Plus Extra : 見上げれば太陽、月。そしてあなた。2
ヴァンニの街から馬で三日というラバンの港町へ、海を見に行くという名目で旅行することが決まった二日後の午後、サリヴァンはツェイルを連れて、ラクウィルの案内のもと、出立した。
「馬車とは、懐かしいな」
「大抵の移動は駆動車でしたからね。でも、これがふつうなんですよ、サリヴァン」
「ふつう、か……そうか」
車は皇族に近い貴族だけが乗るものだと、御者台で馬を操るラクウィルは言う。大抵はこういう、木製の馬車で長距離は移動するものらしい。あと数年もすれば四駆の車も貴族の主流となるだろうが、国土に浸透するにはもっと時間がかかるだろう。そもそも整備されていない道が多いので、まずはそちらの事業を進めていかなければならない。
いったいどれだけの時間をかけて、文明は発達していくのか。気の遠くなるような長い話だと思った。
「先にこれからの予定を話しておきますね」
「ん、ああ」
「今日のところはなだらかで安全な道を行くので、休憩は最低限にします。中継点の街三つのうち、一つはフィブリールの街、もう一つはハガンの村、この二つが休憩地です。最後の街で一泊、ということになります。いいですか?」
「そこで、ナイレンかクラウスと合流するんだな?」
「はい。二日目の道は整備が甘くてちょっと危ないので、護衛をひとり増やします」
「行けるところまで移動してもかまわないが……」
「たぶんサリヴァンの体力が続きません」
「う……」
「という行程なので、よろしくお願いします」
「おれの体力重視の移動か……」
体力皆無と言われるから、それなりに身体を鍛えているつもりなのだが、いくら鍛えてもラクウィルや近衛騎士たちには敵わない。いったいどういう身体の造りをしているのだと、逆に問いたいくらいだ。
「あ、そうそう。姫がいることですし、やっぱり女手は必要だと思いまして、急きょ侍女をひとり、同伴させることにしました」
「侍女?」
必要だとは思っていたが、手配が間に合わないために仕方ないと諦めていた女手は、ラクウィルが確保してきたらしい。しかし馬車には同乗しておらず、できれば見知らぬ人間をそばに置きたくないサリヴァンとしては、いくらラクウィルが人選したとはいえあまりいい顔ができない。
「そんな顔しないでくださいよ、サリヴァン。だいじょうぶですよ」
「だが……」
「この先で落ち合います。だいじょうぶ、おれが見込んだ女官ですよ」
ラクウィルのことを疑っているわけではない。見知らぬ人間が、サリヴァンはいやなだけだ。
「おまえがそう言うなら……」
ちらりと、隣のツェイルの様子を窺う。サリヴァンが心配しているのは、自分の体力云々もあるが、ツェイルのことだ。人づき合いが苦手なツェイルが、見知らぬ侍女と一緒でだいじょうぶだろうか。リリにはすぐに懐いた様子だったが、それはリリがツェイルに嘘偽りない姿を見せていたからだ。ツェイルは人の気配を読むのに長けている。だからリリのそれに気を許し、懐いたのだ。
しかし、サリヴァンとラクウィルの話は聞こえていただろうが、ツェイルは今それどころではなさそうだ。目がきらきらとしている。
「すごく嬉しそうだ……」
海を見られることが、よほど嬉しいらしい。全身が輝いているように見えるのはサリヴァンの錯覚だろうが、それでも目に眩しいくらい喜んでいる。
見知らぬ者が一緒でも問題はないかもしれない。
ツェイルの様子に、サリヴァンは苦笑した。
「楽しい旅行に、なるといいな」
そう言うと、ツェイルが振り向いた。
「サリヴァンさまと、一緒なのです。楽しいです」
楽しくないことなんかない。ツェイルは、確信しているように微笑んだ。この笑顔が見られただけでも、海へ行こうと思ったことを後悔しまい。こんなに嬉しげなツェイルは、そうそう見られないのだ。
それから少し馬車を走らせると、街を抜ける手前でラクウィルは馬車を停めた。侍女との待ち合わせ場所なのだろう。少しだけ待つと、馬車の扉が開いた。
「イル姉さま!」
と、その声に驚く。ツェイルも目を丸くしていた。
「ネイ?」
「はい、姉さま。シュネイよ」
まさか、もしかして、と首を傾げると、ラクウィルが顔を覗かせた。その顔は満面の笑みだ。
「だからだいじょうぶだって言ったでしょ?」
