Plus Extra : 皇弟殿下純愛録。6
ユグド視点です。
翌日のことだった。
サリヴァンの命令でシェリアン公国へ入国しようというとき、伝令が来た。
「姫が、戻られた……?」
「随分と憔悴してたが、無事にお戻りになった。憔悴ぶりに殿下も戸惑って、どうやら頭が冷えたらしい」
ユグドのところに来た伝令はそう言い、ユグドたちに戻るよう伝えた。
ユグドは隣のナイレンを見やる。
「なにがどうなっている」
「おれに訊くな。とにかく、ツェイルが戻ったならラクウィルも戻ったということだ。すぐに邸へ帰るべきだな」
「ああ」
ユグドたち近衛騎士隊は進路を変え皇都へ、ツェイルが戻ったという邸へと馬を走らせた。
馬を休ませることなく走らせ続け、到着した頃には、辺りはすっかり暗くなっている。それでも、本当にツェイルが帰って来ているのかと、ユグドたちは隊舎ではなく邸内へと慌ただしく入った。
「殿下!」
もしかしたらすでに休んでいるかもしれないが、と思ったが、サリヴァンは居間の長椅子に腰かけ、起きていた。そばにはツァインと、そしてラクウィルがいる。
「どういうことだ、ラクウィル・ダンガード侍従長」
こういうことは副隊長たるナイレンに任せるべきことなのだろうが、長くサリヴァンに仕えているのはユグドだ。ナイレンの立場を忘れて口を出してしまう。
「お騒がせしました。ですが、もう心配は要りませんよ。ただ、別の心配はありますけどね」
ツェイルが再び勝手な行動を取ることはないと、そうラクウィルは言う。
「別の心配とは?」
「部屋に籠もって出てこない」
答えたのはサリヴァンだった。
「……姫はいかがなされたのです」
「わかれば苦労しない」
はあ、とサリヴァンはため息をつき、肘掛に身体を預けると手のひらで顔を覆う。
昨日とは打って変わった姿だ。
ツェイルの存在一つで、こうも皇弟殿下は様子を変える。
「ガルデアがヒーデを拒絶しているから、僕も中に入れない……」
隣接している寝室の扉を睨みながら、ツァインは忌々しげに言った。
「なにやったの、侍従長」
「おれはなにもしてませんよ。姫を、望んだ場所へお連れしただけです」
「それはどこ」
「姫が口を閉ざしているのに、おれからそれを申し上げるわけにはいきません」
珍しくもラクウィルは笑っておらず、張りつけたような無表情だった。
「ラク、言え」
「言えません」
「幾度も言わせるな。どこに行っていた」
問答は、ユグドたちが到着する前から繰り返されているのだろう。
ラクウィルの口の堅さからすると、なんとなく、いやな感じがする。
「とにかく、姫は帰られました。サリヴァン、おれを罰するなら、どうぞ罰してください」
「行き先を言ったらな」
「それは無理です。拷問を受けても、おれは言いませんよ」
「ラク、いい加減にしろ」
「お好きに、罰してください」
それまでサリヴァンを冷静にさせようとしていたのに、いつのまにか挑発するような立場に回っているラクウィルは、まるでツェイルと同じ立場に回っているかのようだった。
いや、実際にラクウィルは、ツェイルからなにかしら聞き出し、それに賛同したのだろう。
だからツェイルを、望んだ場所へと連れて行ったのだ。
そしてツェイルが部屋に籠もってしまうような事態を、ラクウィルは目の当たりにした。
「なにがあったのか、話してもらいたい」
ユグドも申し出たが、ラクウィルは表情を変えない。
「なにを言われようと、おれは、言いません」
「ラクウィル」
「いやです」
あまりの頑なな態度に、ため息が出る。
そうしてふと、ユグドは気づいた。
ラクウィルがこういう態度を取るということは、サリヴァンになにか、関係しているのではないか。そう、たとえばよくないこと、悪いことだ。ラクウィルの世界は、サリヴァンとツェイル、ふたりで回っている。最優先事項のふたりのことになると、ラクウィルは様相を変えるのだ。
どうすれば、それを聞き出せるだろう。
沈黙が部屋を包んだときだ。
かたり、と露台の窓が静かに開く。
