12 : 護りたいもの。4
サリヴァンから贈られた剣を、メルエイラ家で学んだ型で、揮う。ツェイルの身体に合った剣は、片手でも揮える小振りなものだ。扱い慣れたエモノにするには、数日も要らない。
かつてないほどに手に馴染み始めた銀の剣を、ツェイルはそれに合った型で振り続けた。
頬に当たる風が心地よい。
そう感じたときだった。
「野蛮な」
そんな声が、ツェイルの剣を止めた。
肩で軽く息をしながら、ツェイルはその声がした方向を見つめる。
茶色の髪を高く結い上げ、綺麗な宝石を至るところに散りばめ、豪奢な赤いドレスを身にまとい、扇子で口許を隠しながらもその目には侮蔑を込めた、美しい女性が立っていた。
「……貴族の令嬢が、それも陛下の婚約者となった娘が、剣を揮うなど……野蛮なことこのうえない」
女性は森の向こう、うっすらとその背景が見える場所にいる。この角度からでしか見ることができないらしい場所だ。だから今のままで、森の中にその空間があることに気づかなかったのだろう。
ツェイルは揮っていた剣を下ろすと、じっと森の中の女性を見つめた。
「婚約者という自覚がおありか」
女性の問いに、ツェイルは淡々とした表情を向ける。
「ツェイル・メルエイラ」
「……なに?」
「ツェイル・メルエイラ。メルエイラ侯爵家の娘だ。人に名を訊ねる場合、自ら先に名乗るものと聞く。だから問う。あなたはどなただ」
女性の目が、カッと見開かれる。なにか小さく悲鳴を上げたようにも聞こえなくはなかったが、意味のわからない悲鳴だったので、怪我をしたわけではないだろうと判断する。
「……アルミラ・ウェル・ナルゼッタ。ナルゼッタ侯爵家の者よ」
ナルゼッタ侯爵。
どこかで聞いたことがある名だ。
「……ウェル・ナルゼッタ。わたしになにか文句がおありのようだが」
「ふん……大ありよ。レイルに名を連ねる者でも、生粋の貴族でもないおまえが、陛下の婚約者とはね」
ああ、とツェイルは思い当たる。
これは所謂いじめ、あるいは嫌がらせか、と。
「議会が承認したこと。わたしにもその決定を覆すことはできない」
「わたくしは認めません。それに、その言葉遣い……令嬢ともあろう者が、なんですか。騎士でもないのに……どうやってラッセ宰相閣下に取り入ったのか」
どうやら詰られ文句を言われている、と理解しながらも、ツェイルはとくに腹を立てるわけでもなく、アルミラの言葉を聞いていた。
「そんなみすぼらしい姿で、よくそこにいられましてね。恥とは思いませんの?」
とりあえず、黙っておく。
みずぼらしいとは、おそらくこの貧相な身体のことなのだろうが、これは天恵の代償であるし、とくに困りもしていないので、言われたところで痛くも痒くもない。
「はっ、声もありませんの? まあ、そうでしょうね。あなたほど魅力に欠いた小娘はおりませんもの。声もないのでしょう」
好きに言っていろ、と小さくため息が零れる。
女としての魅力がないことくらい、わかっている。ルカイアにも言われたことだ。誰の目にもそう映ることくらいは、随分と昔に諦めてからは、気にしないようにもしている。
「あなたでは、陛下も満足しませんでしょう。お可哀想に……まだ若くていらっしゃる陛下には、閨の相手にお困りでしょうね」
ならあなたが相手をすればいい、と言いかけて、やめた。
初対面の人間に厭味や皮肉を言う人間など、信じられたものではない。そんな人間をサリヴァンのそばに置きたくもない。
「今夜の夜会が楽しみですわ。まあ、あなたは出席もできないでしょうけれど。そのみすぼらしい身体に合うドレスなんて、ありませんものね」
「……夜会?」
あ、うっかり声を出して、いや返事をしてしまった。
アルミラは嬉々としてツェイルの反応に、反応し返してくる。
「ええ、そうでしてよ。今夜の夜会は特別なのよ。隣国との和解を進めるための、公子を招いての夜会……隣国との和解が成立すれば、陛下の御心も安らかになるでしょう」
隣国との和解を進めるための、夜会。
ああ、そうか。
やっとその忙しさからサリヴァンは解放されるのだ。これでゆっくりと、サリヴァンは身体を休めることができる。
そうホッと安堵すると、アルミラはなにを勘違いしたのか、高々と笑い声を上げた。
「残念ね。あなたは出席できないようで」
するつもりがないので無視だ。
サリヴァンの肩の荷が少しでも減ったのなら、それを喜ぶだけである。ただでさえツェイルのことにも振り回され、その優しい心を痛めつけられているのだ。
ツェイルは剣を鞘にしまうと、礼儀としての一礼をアルミラに忘れず、背を向けた。
