Plus Extra : 見上げれば太陽、月。そしてあなた。11
ツェイル視点です。
近隣に咲くルーフが、白く染まっていた。それまで赤く咲いていたルーフが、再び本来の白を取り戻すと、意味を知る者たちからは自然に安堵の息がこぼれ落ちた。
けれども。
ツェイルは海辺を一望できる窓の縁に、外側に乗り出して座り、ぼんやりと海を眺めていた。
サリヴァンが戻らない。
帰ってこない。
少しでも声を出そうものなら、そこから息が詰まって枯れてくれない涙が溢れるから、口は閉ざした。ただひたすら沈黙し、海を眺め続けた。
ツェイルの後ろでは、サリヴァンが読んでいた書物を眺める聖王が、長椅子に座っている。
聖王からの言葉はない。天に向かって「還せ」と言ったあと、それまで赤く染まっていたルーフに白を取り戻させたが、それ以上のことはしなかった。ツェイルがずっと海辺で待っている間、聖王はどこかに消え、そしてツェイルが一度宿に戻ってきてみれば、聖王はサリヴァンが読んでいた書物を手に、長椅子に座っていたのである。
期を待て、と聖王は言った。そのときが来れば引き摺りだす、と言っていた。それはきっと、なにかの周期のようなものがあって、聖王はそれを読んで行動しているということなのだと思う。黙して座す聖王にラクウィルは声を荒げたが、ツェイルはラクウィルのその口を閉じさせた。なにか理由があるから、聖王はここに留まっているのだ。
そして今も、聖王はツェイルに話しかけることもなく、書物を眺めている。
だからツェイルも、聖王の言葉を信じて、黙して海辺を眺め続ける。聖王の言葉を信じるしか、ツェイルにはできることがなかった。
「姫、夕食ですよ」
部屋の扉が開けられ、明かりを片手に持ちながら、夕食を運んできてくれたラクウィルが入ってくる。ツェイルはちらりとその姿を見やって、再び海を眺めた。後ろで夕食の用意がされる音が聞こえたが、食べる気が起きず、無視した。
「姫、食べてください」
そう言われたが、聞こえないふりをした。
「食べて、姫」
二度めの声は耳元に近く、仕方なく視線を向ければ、無表情のラクウィルが食べやすいようにと工夫された食事を手に立っていた。
「無理やり口に突っ込まれたいですか?」
物騒なことを言うラクウィルに表情はない。心底から腹を立てて怒っているときのラクウィルは、顔から表情が削げ落ちる。
ラクウィルは怒っていた。ツェイルに、聖王に、サリヴァンに、怒っていた。
ツェイルは少々怯みながらも、食べたくないからと首を左右に振った。すると、突然ラクウィルは不気味に笑み、手のひらほどの大きさの麺麭を摘まむと、ツェイルの唇に押しつけてきた。
「食べないと怒りますよ」
もう怒っているのに、そんなことを言う。
口をつけてしまったら食べなければならないとわかっているから、ツェイルは口を開かなかった。だが、唇をつけてしまった以上、押しつけられている麺麭は食べなければならないとも思った。明日食べるものにも困ったことがある身だ、食べものを粗末にしてはならないことは、骨身に染みている。
迷いながらも、けっきょくツェイルは口を開け、押しつけられた麺麭を口の中に突っ込まれる。噛むと、味はわからなかったが、軟らかさだけは感じられた。咀嚼し、残りを食べるために口を開けば、その隙にラクウィルが麺麭以外のものを口に突っ込んでくる。
手のひら大の麺麭を食べ終わる頃には、ラクウィルが用意してくれた食事のほとんどが、ラクウィルの手によってツェイルの腹に入れられた。
「さて、次は沐浴です。おれにひん剥かれなくなかったら、自分から動いてくださいね」
そう、言われて。まさか本当にそうされるとは思っていなかったので、ツェイルは再び視線を海辺に戻した。
夕闇に染まった海は、日中の鮮やかさが嘘のように、黒く深い闇を思わせる。
「……サリヴァンに怒られるからやりたくないんですが」
ふと、腰にラクウィルの手が回る。なにをするのかと思いきや、着せられていたサリヴァンの上着を、すぽんと脱がされた。吃驚した拍子に窓から落ちそうになり、慌てたらまたラクウィルの手が伸びてきて、救出される。