ユグドはその唐突さに咄嗟に剣の柄を握り、またナイレンやツァイン、ラクウィルに至っても同様に剣に腕が伸びた。
しかし。
「警備が甘いなあ、サリヴァン?」
そう言いながら露台から入って来た珍客は、とんでもない御仁だった。
「シエ、スタ……っ」
これまでに見せたことのない瞬発力で、サリヴァンが長椅子から飛び退いて部屋の隅まで逃げた。その顔は蒼褪め、背中は取られるものかとばかりに壁に押しつけられ、恐怖に全身を引き攣らせている。
サリヴァンをそうさせる人物は、この世界にはひとりしかいない。
ユグドを始めとしてナイレンやツァイン、ラクウィルは慌てて膝をつき、頭を垂れた。
「わお。こんなところから入ったのに、きちんと出迎えてくれるのかい? いかぬなぁ諸君、わたしは侵入者だ。捕縛してくれてけっこうだよ」
そんなこと、できるわけがない。
そもそも、なぜここにいるのか。なぜここがわかったのか。
「なぜここにいる…っ…シエスタ」
「もちろん、サラに場所を訊いたからだよ」
にこぉ、と笑んだその人物は、サリヴァンに恐ろしく嫌われ、いや苦手にされている対の国主、ヴェルニカ帝国皇帝シエスタ・ウィウェール・ヴェルニカ陛下だ。黄金の髪、海のように深い蒼の双眸、痩身痩躯の美男子はヴェルニカ帝国の特色を穢れなく身に宿し、秀麗に笑む。
ふわりと上質な上着を捌いて入室を果たしたシエスタは、その目をサリヴァンから逸らすことなく、ゆっくりと中央まで歩んできた。従者もつけず、ひとりでここまで来たようだ。
まあヴェルニカの皇帝ならばそうだろう、とユグドはそっと息をつく。
「そんなに逃げなくともよかろうに、サリヴァン?」
「近寄るな…っ…近寄るな、去れ!」
「ひどいなあ? わたしは帝位を返上したというきみに、わざわざ逢いに来てあげたのだよ? 熱い抱擁で出迎えてくれてもよかろう?」
両腕を広げたシエスタは満面の笑みでサリヴァンに近づく。もちろんサリヴァンは壁伝いにずりずりと逃げ、部屋から出ようと画策している。
可哀想に、とユグドは思いながらも、対の国主を止められない。止めてやれたら、サリヴァンを逃がしてやれたらいいのだが、それには相手が悪過ぎる。
「ラク! ツァイン、ユート、ナイレン! シエスタを葬れ!」
無茶な命令に、どうしたものかと悩むところだ。
「こらこらサリヴァン? わたしを殺してなにか意味があろうか? きみが喜び勇むだけのことに、誰が協力なぞしよう」
「ラク! 天恵を遣え、おれをツェイのところに飛ばせ!」
「ん? ツェイ?」
「早くしろ、ラク!」
めいっぱいにサリヴァンが叫んだとき、ラクウィルが素早く動き、空気が揺れる。
空間移動の天恵を遣ったラクウィルは、ふっとサリヴァンの前に現われ、そうして抱えるとまた天恵を遣い、ふたり揃って部屋から姿を消した。
「なあユートや?」
サリヴァンが逃げ去ったのに、それを気にした様子もなくくるりと踵を返したシエスタは、ユグドに振り向いて首を傾げていた。
「ツェイというのは、ツェイル・レイル・ヴァルハラという少女か?」
「は、そうでございます」
「というと……やはりあれは真にサリヴァンの嫁か」
「お逢いしたのですか」
シエスタの言い方は、まるでツェイルと逢って話したかのような言い方だ。
まさか、と頭にそれが過ぎる。
ツァインが予想したように、ツェイルは、ヴェルニカ皇帝シエスタと、そして地上猊下に逢うために公国へと向かっていた可能性が、確証を得ることになる。
「……その顔、もしかしてわたしがサリヴァンの嫁と逢うことを、想定していたか」
「姫がひとりで旅立たれた際、その地図には公国への経路が記載されておりました。また、記録者との接触があったと確認が取れております」
「ほう……なるほど。記録者からわたしの所在地を聞いた、と。道理で呆気なくわたしの前に現われたわけだよ」
「……と、言いますと?」
「わたしはね、正確にはサリヴァンの嫁と逢ってはいない。ラクとは挨拶したがね」
