01 : その瞳が語るもの。1
ツァイン・オル・メルエイラは、ヴァリアス帝国騎士団の第一部隊の隊長だ。しかし今は、ツァイン・ウェル・メルエイラ、帝国近衛騎士団の近衛隊長、そして侯爵である。
ツァインのその昇華は、国政に携わる者たちに広く、さまざまな憶測を飛ばさせた。
メルエイラ家はもともと貴族でもなんでもなく、流れ者の一族だった。流れ者といっても、そういう商いをしていたわけではない。雇われて人を殺す、暗殺の一族である。傭兵と紙一重でありながら、その技術を高く評価した帝国の国主に気に入られ、そして騎士位を与えられ、さらには侯爵位を授けられ、安住の地を探し求めていた一族はここに定住を決めたのだ。
ゆえに、メルエイラ家は、生粋の貴族ではない。
しかも先帝の時代には、メルエイラ家は潰されかけている。暗殺の一族であったがゆえ、定住し帝国に忠誠を誓ってもなお、先帝だけは叛旗の疑いを晴らさなかったためだ。一時は爵位を剥奪されそうになったが、メルエイラ家の技術の必要性を唱えた一部の貴族によって、爵位を落とすだけで済まされた。
先帝が崩御し、現皇帝の時代となって五年、ツァインの昇華は、つまりは、その血が背負うものをすべて、帝国のために差し出せということだ。
疑いの眼差しが強かった先帝も、先帝にはっきりとした意思を伝えられなかったメルエイラ元伯爵も、すでにこの世にはいない。新しい時代を求めた者たちと、真にメルエイラ家の必要性を唱える貴族たちが、メルエイラ家にそれを強要したのである。
そして、没落しかけていたその時代でもやらなかったことを、メルエイラ家は強要された。
「よりにもよって、ツェイルを、ですの?」
姉、テューリが蒼褪めながら、両手を震わせていた。蒼褪めていてもなお美しいテューリに、ツェイルは「美人がなにをしても許されるのは当たり前じゃないのか」などと、関係のないことを思った。
「ええ。わがあるじの妃に、迎えたいと思います」
「お待ちくださいまし、宰相閣下。わが妹はこのとおり、身も心も熟さぬ童です。それを……」
「これは決定事項であり、あなたの言葉に効力はございません」
その人は、昨日ツァインを呼びとめ、おかしな会話をした人だった。
「ツァイン兄上……ツァイン兄上はどうしましたの!」
「わがあるじが召喚しております」
「! ツァイン兄上がおられないこのときを狙って……あまりにも不躾ではありませんか!」
テューリは怒鳴ったが、その人は怯みもしなければ、あらゆる感情を見せなかった。ただ静かに、そして冷やかに、テューリを見つめてツェイルを見るだけだ。
「失礼します、ツェイル姫」
呼ばれたとき、腕をその人に掴まれて、引っ張られていた。
「ツェイル!」
悲鳴のようにツェイルを呼んだテューリが痛くて、見ていられなくて、ツェイルはその人に抗ってテューリに腕を伸ばしたが、無駄だった。
「ツェイル、ツェイル! わが妹をお返しください、宰相閣下! わが妹を……わたくしのツェイルを返して!」
「失礼いたします、テューリ姫」
「いやよ、ツェイルを返して! ツェイル!」
ほとんど抱えられるようにして、ツェイルはテューリから引き離された。
「姉さま……っ」
どうしてこんなことになっているのか、わからないまま、ツェイルは四駆の車に乗せられた。
鉄製の車は、鉱石を機動力にした、貴族でもそう所有できない高価な乗り物である。いつか乗ってみたいとは思っていたが、こんなふうに乗ることになるなんて、考えられなかった。
車の扉が閉められると、とたんに車は発進する。
邸や姉の姿は、あっというまに見えなくなってしまった。
「姉さま……」
まず、自分の身になにが起こったのか、ツェイルにはわからない。姉があんなふうに取り乱す意味もよくわからない。
けれども、はっきりしていることがあった。
「わたしは、誰かに、嫁ぐのですか」
「はい。わがあるじに」
答えたのは、一緒に乗り込んだその人だ。
