Plus Extra : 第九特務騎士隊追想録。7
*なんだか別物語になってしまったような気がしますが……気にしないでお進みください。
■ 三席ユグド・コール・シュミッド、外席コカ・ディーディス・シュミッド。
午後から休みをもらった近衛騎士隊三席ユグド・コール・シュミッドは、その時間を有効利用することにし、長らく顔を見せていなかった実家へと向かった。ユグドの立場に未だ戸惑っているシュミッド子爵家へは、サリヴァンが仮初めの皇帝となった頃から、実はあまり連絡は取っていなかった。サリヴァンが皇弟と知られてから、漸く足を向けた次第だ。
ユグドの帰省に、健在である両親はもちろん、兄夫婦もひどく驚いたが、その戸惑いはどちらかというとユグドの身を案じているだけのもので、皇弟として周知されたサリヴァンについた騎士という立場はどこかに放置された。というより、よくわからなくて考えることを放棄されたような感じだった。爵位は持つが権力には程遠いからだろう。
「なんか世の中えらいことになっているけれど、おまえだいじょうぶ?」
「心配されるようなことをわたしはしましたか?」
「おまえ、五年くらい音信不通だったの、わかってる?」
「わたしが騎士団にいることはご存知でしたでしょう」
「それと一度も帰って来なかったのは別問題だからね?」
「シュミッド家は一の兄上がおられるのですから、わたしがいなくとも問題はないでしょう」
「うん、あれだ、おまえちょっとアルドに殴られておいで?」
長兄に促されて後ろを振り向き、そこに鍋を頭上に掲げた次兄を見つけたときは正直ユグドのほうが驚いた。
「二の兄上、立って歩かれてだいじょうぶなのですか」
この次兄、歩けば転ぶような人なので、あまり自室から出てこない。それこそ、ユグドが突如帰省したとしても、姿を見せるような人ではないのだ。
「おまえは、おれを、なんっだと思っているんだ!」
思い切り投げつけられた鍋を、まあ次兄のやることなので造作もなく掴んで卓に置く。静まり返っていたその場が、さらに静まり返ったのは言うまでもない。
「はぁぁ……仕方ない。僕が殴るよ」
「は?」
意味もわからず、ごん、と長兄に頭を拳で殴られる。まあこれも長兄のやることなので、とくに痛くはない。次兄は案の定転んで、転び過ぎて奇声を上げながら床を転がり回っている。
「一の兄上、二の兄上を休ませたほうが……」
「おまえ……どこまで鈍いの? アルドは虚弱体質なんかじゃなくて、もちろん僕もそうだけれど、おまえが異常に強いだけなんだからね? シュミッド家史上初の鬼才だって、いつになったら気づくの?」
「はあ……しかし一の兄上、二の兄上を」
「どうしてこの子、こんなに鈍いのかな……」
ぺしぺしと、やはり痛くはないが、長兄に頭を叩かれる。
そのときになって漸く両親が、ユグドの帰省を理解したようだった。
「あ、ああ……いつものユグドだな」
「ええ、ええそうね、あなた。いつもの兄弟喧嘩だわ」
どうやら両親は、ユグドが本当にユグドであるのか、判断できなかったらしい。兄弟のやり取りを見て、やっとユグドだとわかったようだ。しかし、対応は長兄に任せるつもりでいるらしく、ホッとしながらも見守るだけだ。
「ユシアにも連絡入れたから、そのうち来るだろうけれど、ユシアにも殴られると覚悟しておくんだね」
「はあ……」
「あのね、ユグド、僕らはなにも、急に帰ってくるなと言っているわけではないんだよ。五年ぶりに帰ってきたかと思えば変わってないおまえに、少々どころか、かなり呆れているだけでね」
「……わたしがいなくとも、兄上たちが」
「いやだから、そういうことではないんだよ、ユグド。おまえは、自分をなんだと思っているの?」
やけに真剣な長兄に、そこまで苦にされる理由が自分にはあっただろうかと、ユグドは甚だ疑問である。
