Plus Extra : 皇弟殿下純愛録。4
サリヴァン視点です。
ハッと気づいて起き上がってすぐ、剣先が目の前にあった。
「……なんのつもりだ、ツァイン」
剣を突きつけているツァインを睨むと、邪気のないにっこりとした笑顔を返してくる。
「少しは冷静になった?」
「ツェイを返せ」
「あらら……まだ駄目なの? まったく……珍しいねえ」
剣は鞘に収めたツァインだったが、今度は剣の代わりにぴりぴりとした殺気のようなものを笑みに含ませ、サリヴァンを見下ろしてくる。下手なことをすればまた殴られて気絶させられそうだ。むしろ、そうしたほうが早いと考えて、すでにツァインはその気になっているかもしれない。
あるじをあるじとも思わぬような振る舞いをする狂犬に、ため息がこぼれた。
「ツェイを返せと言っているだけだ。どこに連れて行った」
「悪いけど、僕は知らないよ。知っていても今の殿下に協力なんてする気もないね」
「ならいい。出て行け」
サリヴァンは寝かせられていた寝台から離れようと、足を床につける。ツェイルの居場所を知らないと、そう白を切り続けるのなら、こちらはこちらで勝手に動くだけだ。誰の手も借りない。自分でツェイルを見つける。
立ち上がろうとして、つと、ツァインに殴られた腹部が痛んだ。遠慮なく殴ってくれたらしい。忌々しいのは、きちんと手当てまでされているところだ。腹部には包帯の感触がある。
「お節介だった? でも、必要でしょう。おかげで僕はユグドに殴られたけどね」
「あるじに手を上げて、無事でいられるだけまだいいだろう」
「べつに僕を殺してもいいよ? ツェイルが悲しむだけだからね」
できるものならやってみろ、と言われて、腹が立つ。
できるわけがない。
ツァインを殺すことなど、サリヴァンには、できない。技術的な問題ではなく、いとしい妻の大切な家族を無闇に傷つけられるほどの精神力が、サリヴァンにはない。
「出て行け。今おまえの顔など見たくもない」
「僕もきみの顔なんか見たくもないよ。よくもツェイルに乱暴してくれたよね。ほんと、殿下じゃなかったら、迷いなく殺しているよ?」
「おまえにおれが殺せるものか。出て行け」
「ああほんっとむかつく……どうやって殺してやろうか」
空気に剣呑さが混じる。殺気が鋭くなる。それでも絶対的な確信はあった。
サリヴァンもツァインも、互いに互いを殺せない。
「やめないか、ツァイン」
ふと、声が割って入った。
部屋に入ってきたのはユグドと、ナイレンだ。
「殿下、申し訳ありません」
片膝をついて頭を下げたユグドが、謝罪してくる。サリヴァンは眉をひそめた。
「強硬手段に出たことか」
「は。処罰は喜んでこの身に。しかし、今しばらくはお待ちください」
「おまえたちのしたことはどうでもいい。ツェイを返せ。おれの要求はそれだけだ」
「殿下」
「ツェイを返せ」
繰り返し言うと、ユグドが険しい顔をした。
「まだ、お怒りなのですか」
「当然だ」
「しかしあれ以上は姫が」
「黙れ」
「殿下」
「ツェイを返せと言っているだろう」
この気持ちが、わかるだろうか。
愛する者が、忽然と姿を消す、その悲しみがわかるだろうか。
ずっと一緒にいると、そばにいると、言ってくれたその言葉がどれほどの重みがあったか、わかるだろうか。
その姿を追って、捜して、やっと見つけたのに。
「ラクはツェイをどこに連れて行った。ツェイはどこだ」
「気をお鎮めください、殿下。冷静にお考えください」
「おれは冷静だ」
ツェイルがそばにいない。そのことが、どれほど寂しく、どれほど悲しいことか。
ともすれば、心が、その寂しさと悲しさから、崩折れそうになる。
「ツェイを、返せ…っ…返してくれ」
寂しいのだ。
悲しいのだ。
心が、身体が、寒くて痛むのだ。
「漸く、きみらしく落ち着いてきたのかな……」
ぼそりとツァインが言った。
「ねえ殿下、どうしてツェイルに乱暴したの。ツェイルがなにをしたっていうの」
そんなの、と思う。
「……ひとりで、勝手に、出て行った」
「その理由は?」
そんなの、と思う。
「……知らない」
わからないことだらけだ。
わからないから、わからなくなった。
寂しさと悲しさに、容易く負けた。
「知らないのに乱暴したの? ひどいね……ツェイルの言い訳も聞かなかったのか」
はあ、とツァインは大袈裟なほどため息をつき、サリヴァンとは反対側の寝台に腰かけて、背を向けた。
「シェリアン公国に、ヴェルニカ帝国の皇帝が来ている」
「……なに?」
「きみは知らなかっただろう。当然だね。宰相閣下が、知らせるなと言ってきたんだから」
