Plus Extra : 皇弟殿下純愛録。8
ユグド視点です。
その瞬間、ユグドは二度めとなる素晴らしい反射神経を拝めた。
ふだんは体力を問題視されるお方に、その傷さえなければ天恵に屈することもなかったのだろうと、そう感想を抱かせる条件反射の速度だ。
「まだいたのか……っ」
「いるとも。なにせ宿泊地がなかったものでね」
「おれは許可してないっ」
「なぜきみの許可が必要なのかね。わたしは皇帝だよ? 偉いのだよ? もはや皇帝ではないきみの言葉など、このわたしには無意味でしかないのだよ」
権力を振りかざしたその姿は天晴だ。
「ここはおれの家だ! ヴァルハラ公爵家だ! 皇帝なら城に行け!」
「どこに行こうが泊まろうがわたしの勝手だよ」
「職権乱用も大概にしろ!」
横暴な皇帝を前に朝から怒鳴ったサリヴァンは、やはり背中を取られないようにと背後に注意しながら壁際に逃げ、ずるずると不格好に移動しながら部屋を出ようと画策する。
しかし。
「こらこら、わたしをひとりにしないでおくれな、サリヴァンや?」
昨夜は見逃しても、今朝はその気もないらしい皇帝は、サリヴァンが部屋を出ようと身を翻したその一瞬のうちに、あっさりとサリヴァンの背後を取って捕まえた。
「ひ……っ!」
「ふふふ。愛いなあ、サリヴァンや?」
「はな、はなせ…っ…放せ!」
「ああ面白い。さてはて、なぜきみはそんなにわたしを嫌うかねえ?」
「知るかっ」
襟首を捕まえられるという、なんというか恰好悪いあるじの姿は、ユグドを始めとした近衛騎士隊を苦笑させる。
「せっかく逢いに来たのだから、少しくらい相手になりなさい」
「兄上で遊べ!」
「サラは面白くない」
「あの人の頭は奇妙奇天烈な発想の宝庫だ!」
「きみほど可愛くはないのだよ、サラは。残念なことだなぁ」
サリヴァンで遊ぶ皇帝シエスタは、わが国皇帝サライを貶してでも逃げたいサリヴァンのその反応を、いたく気に入っている。悪意がなく、純然たる「遊び」であるから、ユグドたちは苦笑しかできないのだ。
遊ばれている当人は厄災以外のなにものでもないだろうが。
「そろそろ可哀想になってきたな……面白いが」
ふだん怒鳴ったり、声を荒げたり、そういうことがない人だから傍目からは見ていて面白いが、それも過ぎると可哀想に思えてくる。
ナイレンが呟いたので、ユグドは部屋をそっと出るとサリヴァンを鎮めてくれる人を呼びに動いた。
「姫、よろしいですか」
寝室の扉を叩くと、中からリリが返事を寄越す。少し待って、扉が開かれると用件を述べた。
「あまり動いて欲しくはないのですが……」
リリは寝台に伏せっているツェイルに動いて欲しくない様子だったが、ユグドが来るよりも先に動いていたらしいラクウィルが、ツェイルを支えながら出てきた。
「やっぱりサリヴァン、可哀想なことになってます?」
「捕まっておられる」
「あちゃ……珍しく背後を取られましたか。シエスタさまに対しては機敏に反応するんですけどねえ」
シエスタの来訪について、ツェイルは事前にラクウィルから訊かされていたらしく、今少し顔色は悪いが苦笑を見せた。
「姫、おつらいところを申し訳ありません」
昨夜、その事情をシエスタより聞くことになって、ツェイルの精神状態を危惧していたユグドだが、謝罪したユグドにツェイルは緩く首を振り、笑おうとしてくれた。
「……無理はしないでください」
そう言うと、ツェイルは声なく頷いた。そうしてラクウィルの腕を叩くと、渋るラクウィルに目で訴えて、その腕の支えから離れる。
「ユート」
「はい、姫」
「ごめんなさい」
その謝罪は、振り回された近衛騎士隊へのものだろう。目下の者としては受け入れるわけにはいかない謝罪も、そのときの感情を抜きにして考えればツェイルの取った行動はよいものではなかったので、ユグドは受け入れもしないがだからといって拒否もせず、無言で頷くと微笑んだ。
「殿下の御許へ、お願いします」
「……ありがとう、ユート」
ふらつくツェイルに腕を差し出し、支えとしてくれたことを確認すると、ユグドはツェイルをサリヴァンの許へと案内した。
「不思議なものだなぁ」
と、シエスタが言った。
「直答を許す。わたしの相手をしておくれ、ユート」
「御意」
「なあユート、不思議に思わないか?」
シエスタの問いに、ユグドは首を傾げる。
「なにを不思議と、おっしゃられるのでしょう?」
「サリヴァンだ。ついこの間まで死んだように生きていたサリヴァンが、今や生き生きとしている。わたしはそれが不思議なのだよ」
「それは……ツェイルさまとの出逢いが、殿下を変えられたものかと」
「ツェイル、ツェイルなぁ……あれも不思議な娘だ」
「そう、でしょうか?」
「あれは直視できぬ」
「直視?」
そう、と頷いたシエスタは、考え込むように腕を組んで唸る。
「こう、な……言葉にできぬものに、溢れている。表現し難いな」
「姫は……ツェイルさまは天恵者です」
「ほう、天恵者か」
