Plus Extra : 侍従長衷情録。2
シュネイ視点です。
布団がもそりと動く。
もごもごとしばらく動いて、静かになる。
少しするとまた動き出して、ごろりと大きく転がった。
「寝相がひどいわ……」
シュネイは、観察の結果を述べて息をつく。
ひとりで眠っているときだけ、シュネイのいとしい旦那さまは寝相が悪い。だから、いとしい旦那さまが珍しく眠っているとき、シュネイはそばで見守ることにしていた。
ごろごろと転がって寝台を落ちるのは当たり前、毛布もかけずに眠っているのも当たり前、目を離すと部屋から消えていることもある。無意識に天恵で外へ出ているのだ。起きているのかと思いきや、眠っている。
寝相のひどい旦那さまである。
「むあっ」
「……おはよう、ラクさま」
「ふへ? ふぁ……るぇい?」
寝ぼけ眼の旦那さまに、シュネイはにっこりと微笑む。いとしい旦那さま、ラクウィルもまた、シュネイを視界にはっきりと捉えると微笑んだ。
「おはよぅ」
「すごいわ、ラクさま。今回はずっと寝台の上で眠っていたのよ」
「ひゃあ、それはめずらしぃですねぇ」
もそもそと起き出したラクウィルは、目を擦りながら寝台の端に腰かけ、シュネイが用意していた水桶で顔をさっぱりさせる。その動きは緩慢で眠っているような状態だったが、灰色の侍従服に袖を通して食事を済ませ、食後のお茶を飲み終わると漸くぱっちりと目を開けた。
今日からまた数日、シュネイのいとしい旦那さまは眠らない日々を過ごすことになる。それがラクウィルの持つ稀少な天恵の代償だと、わかっていてもシュネイは複雑だった。
「さぁて仕事ですねえ」
「わたしも行くわ」
「じゃあ一緒に行きましょう」
にこ、と微笑むラクウィルが好きだ。
笑って、手を差し伸べてくれるラクウィルが好きだ。
すがる手を、握ってくれるラクウィルが好きだ。
ラクウィルが好きで、好きで、どうしたらいいのかわからない。
「わぁあ、今は昼だったんですねえ。やけに明るいなぁとは思っていましたが」
「ラクさまが眠っていたのは、ほんの数時間よ」
「ん、充分です。サリヴァンは起きていますかねえ」
ラクウィルは侍従だ。サリヴァンの身の周りの世話をするのは、昔から彼の仕事だ。寝台を整えたり、衣装を整えたり、掃除をしたり、お茶の用意をする。だから、料理はシュネイより上手で、お菓子なども作れてしまう。女性子どもが好む甘いものから、サリヴァンのための甘くないお菓子、離れにある隊舎で休む騎士隊のためにその食事もたまに手がけている。
ラクウィルは、なんでもできてしまう。そして誰よりも、周りを気遣って行動している。いつでも笑って、傷なんかついていない顔をして、そのすべてを裡に隠して、ラクウィルは生きている。
そんな旦那さまが、シュネイはいとしい。
「あ、姫。ひぃめぇー」
ふと、ラクウィルは姿を見せたシュネイの姉、ツェイルを見つけて腕を振った。
残念だが、ラクウィルと一緒にいられるのもここまでだ。シュネイの仕事は、姉ツェイルの侍女であることなのだ。
「イル姉さま」
「……もういいのか、ネイ」
ラクウィルを無視して、ツェイルは訊いてきた。シュネイは苦笑して、肩を竦める。
「だって、起きてしまったもの」
いつものことだ。シュネイがラクウィルのそばにいられるのは、サリヴァンの身の安全が確保され、それが安定している状態のときに限られる。たとえ長くその状態が続いていても、サリヴァンを弟のように可愛がるラクウィルは、サリヴァンのそばを離れたがらない。どこへ行くにも、サリヴァンについて行く。
だから、仕方ないのだ。
少し寂しいことだけれども、シュネイは我慢する。
悲しいことなんてなに一つない。ただ、寂しいだけ。
「ラク」
「漸くおれを視認してくれましたね。なんです、姫」
「サリヴァンさまが待っておられる」
「おおぅ、それなら急がないと。では姫、ネイをお願いしますね。ネイ、姫を頼みましたよ」
ラクウィルはそう言うと、天恵を使わず走って行った。その背に、ほんの僅かな寂しさを感じてしまうのは、これはもうどうしようもない衝動だ。
ふとついたため息は、姉に頭を撫でられて慰められる。
「幸せが逃げるから、ため息はつくな。それに、ネイにそんな顔は、似合わない」
「イル姉さまには、わかってしまうのね」
「言いたいことがあるなら、はっきりと、言ってしまえばいい。ラクは、ネイのことが本当に、好きだよ」