ツァインの言っていることは本当かと、サリヴァンはユグドを見やる。顔色を変えず、ユグドは頷いた。
「……シエスタが公国に、なぜ」
「それはもちろん、公主が天恵者だからだよ。ヴェルニカ帝国の天恵に近いとかなんとか、猊下は言っていたんでしょう? 聖国にも魔国にもあってはならない、そんな天恵なら、ヴェルニカ帝国の皇帝も一度は視察にくるよ」
「……だが、そんな知らせは」
知らせがこないわけがない、と言いかけて、口ごもる。ツァインは、宰相閣下が知らせるなと言ってきた、と白状しているのだ。
「ルカが、おれに知らせるなと命令したのか」
「殿下、ヴェルニカの皇帝が嫌いでしょ」
嫌いなわけではない。苦手なだけだ。
しかし。
「それと、ツェイと、なんの関係がある」
「地図を見なよ。ここは、遠回りになるけど、公国に行く道がある。それとツェイルの荷物にあった地図には、公国へ向かう経路がいくつか記されていた」
「そんな……いや、だが」
公国へ行こうとしていたのは、わかっていた。だが、その理由がヴェルニカの皇帝が来ているからだというのは、ツァインはそうだと言っているが、サリヴァンには納得できない。
「地上猊下もいるらしい、と言ったら、どうする?」
「! なんだと?」
そんなまさか、とツァインを振り向けば、遠くを眺めるツァインの横顔があった。
「どうやらツェイルの目的は、そのおふたりに逢うことのようなんだよね」
「なぜそんなことを」
「知らないよ」
知っていれば一緒に行ったのに、とツァインは言う。一緒に行って、ツェイルを護るのに、と。
「殿下、よろしいでしょうか」
「……なんだ、ユート」
「ラクウィルから、記録者が関係している、と報告がありました」
予想外な存在の名称に、サリヴァンは瞠目する。
「記録者……まだここにいたのか」
「まだ?」
「ここで公国の記録をしていた。もう別の場所へ移動したとばかり思っていたが……まだいたのか」
「殿下は記録者をご存知なのですか?」
「存在は知っている」
記録者、という者が存在していることは、知っている。世界を記録し、傍観する者のことだ。ほぼ伝説と化している存在ではあるが、彼は確かに、この世界のどこかに在る。
「記録者が、ツェイに接触したのか……なにを記録しようというんだ」
「え? なに、そいつがツェイルを拐したの?」
「記録者が言ったことがツェイルを動かした可能性は高い。だが……彼は傍観者でもある。自らこちらの領分に関わるような真似はしないはずだが……」
記録者は、名称のとおりのことをする傍観者だ。人間とも、神々とも関わらない孤高の存在であり、また人間でもなければ神でもない。
そんな記録者が、なぜツェイルと接触したのか、わからない。
「記録者って、そもそもなに?」
「世界を記録し、傍観する者。灰色のケモノだ」
「……そんな変てこがこの世界に在るの?」
「在る」
この世界はいつでも不思議なものに包まれている。たまたま神の領分を知ることになったサリヴァンだから、そう思う。きっと人は、不思議なものに包まれて生きていると、気づいていないだろう。
「……ラクは、ツェイをそこへ連れて行ったか」
「おそらくは」
答えたのはユグドだった。
「今さら、おまえたちまで知らぬと言うか」
「わたしたちが把握するより早く、姿を消されました。行き先は聞いていません」
「……ばか者」
「申し訳ございません」
ラクウィルに姿を消されたのは誤算だったと、ユグドは頭を下げて詫びる。
つまりは、彼らもラクウィルに出し抜かれたということだ。
「ラクを追え」
「は、すぐに。しかし、公国への入国許可が必要となります」
「陛下に……兄上に協力を仰ぐ。今すぐラクを追え」
「御意。隊を編成し、終わり次第向かいます」
ユグドはさっと立ち上がると一礼し、素早く部屋を出て行った。彼らの隊長たるツァインは、未だ動かない。
「おまえも行け、ツァイン」
「僕は残るよ。侍従長がツェイルを連れて行ったなら、まあ安全だし……僕がここに残らないと、きみが危ないからね」
妹を溺愛するツァインとは思えない言葉だった。
「珍しい。おまえがツェイを追いかけないとは」
「僕はツェイルが望まないことをしない主義だ」
「望まないこと……?」
「あの子の望みは知っている」
そう言ってツァインは寝台を離れた。
「さあ殿下、陛下のところへ行こうか」
ツァインの言葉はサリヴァンにいくつかの疑問を残したが、それよりも今はツェイルのことだ。
「ああ」
頷くと、痛む腹を庇いながら寝台を立ち、部屋から出た。