滞在していた公国の城に、いきなりラクウィルが現われたのだとシエスタは教えてくれた。久しぶりの再会であったが、いると聞いて近くだから寄っただけだと言ったラクウィルは、すぐに立ち去ったのだという。
「あまりにも急いている様子が気になって、わたしの《天地の騎士》に尾行させてみたのだよ。それでちらりと、サリヴァンの嫁を見てね」
シエスタは、まるでわが家のように長椅子に腰かけて寛ぎながら、そのときのことを話してくれた。
サリヴァンはシエスタをどこまでも苦手とするが、基よりシエスタというヴェルニカ帝国の皇帝は、皇帝らしくないことで一部では有名だ。ただ煮ても焼いても食えない曲者ではあるので、その点ではまさに皇帝だと言える。
それでも、こうして他国の騎士の名を、その愛称で呼ぶくらいには人懐こく、また誰の話でもきちんと耳を傾け、一緒に考えてくれる、そういう人でもある。
だから皇帝らしくないと言われるわけだが、接してみれば、この人だから皇帝なのだと、国主なのだと痛感させられる。
「そうか……あれは国を出られなくなっていたなぁ。それで嫁が動いたか……目的はわたしと、わたしが知っているだろうカナン猊下の居場所……すでに帰還しているなら、目的は果たされたのだろうなぁ」
ふふ、と笑んだシエスタの蒼い双眸が、ツェイルの目的というものを把握しているように思うのは、おそらく気のせいではない。
現状を誰よりも早く把握することに長けているシエスタの、その頭の回転は恐ろしく速い。
「陛下は、なにかご存知なのですか」
「わたしはたった今、答えを述べたぞ」
「答えを……?」
「あれの嫁の目的は、わたしと、カナン猊下だ。そして、あれは国を出られない……答えは一つしかあるまい?」
考えろ、とシエスタは要求してくる。しかし、ユグドには皆目見当がつかない。
それに気づいたのは、ツァインだった。
「殿下の天恵を治そうとした……?」
その呟きに等しい言葉に、ツァインを振り向いたシエスタは指を鳴らした。
「わたしはヴェルニカ皇帝国主、カナン猊下は魔王。一方、ヴァリアス皇帝はサラ、国主はサリヴァン、聖王はレイ猊下だ。われらは対となる国同士、互いのことを熟知していながら、それでいて知らぬことも実は多い」
「では……」
「われら冥府に近しき者の智を、嫁は求めたのであろうなぁ」
サリヴァンの、壊れた天恵を治すために。
聖王猊下でもできなかったことを、魔王猊下ならばできるかもしれないと、ツェイルは思ったのかもしれない。
「それでは、そのようなことができるのですか? 殿下の天恵を、正常に戻すことが」
できるのかと、思わず驚きながらユグドはシエスタに問う。
しかし。
「できぬから帰還したのだろうが」
さらりと、シエスタは否定した。
「サリヴァンはただの器となり果てた。本来ならば御せる力も、あれにはできぬ。それを治すなぞ不可能だ。器から溢れた水を戻せぬように、流れる川をせき止められぬように、つまりはそういうことだよ」
思わず、舌打ちしたくなる。やはりそうかと、そう易々と治せるものではないのだと、それほどまでに強大な力なのだと、悔しく思う。
「姫が、籠もられたのは、それを聞いたがゆえのこと……なんということか」
「おや……わたしはきみたちを悲しませているかな」
「いえ、陛下はなにも。ですが……姫は」
ツェイルにはつらく、そして悲しいことだろう。
ひとりで勝手な行動を取り、サリヴァンの怒気に中てられながらも貫いたその行為の結果が、聞きたくもなかっただろう残酷な言葉を与えられただけだったのだ。
今ここでシエスタが言っていることは憶測でしかなくとも、シエスタの思考が導き出したものだ。間違ってはいない。
だからこそ、ツェイルはサリヴァンの天恵を治したくて飛び出したのだと、知ることができた。
ラクウィルが口を閉ざした理由はこれだったのだ。
「一つ訊きたい」
「……は、なんなりと」
怪訝そうな顔をしたシエスタが、次に述べた言葉に、ユグドもツァインも、ナイレンも目を見開いた。
「サリヴァンはなにか救いを求めているのか?」