「お可哀想に」
そう背後に聞こえたが、なにが可哀想なのかわからないので、聞かなかったことにした。
ゆっくりと居室があるほうへ進み、サリヴァンの健康を祈る。よかったと、胸を占めるのはそればかりだ。
「ツェイルさま!」
その声に、俯き加減だった顔が上がる。露台からリリが身を乗り出していた。
「今、どなたかとお話を?」
「ん……ああ、女の人と」
「どなたです?」
「……、あれ?」
もう名前を忘れた。聞き憶えのある家名ではあったけれども、名のほうは忘れてしまった。
「ウェル……なるなんとか」
「なるなんとか?」
「忘れた」
宝石が綺麗だったな、という簡単な印象しか受けなかったし、厭味や皮肉しか言われなかったので、名を記憶する気がなかった。
「宝石が綺麗だったから、それは憶えているが……」
視線が銀の剣に落ちる。
あの女性の宝石も綺麗だったが、この薄紫の宝石のほうが、ずっと綺麗で美しい。これには劣る宝石だ。
「宝石が好きなのか、おまえ」
その声に、視線が上がる。リリの横から、サリヴァンが身を乗り出していた。
「陛下」
「サリヴァンだ」
「……サリヴァンさま」
剣を頂戴してから、久しぶりのサリヴァンだ。あのときは切羽詰まった声を出していたが、今日はそんなところもない。いつもの、唐突に現われるサリヴァンだ。
「で、おまえは宝石が好きなのか?」
「綺麗なものは全般好きです。宝石と決まったわけではなく」
「ふぅん?」
「陛下……サリヴァンさまからいただいた銀の剣も、綺麗なので好きです。あと、そこの花瓶とか」
花瓶、とサリヴァンの視線が窓辺の花に移る。
「透明なただの硝子花瓶だが?」
「綺麗です。水が、こう、ゆらゆらして、陽光に当たると」
「……おまえの感覚、よくわからないな」
「よく言われます」
「花ではなく、なぜ花瓶なのだ」
「花を美しくさせるのは、その土台です。花が美しいのは、それを支える花瓶が美しいから……花を美しくさせるために、それらは存在しているのです。わたしには、そちらのほうが綺麗だと」
サリヴァンの視線が、ツェイルに戻る。また意外なものを見ているような、眩しいものでも見ているような顔をしていたので、なにか変なことでも言っただろうかと、ツェイルは首を傾げた。
「なにか、変なことを、わたしは言いましたか?」
「いや……それもそうだな、と思った」
「そうですか」
「ああ」
サリヴァンの視線が外れない。徐々に穏やかな笑みに変わると、ちょっとツェイルも気恥しくなってきて、視線を逸らす。
「あとは、なにが好きだ?」
「なに……ええと……リリとか」
「リリ?」
話がリリに飛び、驚いたリリが「わたしですかっ?」と声を裏返して後ろに飛び退いた。
「リリは綺麗です。髪も、瞳も、もちろん見えるところすべて綺麗ですが、その誠実さが一番綺麗です。淹れてくれるお茶も美味しいし、わたしを想ってくれていることが伝わってくる……だから、リリも好きです」
臆面もなく言うと、リリが真っ赤になった。
「わっ……わた、しも……ツェイルさまが、好きです」
リリも返事をしてくれた。
「そうですか。嬉しいな」
「う……いけない道に進みそう」
「はい?」
「なっ、なんでもありません。嬉しくて、涙がでそうなだけです。ありがとうございます、ツェイルさま」
真っ赤なまま俯いて礼を取るリリに、ツェイルはそんなことするなと慌てて露台に上がり、リリの手を取る。
「いつも、本当に、助かっている。リリがいてくれたから、わたしは、ここで不自由なく、暮らしている。わたしこそ、ありがとう」
頃合いを見極められなくて言えずにいたことを伝えると、リリがますます赤くなった。その目に、本当に涙を浮かべている。
「ツェイルさまに、そこまで言ってもらえるなんて……わたし、幸せです」
「こんなことで、幸せになるのか? それは勿体ない。もっと、もっと、たくさんの幸せはある。リリの幸せは、ほかにもたくさんあるはずだ」
わたしはそれを祈る、と手を強く握れば、ついにリリは泣いてしまった。泣かせるつもりはなかったので、ツェイルは慌てる。懐から手巾を取り出して、涙に濡れたリリの目許を拭ってやった。
「うわぁー……なんで百合に見えないのか、不思議ぃ」
と、ラクウィルが笑いながら言う。
「そう見ると、そう見えちゃうってどうです。ねえ、サリヴァン」
「……おれに振るな」
「姫は中性的ですからねえ……リリに負けちゃってますよ、サリヴァン」
「だから、おれに振るな」
「まあ、姫を花開かせるのは、サリヴァンの役目ですもんねえ」
「ラぁクぅウィール?」
「あはっ」