「わが名はルカイア。宰相の末席を汚しております、ルカイア・ラッセと申します」
宰相。
姉も、その人を宰相閣下と呼んでいた。
それならば、宰相閣下がわがあるじと呼ぶ人は、ひとりだけである。
「あなたは、今玉座におられるお方に嫁ぐのです」
まさか、と鼻で笑えたらよかった。
けれども、できなかった。
ルカイアが、至極真面目であったから。
「あなたには後宮に入ってもらいます」
帰りたい。
そう思った。
「どうして、わたし、なのですか」
こんな貧相な娘、今だって男の子のような喪服を着て、髪だって結い上げられるほどの長さがなくてそのままであるのに、どう見ても異色としか思えない者を、なぜ後宮に連れて行こうとしているのだろう。
ルカイアの瞳が細くなった。
「メルエイラ家の力が、あのお方には必要だからです。そして、あなたはメルエイラ家の最大の秘密……あのお方のそばにあるのが望ましい」
メルエイラ家は生粋の貴族ではない。しかし、その血が背負う力は、今もなお引き継がれている。
それが必要だと、ルカイアは言った。
その秘密をツェイルが持っていることすら、知っていて。
「わたしの、力を……知っているのですか」
「ええ。あなたが、メルエイラ家の暗殺術を引き継ぎ、その天恵を所持していることは、すでに承知しています」
ツェイルが天恵者であることを、ルカイアは知っている。家族しか知る者がないはずなのに、それは驚愕以外のなにものでもなかった。
「ツァインもまた、天恵者であることを、承知しています。ツァインとあなた、ふたりでひとりの天恵者となる、そのことも」
「……なぜ、それを」
兄、ツァインも天恵者であることを、知られている。
「あのお方のそばには、古の騎士がいます。そして、古からの王が、再びこの世にその姿をお見せくださいました。メルエイラ家の秘密は、もはや秘密ではありませんよ」
誰がなんと言おうと、それらは秘密だった。存在を知られてはいけないことだった。
ツェイルは項垂れた。
自分が天恵者であり、また兄もその天恵者であることは、隠し続けなければならないことだったのだ。
「ですが……」
ルカイアがふと、顔に影を落とした。
「そのように、落ち込むことはありません。攫うようにあなたを連れてきましたが、悪いようにはしませんよ。もちろん、そういう扱いをするつもりもありません」
「え……?」
「わたしはただ、わたしができる限りのことを、あのお方に差し上げたいだけです。それがたとえ自分勝手なことであっても、ね」
わたしはきっと、あのお方を一番に考えることは、できないだろうから。
そう言ったルカイアは、少し悲しげだった。
その言葉の意味は、矛盾してはいまいか、とは思ったが、それ以上の意味はわからなかったし、ルカイアがなにを思ってそう言ったのかもわからなかったから、ツェイルはただ聞いているしかなかった。
「わたしは、兄を帝国の騎士に在り続けさせるための、人質ですか」
「いいえ。メルエイラ家をあのお方に残すために、人身御供となっていただくのです」
つまるところ、必要なのはメルエイラ家であり、けしてツェイル自身ではないということだ。
完全に自分を無視されたことは悲しいし腹立だしいことではあるが、ここでツェイルが逆らえば、メルエイラ家は爵位の剥奪のみならず、一族皆殺しとなるだろう。逃げ切る力はあるしその自信もあるが、一生を追われ続ける生活になるだろうことは考えなくともわかる。
これから嫁ぐ姉、まだ幼い妹と弟、仕えてくれている者たちのことを想えば、ツェイルはおとなしく、黙ってルカイアに連れられて行くしかなかった。
「ごめんなさい、兄さま……」
秘密が暴かれてしまった以上、そして家族を人質に取られたも同様なこの状態で、ツェイルができることなど高が知れている。
だから、兄に謝って、ツェイルは俯いた。
涙はやはり出なかった。
枯れてしまったのではない。泣いてはいけないのではない。
ツェイルはただ、泣けないのだ。