ユグドは、このシュミッド子爵家において、爵位を継ぐ必要もない微妙な立場の三男坊であり、それゆえ騎士を目指した、どこにでもいる貴族のひとりに過ぎない。一時は聖騎士にまでなったが、サリヴァンの騎士となってからはそれも意味をなさなくなり、ただの、一介の騎士になった。だが、そこにも問題はない。サリヴァンは華やかさを失った皇族であり、唯一の皇弟であるし、それを護る騎士隊の一員であることは誉れだ。たとえそうではないと糾弾されても、ユグドは胸を張ってサリヴァンの騎士であることを誇る。歩んだ道に後悔はないユグドだ。
「わたしはサリエ殿下をお護りする騎士です」
「……そう、それだよ」
「なにか問題でも?」
「いや、問題らしい問題ではないのだけれどね……」
ため息をついた長兄が、力尽きたようにユグドの隣に腰を下ろした。ついで、床を転がっていた次兄も、なにか文句らしき言葉を口にしながら、ユグドの向かいにある長椅子に腰かけた。
「メルエイラの若が、おまえの上にいると聞いて……ちょっと複雑なんだよね、兄として」
「ツァイン・メルエイラをご存知ですか」
「白紫の双剣として、あれは有名だよ」
「ああ……あれは、ツァインのことでしたからね」
「そんな凶暴な獣のそばに、可愛い弟がいるなんて……お兄ちゃんちょっといやなんだよね」
「はあ……」
まあツァインのことは、あれは思考を理解しようとするだけ無駄なことなので、ユグドはその人柄を深く知ろうと思ったことはない。噂もどうでもいい。長兄がツァインを「凶暴な獣」と称したことさえ、人の捉え方はさまざまだと、それくらいにしか思わない。というか、ツァインは事実凶暴であるし、獣のようであるし、危険度は高い。否定できないというのがもっともな理由で、それくらいにはユグドもツァインを把握している。
「てか、ユグド、おまえなんで、そこにいんの?」
と、次兄が口を挟んできた。
「そこ、とは?」
「なんで皇弟? なんで近衛隊? べつに、そこまで行かなくたってよかっただろ」
そう言われても困る。聖騎士になったのはユグドの意志ではなかったし、サリヴァンとは運命的だったとしか言えない。次兄が不服そうなことに、ユグドは首を傾げた。
「なにがご不満なのですか」
「なんでこの家を出て行ったんだって訊いてんだよ!」
急に声を荒げた次兄を、長兄が「まあ落ち着け」と宥める。怒鳴られる理由が、ユグドにはさっぱりだった。
「兄上はユグドに甘い! そんなだから、ユグドは五年もこの家に寄りつかなかったんだ!」
「いや、それはおまえ、ユグドのさっきのあれ、聞いてなかったの? この子、疑問にすら思ってなかったんだよ?」
「おれは、ユグドを追い出したかったわけじゃないぞ!」
「それは僕も同じだよ。ユグドが出て行っちゃって、なんでかわからなくて、悩んでいる間にこの子は聖騎士になっちゃって……気づいたら、今では皇弟の騎士隊にいるし」
長兄も、ユグドになにか不満があるらしい。
実家に顔を出したのは失敗だっただろうか、とユグドは眉間に皺を寄せ、しかし一度顔を出さねばならない理由もあったので、どうしたものかと悩む。また後日にしようか。
「って、ユグド、どこに行く気だ!」
長椅子から腰を上げたユグドを、すかさず次兄が咎めてくる。
「なにかわたしにご不満があるようですが、わたしはそれを弁明する言葉を持ちません。後日、出直すことにします」
「そう言って、また何年も帰って来ない気か!」
次兄のそれに、長兄も明らかな不機嫌を見せ、ユグドを軽く睨んでくる。これは本格的に出直したほうがよさそうだと、ユグドは席を離れた。だがそれを、長兄が腕を掴んで引き留める。
「だめだよ、ユグド。僕らは不満があるわけではない。ただおまえが、心配なだけだ」
「……わたしは兄上たちに心配させるようなことを、なに一つ、しておりませんが?」
「その無自覚……本当におまえは、自分をなんだと思っているのかな」
「わたしは殿下の」
「わかっている。おまえがこうして帰ってくる気になったのも、きっと皇弟殿下のおかげだろう」
よくわかっているではないか、とユグドは小さく息をつく。
今日この時間を有効利用しようと思ったのは、サリヴァンが、これからもっと周囲が落ち着かなくなるのだから今のうちに実家に顔を出せと、ユグドが数年ほど顔を見せていないことを知って提言したからだ。