そんな、ラクウィルのおどけた声と、サリヴァンの不機嫌そうな声を無視して、ツェイルは涙するリリを懸命に慰める。言葉が悪かったわけではなく、純粋に感動してくれただけのようで、リリは泣きながらもその笑顔を見せてくれ、ツェイルはホッとした。
「ところで……」
リリが落ち着き、お茶を用意し始めてくれてから、ツェイルは長椅子に腰かけたサリヴァンに振り向く。なにか不機嫌そうなのは、意味不明なので無視しておいた。
「今日は、どうなさいました?」
「……なにか理由がなければ、ここに来てはいけないのか」
「いえ、そういうわけでは」
「おまえはおれの婚約者で、おれはおまえの婚約者だぞ」
「……そうですね」
なんだかそれっぽくないので、忘れがちではあるが。
「まあ……今日は、その……用事もある」
「なんでしょう?」
「それを言うためだけに来たわけではないからな」
「はい」
淡々と返すと、サリヴァンはなぜか気まずそうな顔をした。後ろでラクウィルが笑いをこらえている。
「……今夜、夜会がある」
ああ、そのことか。
「そのようですね。隣国との問題が、片づきそうなのでしょう? よかったです」
「……、なぜそれを?」
これでサリヴァンの肩の荷もいくらか減るということで、しかしそれよりもサリヴァンの怪訝そうな眼差しに、しまった、と思ってももう遅い。
「誰から聞いた」
「……ええと」
「誰に聞いた!」
「そ、の……」
「リリ!」
「リリは関係ありません!」
リリに飛び火するとは思っていなかったので、慌てた。
「森の向こうに人が……その人が、そのようなことを、言っていたので」
「誰だ」
「それが……」
「名乗らせなかったのか」
「いえ、名乗らせはしたのですが……その、宝石の印象しか、なく……すぐ忘れました」
「……それで宝石が綺麗だと言っていたのか」
べつに隠す必要はないのかもしれないが、あのままではリリがサリヴァンに咎めを受けそうだったので、隠そうと思っていなかったのに罪悪感が募った。
「森にいた、と言ったな?」
「はい。今まで気づきませんでしたが、あちらの……少し窪んだところから、森の中の光景が少し見えて……そこから」
あちら、と指差した方向をちらりと見たサリヴァンが、忌々しそうに低く舌打ちした。それはあまりにもサリヴァンらしくない仕草だった。
「皇帝の私有地に足を踏み入れた者……宝石を身に着けていたのなら、女か」
「え……なぜおわかりに」
「あの森も、ここも、皇帝の私有地だ。許可なく入ることはできない。それを揚々と破るのは、大抵が上位貴族の高慢な人間だ」
「……私有地、なのですか?」
「ああ」
そこにツェイルはいるのだが、よいのだろうか。
「ほかに特徴は?」
「特徴……その、すみません。初対面で厭味や皮肉を言うお方のことは、いちいち憶えておれませんので……それ以外は」
「厭味? 皮肉?」
「どうも、わたしがメルエイラ家の娘だと、わかっていらしたようで……剣の鍛錬をしていましたら、野蛮だと」
がん、と急に空気が冷えた気がして、ツェイルはハッとサリヴァンを見る。
ものすごく変な顔をしていた。
「……あ、の……サリヴァンさま?」
「その調子だと……」
「はい」
「ろくなことを言われてないな」
「はあ……まあ、言われ慣れておりますので、いちいち気にしておれませんが」
「それでも、言われたわけだ」
「……そう、ですね」
よくわからないが、ものすごく冷えた空気をまとったサリヴァンが、なによりも恐ろしく思えた。
「ラク」
地の底から出たような声で、サリヴァンはラクウィルを呼ぶ。
「はーいな」
反してラクウィルは能天気で明るい返事をした。
「用意したものを、持って来い。この際、おまえの揶揄などどうでもいい」
「……あらら」
「ナルゼッタ家には、心底呆れる。真実を知ることも許されぬのは、その下品さゆえのことだと未だ気づかぬなど、聖国の汚点だ。隣国の問題がどのようなものからの派生だったか……わからぬものなど要らぬ」
やはりサリヴァンらしくない言い方、というか、逆を言えば皇帝らしいのだが、その不気味さはサリヴァンとは思えない。
ツェイルは不安になって、サリヴァンの手にそっと己の手を重ねた。
「サリヴァンさま」
「……心配するな。これは、聖国の汚点だ。おまえに非はない。許せ」
「いえ、そういうことではなく」
「なんだ」
「だいじょうぶですか?」
問うと、サリヴァンは意味がわからないと首を傾げる。
「今夜の夜会、和解を進めるものだとか。わたしは、陛下のその肩の重荷が少しでも減るのなら、安心です。ですが、陛下の……サリヴァンさまのお顔を曇らせるものなら、心配です」