そうしているうちに、ツェイルの想いなど無視して、車は皇城に到着した。
「後宮には、わたし以外の宰相ふたりが呼び寄せた妃候補の姫たちが、未だ滞在されております。ですが、お気になさらず。彼女たちにはすでに滞在理由を失っておりますので」
「それは、妃候補ではなくなったと、そういうことですか」
「はい。未練がましく、残っているだけです」
ひどい言い方をしたルカイアだったが、後宮入りしたツェイルがすれ違った姫たちの態度を見ると、ルカイアがひどく言いたい気持ちが頷けた。
なんというか、ひたすら態度が悪い。いや、悪いわけではない。高飛車で高慢ちきそうな視線が、ツェイルをじろじろと見ては、こそこそと言い合うのだ。表立ってツェイルに言えないのは、ツェイルがルカイアという、歳若い優秀な宰相に連れられていたからだ。
「彼女たちへの謁見は、許されません。すでに彼女たちは滞在理由を失い、早々に帰らねばならぬ身ですから」
「逢いたいとは、思いません」
「でしょうね。もし彼女たちからの謁見があったとしても、そのすべてわたしのところで決済しますので、ご安心を」
「それはお願いします」
いじめられそうだし、いじめられに行きたくもないので、そこはルカイアに頼むしかない。ただでさえ攫われるように連れて来られたのだ。ここにいい思いはしないし、これ以上つらくなりたくない。
「それから……ツァインに逢うこと、ごきょうだいに逢うことは、これも許可できません」
「え……なぜですか」
それくらいはいいだろう、とツェイルは慌てた。
「今は許可できないということで、永遠にそうというわけではありません。今はまだ、特にツァインはひどく取り乱しておりますので、許可できないのです」
兄のそれは予想通りではあるが、一度くらいは逢って、そうしてその覚悟を話しておきたかった。
兄に逢いたい。
姉に逢いたい。
妹と弟に逢いたい。
またきょうだい皆で、賑やかに笑い合いたい。
寂しい。
「……逢いたい」
そうこぼせば、なぜかルカイアに、ぽんぽんと頭を撫でられた。その仕草に少し驚いて顔を上げると、ルカイアは申し訳なさそうに苦笑していた。
おそらく、いやきっと、この人は本当は優しいのだ。ただ、自分勝手なことをしても、できることをしたくて、それを貫いているのだろう。
「宰相閣下」
「わたしのことは、ルカ、とお呼びください」
「……ルカ、さま」
「なんでしょう、ツェイルさま」
「わたし、ルカさまのこと、誤解していたようです」
「誤解、ですか?」
「わたし、ここに来たこと、本意ではありません。これ以上のつらい思いは、いやです。ルカさまは、わたしのそれを、わかっていらっしゃる」
「……わたしの身勝手で、あなたをここへお連れしたことは、自負しております。ですが、謝罪は致しません。わたしは、わたしができることをあのお方にしたいのです」
ルカイアの濃い碧色の瞳は、強く「あのお方」を想っていた。それはツェイルが、きょうだいを想う気持ちに、酷似している。
だからツェイルは、嘆かないと決めた。
「わたしは、わたしのできることを、したいと思います」
それは、ここに来たときに、決めたこと。
「兄さまと姉さまの幸せ、弟と妹の幸せを、わたしは祈ります」
それは、ルカイアの強い意思を感じて、決めたこと。
「わたしは、ここにいます」
たとえ、ルカイアが望むようにならなかったとしても、そのときはきっと自分の役目も終えているだろうから、いることだけならできる。ただでさえ叛旗の疑いをかけられた一族なのだ。
ツェイルがここにいることで、それらが晴れて、きょうだいが末永く幸せに暮らせるのなら、それでいい。
自分の身ときょうだいを天秤にかけるなど、きょうだいが大好きなツェイルには、とうてい無理なことだ。
メルエイラ家を欲し、その人身御供にツェイルを選んだルカイアの眼は、間違っていない。
「あなたの強さに敬意を表します。ご理解、ありがとうございます」
深く頭を下げたルカイアに、ツェイルもまた、深く礼をした。