「ねえユグド、突然と家を出て行ったおまえが、急に帰ってくるなんて、いったいどういうことだろう?」
漸く本題に入れる、とユグドは内心ホッとする。
「婚姻の報告をしなければなりませんでしたから、そのために戻りました」
「……婚姻?」
とたんに、長兄と次兄が、目を真ん丸にして硬直した。
両親は知っていることなので、おもにこの長兄と次兄のために実家に顔を出したユグドである。
「そうなのよ、エリエド、アルド。ユグドったら、いい人と巡り合えたのよ」
母が嬉しそうに、父とにこにこ笑って、兄たちの強張りをひどくする。
「ど……どういうことですか、母上」
「どうって、そのとおりよ?」
「こ、婚姻って……ユグドがっ?」
ひどく驚く兄たちに、たかだか婚姻でそこまで驚かれる理由もわからないユグドは、周囲に視線を巡らせる。一緒に来てはいるのだが、途中で怖気ついて隠れた妻が、どこかにいるはずなのだ。
「ゆ、ゆぐど、おまえ、その鈍さでどうやって……!」
「どう、と言われましても」
「いつ! いつ婚姻を」
「かなり経ちますよ。理性が切れて襲った手前、その責任もありましたからね」
「襲っ……ユグドっ?」
信じられないようなものを見る目で、兄たちはユグドを頭から足先まで改める。なんだか急に居心地が悪くなった気がする。
「おまえに娶られるなんて可哀想な……!」
「それは否定しませんが」
「どこにいるんだい!」
「どこかにいますよ」
「連れて来なさい!」
「隠れてしまったので、引きずり出すのは少々手間です」
「なにをやったんだい、おまえは!」
これは怒られているのだろうか、と思いながら、気配だけは感じられる妻に姿を見せてくれるよう、心の裡で頼んでみる。しかし、そんな心の声など、当然だが届くわけもなく、またそこまでして頼むことのほどでもないと思い直し、ユグドは淡々と事実だけを兄たちに報告し、戸惑い慌てる彼らを放置して両親に挨拶を済ませる。
「待て、ユグド!」
「待ちなさい、ちゃんと話してからにしなさい」
兄たちにはしがみつかれるようにして引き留められたが、あれこれと質問されるならともかく、ただ怒鳴られ怒られるだけであるなら面倒なので、ユグドはさっさと振り切った。
空を見上げると、中天にあった太陽は傾き、それなりの時間を実家で過ごしていたことをユグドに告げる。
そうして。
「……コカ」
いい加減にしろ、と少々怒気を含めて妻を呼べば、木陰からおずおずと妻コカは姿を見せた。藍色の瞳は困惑と怯えに揺れ、その瞳を縦断する傷跡は声を紡ぐことが難しい口許と一緒に幅広の長い襟巻に隠され、小さな身体はユグドと距離を保つ。
はあ、とため息をつき、ユグドは妻に背を向けて帰路につく。
「! うーと……っ」
慌てたコカが、ユグドの背を追い駆けてくる。とん、と背中に貼りつかれて、ただ呆れていただけのユグドも足を止めた。
「兄たちはともかく、両親には一度くらい顔を見せなさい。言っただろう。わたしは貴族ではあるが、後継ぎでもなんでもない。きみと婚姻を結んだところで、なんの問題もないと」
書類上の契約を交わしたときに、すでに言っておいたことで、コカもこれは了承していたことだ。ユグドが貴族であることに気後れしていたが、そもそもユグドが生粋の騎士であることは、コカもその目で見ているのだ。なんの問題もないことは、わかっていたことだった。
「れ、も……っ」
紡ぐことが難しい声を、必死に出して震えるコカに、ユグドは幾度めと知れないため息をつきつつ、その小さな身体を抱き寄せる。
「案ずるな。きみは、わたしのそばにあればいい」
ぽんぽん、と頭を撫で、重要なのはそこだと言っておく。
「なにも恐れることはない」
出逢った頃は、死ぬために生きていた彼女を。
どうして自分は、こうまで愛したのか、ユグドはわからない。
それでも、腕のなかにあるぬくもりが、いとしい。
「うーと……」
ユグドを「ユグド」と呼べなくて、「うーと」と紡がれる声に、ユグドはいつも安堵を覚える。
不安そうに見上げてくるコカの額に唇を落として、自分がそうされるように安心を与えると、手を引いて帰り道を進んだ。