サリヴァンが、ハッとしたように瞠目した。ツェイルはそれを気にも留めず、重ねた手のひらを取って、先日の剣の交わし合いでは震えていたその手を、もう痛んでいるようではないけれども、それが和らぐようにゆっくりと撫ぜた。
「サリヴァンさまは、国の犠牲になっておられる……わたしは少しでも、その負担を減らしたい。騎士としても、ひとりの人間としても」
力んでいた手は、緩やかに、ツェイルの癒しを受けて解けていく。
「あまり、無理はして欲しくありません」
「……無理などしていない」
「あれだけ長く眠り、それでいてまた疲れておられるようなのに」
「……おれは国主だ。国のために在る」
「それでも、サリヴァンさまとてひとりの人間です。無理を続ければどうなるか、おわかりでしょう」
「おまえだって、ひとりの人間だ」
いきなり手が反転し、撫ぜていた手をサリヴァンに取られた。
「今やおまえはおれの婚約者。それを侮辱すること、即ちおれを侮辱することだ。意味はわかるな」
「はい。わたしが軽率にも、森へ近づいたせいで……申し訳ありません」
「違う。ここは帝の私有地、許可なく足を踏み入れれば、刑罰がくだる。それを今まで適当にしていたおれが悪い。ここにおれの家族と呼べる者がいなかったからな」
「……家族?」
「ラクは乳兄弟で、ずっとそばにいるが、ここに住まいがあるわけではない。だから、家族はここにいなかった」
過去形の言い方に、ツェイルは不覚にも、大きく胸を高鳴らせた。そして、サリヴァンの強く真剣な眼差しにも、くらりとした。
「今はここに、おまえがいる」
「……わたし」
「おれは剣でおまえを護ることはできない。だが、ひとりの人間として、おまえを護ることができる立場にある」
「……へ、陛下、それは」
「サリヴァンだ」
「え……」
「おれはサリヴァンだ。もう、おれを陛下と呼ばないでくれ」
それはサリヴァンの懇願で、握られた手は、サリヴァンの額に、まるで祈るかのように捧げられた。
「おまえがおれを護ると言ってくれたように、おれにも、おまえを護らせてくれ」
今までにないくらい、心臓が忙しなく鼓動する。くらくらとするのは、サリヴァンのそれが、とても嬉しいものだと感じたからだと、気づいた。
「さ……サリヴァンさま、わたしは」
「夜会に出ろ」
「は……」
思わぬ言葉に、ツェイルは硬直する。
「それを言うために、来た。礼装など着なくていい。おれが用意したものを着て、夜会に出ろ」
「で、ですが」
みすぼらしい、と言われたことを思い出す。サリヴァンが可哀想だ、という言葉も聞いた。
否定しなかったのは、否定できないからだ。
貧相な身体は、サリヴァンの隣に並ぶことなどできないもので、騎士としても、頼りない。女らしさの欠片もないこの身体は、サリヴァンに恥をかかせるだけだとわかっている。
それに、求められているのはメルエイラ家の力で、ツェイル自身ではない。
「わたしは、出られません」
騎士としてなら、そばに立とう。けれども、婚約者として、隣に並ぶ必要はない。
「さっきまでは、それでもいいかと思っていた」
「なら……」
「さっきまで、はな」
「え……?」
「もともと、煩い議会を黙らせるための、メルエイラ家の力を、ルカは所望しただろう」
そうだ。それ以外に、ツェイルの価値はない。
「それはルカの考えであって、おれは違う」
「……要らない、と」
「ああ。要らない。メルエイラ家の力は、おれには不要だ」
やはり、騎士にはしてもらえないのだろうか。護りたいのに、護れる力を、天恵を持っているのに、護らせてくれないのだろうか。
「おれは、おまえなら欲しいと思う」
「……、はい?」
今、サリヴァンはなんと言ったか。
「ツェイル・メルエイラ」
「は、はい」
「おまえの人生を歪ませる。許せ」
なんのことか、わからない。
「おまえを巻き込む。許せ」
「……なんのことですか?」
「その代わり、おれはおまえの生涯を護ると誓う」
「サリヴァンさま?」
まるで告白されているみたいで、けれどもなにか重要なことを告げられているようで、ツェイルは別の意味でも心臓を高鳴らせた。
「待って、サリヴァンさま。なんのことか」
「おまえを」
強く、手を握られて。
「おまえを、護りたい」
その手が、震えていたから。
「……サリヴァンさま」
「なにからも、すべてから……おれが護るから」
奇特な人だ。
けれども、ツェイルの顔は、今までになく赤く染まっていた。
楽しんでいただけていますでしょうか。
読んでくださり、ありがとうございます。