に縛るのです」
ルカイアのひとり言は、誰も聞くことがなく、ぽつりと落ちる。
「それが、あなたを護ることになるのですから……」
ルカイアの呟きは、ただそっと静かに、消えていった。