13 : 護りたいもの。5
サリヴァン視点です。
早足に、廊下を進みながら。
「くふふぅ」
負けず後ろを追いかけてくる侍従長の、不気味な笑い声を聞いた。
「……ラク」
人気もないところで漸く足を止めると、サリヴァンは低い声でラクウィルを呼んだ。
「なぁんですぅ?」
いやに楽しげで、いやに気持ち悪い声に、げんなりとする。しかし、その頬は赤かった。
「気色悪いから、その笑いは、やめろ」
「いやだってねえ?」
「やめんか」
「うはぁ、サリヴァン可愛いーい」
乳兄弟の、かつてない不気味な笑顔は、サリヴァンの顔を引き攣らせる。それでも頬はまだ赤い。
「もうめろめろですね?」
その瞬間、サリヴァンは振り向きざまに平手を喰らわせた。
が、甘い。
侍従長ラクウィルは、ただの侍従長ではない。ゆえに、しっかりと手首を掴まれた。
「……いちいちうるさいぞ、おまえ」
「そんな顔で言われてもねえ」
自分がどんな顔をしているのか、サリヴァンに自覚はない。ただ、やけに心臓が煩いことと、なにやら恥ずかしい気だけはしている。
「おれは策に乗せられてやっている」
「ふぅん?」
「おまえに、遊ばれてやってもいる」
「姫は可愛いですねえ?」
瞬間、掴まれていないほうの手を飛ばした。
が、やはり甘い。
両手首を封じられてしまう。
「ちっ」
なんて厄介な侍従長だ。やはり騎士にしておけばよかった。
「……あは」
ラクウィルの笑みが深まった。
ふっと、顔が近づき、いきなりなんだと驚いたサリヴァンは身を引いたが、両手を掴まれていては距離も稼げない。
「誤魔化さなくていいですよ、サリヴァン」
「……なんのことだ」
「策に乗せられて、遊ばれてやってもいい。だから、おれの前では、誤魔化さなくていいです」
「だから、なんのことだと……」
「惚れたでしょ」
目許が引き攣った。
「は?」
「姫に、惚れたでしょ」
「……なに言ってんだ、おまえ」
「自覚なし? そんなに真っ赤で?」
「はあ?」
「姫が可愛かったでしょ」
「もとから可愛らしくはあるだろうが」
「……そこは自覚してんですね」
ちょっと残念、としょんぼりしたラクウィルだったが、サリヴァンの両手を離す気はまだないらしい。
「ねえ、サリヴァン」
「なんだ。というか、さっさと離せ」
「いやです。ねえサリヴァン、姫が、可愛いですよね」
「それがどうした」
「ふむ……そこまで自覚しておいて、おれに平手まで飛ばそうとしておいて、なんでわかんないかなぁ?」
「おまえの行動のほうが意味不明だ」
「おれのは条件反射ですよ、ただの」
なんでもないかのようにサリヴァンの、平手をするべくして飛んだ腕を掴んだくせに、ただの条件反射で済まされた。
というか、阿吽の呼吸が恨めしい。乳兄弟だから、殴り合いの喧嘩もしたことがあるので、慣れているせいか、そういう呼吸はなぜかばっちり合うのだ。
「ねえ、サリヴァン。前に姫を抱きしめたのは、なんで?」
「可愛かったから」
「そこは素直なんですか……変なの」
「おまえに言われたくない」
あのときツェイルは、初めて笑みを見せてくれた。それはサリヴァンの心を高鳴らせ、そして喜ばせた。
可愛かった。
だから腕にしまい込んだ。
可愛かったから、抱きしめてみたかった。
ツェイルは暖かく、柔らかで、そしてとても小さく華奢だった。
「まあしかし……よかったですよ」
ふわっと、ラクウィルは笑う。いつもの喰えない笑みでも、先刻までの不気味な笑みでもない。幼い頃、穏やかにサリヴァンを見つめていたときと同じ、兄のような瞳を向けられている。
「……おれは、策に乗せられている」
「うん」
「おまえに、からかわれてやってもいる」
「そうですね」
「だが……おれの心だ」
「……ん? なんだ、自覚してんですか」
なにを今さら、とサリヴァンは唇を歪める。