そろりと振り向いたら、またも無表情のラクウィルがいた。
「沐浴です」
本気だ。ひん剥くというのは、嘘ではない。
さっと青褪めたツェイルだが、逃げようにも逃げられず、やはりけっきょくは沐浴させられることになった。幸いなことにひとりで浴室に入ることができたが、上がってから、見られても平気なほど服を着たところで、ラクウィルに捕まった。サリヴァンの上着をツェイルに着せると、来たときのようにツェイルを抱えて部屋に運び、ツェイルを寝台に置く。今度はなにをする気だと少々怖気づいたツェイルだったが、海辺を見ていたくてそろりと動いてもラクウィルはなにも言わなかったので、寝台をおりるとまた窓の縁に座った。少し冷たい夜風は、サリヴァンの上着が防いでくれる。
サリヴァンの優しい香りが残る上着に身を包みながら、ツェイルは一晩中ずっと起きて海辺を眺めた。ラクウィルはそのことだけには口を出すことなく、食事や沐浴以外はツェイルの自由にさせ、ツェイルが海辺を眺めている間はずっと、ツェイルのそばでただ静かに控えていた。
つと、眠気を覚えた三日後。
ツェイルはひたすら海を眺めていたが、長椅子に座って書物を眺めていた聖王はときおり姿を消しては、いつのまにか部屋に戻ってきていた。この日は、朝から海辺にいる。
「……?」
なにをしているのかわからなかったが、聖王は真っ白な長い杖を持ち、空を見やっていた。だが、ツェイルがその姿に気づいたときには、聖王はそこから姿を消していた。またどこかに行ったらしい。或いは城に帰っているのかもしれないが、とにかく聖王は宿に戻らず、ラクウィルが朝食を運んできたときも戻ってくる様子はなかった。
「姫、猊下は?」
またも食事をラクウィルに口へと突っ込まれながら問われて、ツェイルは首を左右に振る。
「サリヴァンを引き摺りだす気にでもなってくれたんですかね……」
はあ、とラクウィルがため息をついたとき、用意された朝食はすべてツェイルの腹に入ったので、ツェイルは視線を海辺へと戻した。ずっと喋らないツェイルをどう思っているのか知らないが、ラクウィルも必要なこと以外は口にせずツェイルの自由にさせてくれていたので、会話は気にする必要がない。
昨日も帰ってこなかった。
今日こそ帰ってきてくれるだろうか。
そう思いながら、ずっと身を包んでいるサリヴァンの上着を握りしめ、ツェイルはぼんやりと海を見つめる。
海は、サリヴァンが言っていたように、毎日違う姿を見せる。また、同じ姿を見せることもある。風の向きや強さで波は常に変動し、昇ったり落ちたりする太陽や月に合わせて色を変え、眺め続けても見飽きることがない。海辺を散歩する人たちは、海のそんな様子を気に入っているのだろう。
「……ひめ」
海を見たいと思ったのは、鮮やかな青を見たかったからだった。
「姫……っ」
海の青は、サリヴァンの瞳の色によく似ていると聞いたから、見たいと思った。
「ツェイ」
海を見たら、今度は麦を栽培する地方へ行きたいと思った。
「……ツェイ?」
麦は、失われつつあるサリヴァンの元の髪の色に、よく似ていると聞いた。麦のそんな姿など見たことがなかったから、見たいと思った。
「ツェイ、戻ったぞ」
サリヴァンと、世界の美しさを見たかった。世界は美しいのだろうと言うサリヴァンと、一緒に見たかった。そうすれば、血に穢れた自分でも、世界の美しさに触れられると思った。
それは、幻想でも、幻覚でもなかった。
「悪かった、ツェイ。だから、そんなに怒るな」
ふわりと香った優しさに、ツェイルは瞠目する。
自分を抱きしめる腕があることに、驚いた。
「! ……?」
そろりと振り向いて、息を呑む。
「寂しかったぞ、ツェイ」
とたん。
ぼろりと、涙がこぼれた。
それはあとから次々とこぼれ、頬を伝っていく。
「……サリ、ヴァ……さま」
「ああ、ツェイ。ただいま」
にこりと微笑んだいとしい人に、唇を塞がれる。優しく静かな口づけに、ますます涙はこぼれた。
「ただいま、ツェイ」
艶だけを残して真っ白な髪となったサリヴァンが、ツェイルを抱きしめていた。