シエスタの顔つきが変わる。なるほど、と閃いたように、眉間に寄っていた皺が薄れた。
「そのせいか……ならば少し、手を出さねばな」
「手を、ですか?」
まさかツェイルにちょっかいを出すつもりか、とユグドは一瞬でも疑ってしまったが、どうやらシエスタが言う「手を出す」というのは、そういうことではないようだ。
座っていた椅子を唐突に立ち上がったシエスタは、これまた唐突に「城へ行く」と言い、ユグドに城までの馬を用意させた。
「ではな、ユート。また逢おう」
「護衛を」
「要らぬ。気にするな」
あっというまだった。
サリヴァンをかまいに来たのだろうことは明白だが、それにしてもなにしに来たのかよくわからない。台風のようにやって来て立ち去ったシエスタに、ユグドは首を傾げた。
「か、帰ったか」
「殿下」
「帰ったんだな、シエスタは」
気配でも察したのか、逃げていたサリヴァンが姿を見せた。
「城へ行くと、先ほど」
「なにしに来たんだ、いったい」
「様子を見に来られたのでは」
「それだけで来るか? 一国のあるじが」
「……まあ」
サリヴァンのことであれば、シエスタは用がなくても来るかもしれない。サリヴァンはシエスタを苦手視するが、シエスタのほうは違うのだ。遊び相手にするくらいなので、弟のように可愛く思っている、はずである。
「無駄に疲れた……まったく心臓に悪い」
「……そうですね」
確かにサリヴァンの心臓には悪い唐突な来訪だっただろう。
だがしかし、とユグドは振り返る。
「殿下」
「ん、なんだ?」
「殿下は……救いを求めますか」
ユグドの問いは、サリヴァンの碧い目をまん丸にさせた。
「なんのことだ」
「……いえ、シエスタ陛下の言葉に、少し」
「なんだ?」
「殿下は救いを求めているのか、と」
直接問うのはどうかと思うが、そのことが今回ツェイルを突き動かしたものだとユグドは考えている。結果的にツェイルは疲弊した。ユグドたちは振り回された。サリヴァンは、今までになく激怒した。
「救い、か……そうだな」
ふっと、サリヴァンは口許に笑みを浮かべ、壁に寄りかかるとその視線をユグドから外した。
「おれはもう救われた……と、思っている」
「それは姫に?」
「ああ。ツェイとの出逢いが、おれには救いだった。これ以上の救いはない」
幸せなことだよ、とサリヴァンは口にする。
「ツェイと出逢い、愛し、愛され……想い合える今が、とても幸せで……至上の救いだな」
「では、もう救いは必要ないと?」
「今が幸せなんだ、ユート。この幸せが夢ではないかと、いつかかき消えるのではないかと、そう恐怖するくらいに」
「……ですが殿下、姫は」
「ツェイも、怖かったんだろう」
ユグドが言う前に、サリヴァンが自らその気持ちを言葉にする。
「おれの天恵が、いつ、どうなるか……おれ自身にもわからないからな」
「……わかって、おられたのですか」
「いいや? やっぱりそういうことなのか?」
「……、殿下」
ふっかけられたか、と思ったときには、サリヴァンはちらりとユグドを見ながら苦笑していた。
「怖い、か……うん、怖いよな、仕方ない」
「殿下?」
「おれだって怖いんだ。ツェイを、失うことが」
わからないわけがないだろう、と問いかけられるように言われて、ユグドは言葉を噤む。
「おれを失うことが、ツェイには耐えられないんだ。おれがツェイを失えないように。それと、同じだ」
「われわれがお護りします。殿下も、姫も」
「おまえたちにも、おまえたちの幸せがある。それを犠牲にすることはできない」
「われわれの幸せを決めつけないでください、殿下」
あなた方を失うことなど、考えられない。
サリヴァンとツェイルが互いにそうであるように、ユグドを始めとした近衛騎士隊も、サリヴァンとツェイルを失えない。それが忠誠心だというのなら、そうなのだろう。ユグドは、サリヴァンに未来を見たのだ。同じように近衛騎士隊の彼らも、未来を見た。
「殿下、どうかわれわれを信じてください。頼ってください。それがわれわれ近衛騎士隊の幸せです」
「……そこまで、言ってくれるか」
「われらの救いは、あなたの存在なのです」
知っているだろうか。その時代、とても世界は荒れたのだと。原因がわが帝国の天恵にあり、しかし確証もないまま時間は流れ、世界はひどく荒んだ。希望はなかった。絶望しかなかった。けれども、光りがあった。それがサリヴァン、そして、サライだ。
光りが闇を覆い尽くす瞬間を見たユグドは、忘れない。
「どうか、われわれに護られてください」
「ユート……」
「あなたがいるから、わたしたちは生きていけるのです」
世界がなければ、人間は生きられない。人間が生きているから、世界は世界と呼ばれ存在する。それを知ったユグドは、世界に生きるひとりの人間として、世界に祈る。
どうか彼から彼女を奪わないでくれ。
どうか彼女から彼を奪わないでくれ。
ただ書物を読めればよかったあの頃には、もう戻れないのだから。