パッと掴まれていた両手を離されたが、その勢いのまま頭をぐりぐりと撫でられて、感じた以上に優しいそれを払い除けられなかった。
「かなり否定的だったのに、どういう心境の変化ですか」
「……議会の決定は覆らない。なら、護るしかないだろう」
やっと手を払い除けられて、サリヴァンはため息をつきながらそっぽを向いた。
「姫を護りたいと思うくらいには、自覚がありますか」
「なかったらあんなこと、言わない」
「じゃあなんで否定的だったんです?」
それは、とサリヴァンは唇を歪め、眉間に皺を寄せる。
「……おれは国主だ」
「ええ、そうですね」
「嫁ぎ先は国主になる」
「ん? ……もしかして」
さすがに皆まで言わずとも、ラクウィルは気づいたようだ。
「ははぁ……そういうことですか」
したり顔をしているだろうサリヴァンの表情を、見なくても声で把握できた。
「なんだよ」
「いやあ? それで、夜会に出すことにしたんですね」
サリヴァンは黙し、見るともなく小窓から空を眺め、夜会について考えていることを思う。
夜会の話が持ち上がったとき、ツェイルを出すつもりはなかった。ルカイアを始めとする宰相たちは出席すべきであると進言してきたが、サリヴァンはその気がなかった。
けれども。
皇帝の私有地であるあの広大な庭に、野心を持った上位貴族が侵入し、あまつさえそこにいたツェイルを侮辱した。
赦されることではない。
赦してはならないことだ。
たとえツェイルが気にせず、意にも介していなかったとしても、サリヴァンは赦せない。
ツェイルが、どれだけの想いであそこにいるのか、知らないくせに。
どれだけの覚悟を持って、あそこにいると思っているのか。
ただ外側を見ただけで、中身まで決定づけるなど。
「なにも知らぬ愚かなものが……」
ぎり、とサリヴァンは奥歯を噛み締める。
ツェイルを侮辱した者には、見当がついていた。皇帝の私有地を、わがもの顔で歩いている者は、限られている。
「……未だ、その権力があると、驕るか」
勢力、というものがある。或いは派閥のようなもの。
しかしそれは一方的な勢力で、擬似的なものであり、歴然としたものではない。
本物の勢力はその裏に、列記とした派閥として存在している。しかし表立てないゆえに、擬似的なその勢力を隠れ蓑にしていた。
「前皇妹殿下……の、ことですか?」
ラクウィルのそれに、サリヴァンは思い切り顔を歪め、ふんと鼻を鳴らず。
「侯爵家に降嫁した。その呼び名は相応しくない」
「そういえばそうでしたね。相変わらずあそこら辺をうろちょろしてるもんで、ついに離縁されちゃったかなぁなんて」
「できないだろうよ。その権力が、欲しいのだからな」
「諦め悪いですよねえ」
参っちゃう、とラクウィルは肩を竦めながら苦笑した。
「その人たちがいるところに、姫を連れていくんですか」
擬似的な勢力、それは前皇妹殿下、ナルゼッタ侯爵家に降嫁した侯爵夫人の勢力だ。
今宵の夜会に、ナルゼッタ侯爵は出席する。そして夫人も。
本当なら、ツェイルが出たくないと言えば、それでいいと思っていた。
けれども。
「おれが……そばにいて欲しいと、思うんだ」
「……でしょうね」
誤魔化さず、素直にその心を述べれば、ラクウィルはわかっていたかのように微笑むだけだった。
「姫を護れますか」
「護る」
ツェイルは護ろうとしてくれている。ならば、自分も護ろう。護りたいと思う。
ツェイルの人生を歪ませることになるだろう。
サリヴァンの事情に、巻き込んで後悔させることになるだろう。
それでも、もうそれらは、ツェイルがサリヴァンの婚約者となったときから始まっていることだ。
議会の承認は覆されない。覆せない。
ならもう、己れの心に従っていいはずだ。いや、従う。
護りたいものができたと、そう言えるツェイルの存在が、サリヴァンを己れの心に従わせた。