「彼女が?」
「ええ。今日から正式に、シュネイ嬢は姫の侍女です。そういうことですから、よろしくお願いします」
現われたのは、幾度か逢っている、ツェイルの妹シュネイだった。見知らぬどころか、妻の姉妹である。
なるほど、これならツェイルも心配ない。シュネイなら、ツェイルのことはよくわかっている。サリヴァンも安心だ。
「殿下、改めまして、シュネイ・メルエイラにございます。本日より姉、ツェイルの侍女として仕えさせていただきますこと、心より御礼申し上げます」
礼儀正しい淑女の礼に、サリヴァンは笑みを浮かべて迎え入れる。
「よろしく頼む。きみなら、ツェイも安心だ」
「ありがとうございます、殿下。では、移動中はあたし……いえ、わたしはラクさまの隣に座らせていただきます。なにかあったらなんでもわたしに言ってね、イル姉さま」
まだ幼い少女は、その子どもっぽさを上手く利用して、吃驚しているツェイルに微笑むとラクウィルと一緒に顔を引っ込めた。
「……サリヴァンさま」
「ん?」
「ネイでした」
「ああ、そうだな」
「ネイ?」
信じられないのか、ツェイルは御者台に座ったシュネイを呼び、その微笑みを受ける。
「ネイだ……」
「なにをそんなに疑っている」
くつくつと笑って、妹の出現に驚いているツェイルにそれを問う。ツェイルは首を傾げていた。
「ネイが侍女なんて、できるわけが……」
「ラクが見込んだようだが?」
「まだ子どもです」
「……おまえも、まだ子どもの部類に入る」
「成人まであと一年と少しです」
「はははは……」
「サリヴァンさま?」
自分は子どもになにをしただろう、とふと思ってしまった。いとしさのあまり抱いたのは、もはや数知れない。
「……早く成人してくれ」
「? はい、もちろんです」
それよりもシュネイが、と妹を気にするツェイルに、サリヴァンは非常に気まずい思いを感じつつ、話を聞く。ツェイルの話によれば、末のシュネイは随分と甘やかされて育ったらしい。未だ乳母に面倒を看られているのに、ツェイルの侍女などできるわけがない、とのことだ。
「おまえも随分な甘やかしぶりだと思うが?」
「そうですが……そもそも、わたしに侍女は必要ありません」
「そう言うな。知ってのとおり、おれはずっと、兄上やルカに登城を要請されていた。もう決まったことだが……近日中に、おれは城に戻る。またあの場所に、いくことになる。おまえを、邸にひとりにしてしまうんだ」
帝位を返上し、城を出てからずっと、兄である皇帝サライや宰相のルカイア、上位貴族の大卿ダヴィレイドから、登城の要請をされていた。生活が落ち着くまではと、強気には出てこなかった彼らだが、先日サリヴァンは養父たる聖王に自由とはなんたるものかを語られ、結果、登城する決意を固めることになった。今、皇弟として、そこへ立つ準備が外堀から進められている。ヴァルハラ公爵がついに表に顔を出す、と噂もされているところだ。
「……思うように、してください」
「ツェイ?」
「今は、それしか、言えません」
俯いたツェイルが、膝の上で拳を握っていた。
サリヴァンは眉をひそめ、ツェイルの手のひらを解くように握る。
「おれはツェイと生きる」
「……サリヴァンさま」
「もう、無理だ。おまえがいない世界など」
悲しむなとは、言えない。サリヴァンが登城すれば、それは確実に国政に縛られることを意味し、ツェイルのそばにいられる時間は確実に削られる。国主の天恵があるために、いやでも、国に振り回される。ツェイルはそれをわかっている。だから言えない。悲しむな、と、確実に悲しむだろうことに対して、我慢などさせられない。
「おれのために、泣いてくれるのは、ツェイ、おまえだけだ」
「…っ…サリヴァンさまが、泣かないから」
「おれはおまえの涙を知っている」
涙を失った少女に、涙を思い出させた。それはサリヴァンが、唯一誇れることだ。ツェイルの涙を知っている、だから、サリヴァンは自分のためには泣かない。ツェイルの涙を見られることに、喜びを感じている。泣かせたくはないけれども、その顔もいとしいのだから仕方ない。
「海を見よう、ツェイ。きっと、いい思い出になる」
「……はい、サリヴァンさま」
擦り寄ってきたツェイルを、サリヴァンはいとしさに任せて、抱きしめた。