「……そうね」
想いは、伝わってくる。疑ってもいない。けれど、寂しい。ただ、それはツェイルも同じだろう。シュネイのそばにラクウィルがいない時間、同じだけツェイルはサリヴァンのそばにはいられないのだ。
姉の寂しそうな顔は見たくない。人形のようだった頃の顔も見たくない。今の感情を大切にして欲しい。
だから、シュネイは寂しさを押しやって、微笑んだ。
「イル姉さま」
「ん」
「街に行きましょう?」
「街?」
「ほら、オリヴァンに子ども用の武具を揃えたいって、前に言っていたじゃない。ラクさまと茶器を買いに行ったときに、ついでに何件か見て回ったのね。やっぱりエンバルに行ったほうがいいかしらと思ったのだけど、よさそうな武具屋さんが一つあったのよ。どうかしら?」
実家がとても貧しかった頃、それでも一族メルエイラを護るために、上の兄ツァインは力を尽くした。だが、ツァインだけの力では一族を護り切ることはできなくて、ついにメルエイラの一族は危うくなり、明日食べるものも尽きようとしたそのとき、ツェイルが天恵を発現させた。それは救いとなり、しかし同時に救いようのない虚しさになった。
ツェイルが天恵を発現させた当初のことを、シュネイは知らない。産まれたばかりだった。だから、シュネイはツェイルの子どもらしい姿を、一度も見たことがない。剣を片手に凛と立ち、おとなびた横顔を、いつも見ていた。
人形のようだった。
壊れた機械仕掛けの人形のようだった。
泣くことも、笑うことも、怒ることも、悲しむこともない、無感情の機械人形だった。
それが。
サリヴァンという人に出逢って。
なにもかも、がらりと、ツェイルは変わった。
だからシュネイは思う。考える。そして決めた。姉を人間に戻してくれた人に、感謝しようと。
だからこそ、ラクウィルとの出逢いは、運命。
「行きましょう、イル姉さま」
「……ん」
ツェイルが微笑む、その未来をくれた人のそばに、シュネイは運命を感じずにはおれない。
動き易い、とはいえ、ツェイルはいつだって男装しているようなものなので特に着替える必要もなく、シュネイだけ簡素な衣装に着替えた。ひらひらとしない、けれども既婚者であることを周知させる衣装だ。動き易く造られてはいるが、足許まで長いので走るときは裾が邪魔である。
「わたし、裾は短くていいのだけど」
「歳頃の娘だろうが」
「それを言うならイル姉さまもよ。ねえ、お揃いで着てみない?」
「いやだ」
「んもう……意地悪」
なにがあってもツェイルは女性ものの衣装を着てくれない。
昔、上の姉テューリと手を組んで着せてみたが、数分もしないで脱がれた。うえに、切り刻まれた。
最近では、息子のオリヴァンをお腹に宿したその臨月のときに薄手の女性ものを着ていたが、それもオリヴァンが産まれてしまうと着なくなってしまって、シュネイとしては面白くない。
サリヴァンがたくさんその手の衣装を用意しているはずなのだが、いったいいつ着せてくれるのだろうか。
「いいわ。ユーリ姉さまが遊びに来てくれたとき、着てもらうもの」
「ん?」
「なんでもないわ。行きましょう」
ツェイルに女性ものの衣装が似合わないわけがない。本人がいやがるほど、身体の曲線は悪くないのだ。
上の姉が来たら絶対に着せよう、と心に決めて、シュネイはツェイルと手を繋いだ。
「ツェイルさま、シュネイさま、どちらに?」
「いつもみたいにネイでいいわよ、ナイン。ついでに敬語も要らないわ。非番ならつき合ってちょうだい。街に行きたいの」
「……街に行ってどうするんだ」
シュネイとツェイルの足を止めたのは、近衛騎士隊のナイレン・ディーディスだ。幼馴染でもあるので、敬語は要らない、と言ったとたんに口調が崩れる。
「オリヴァン用の武具を見てくるの。つき合ってくれる?」
「ああ、そろそろ必要そうだったな……おれがつき合うのはもちろんだが、エンバルまで行くのか? そうなるとおれだけじゃなくてユグドにも声をかけたいところだが」
「エンバルまでは行かないけど……ユグドさん、つき合ってくれるかしら?」
「声をかけてくる。玄関で待っていてくれ」
子ども用でも武具を一式買い揃えるなら、その情報に経験からも豊富な人は多いほうがいい。とくにオリヴァンは、疎いシュネイの目から見ても呑み込みの早い武に長けた少年で、覚えさせればなんでも吸収してしまえる。教える側としては面白いのだろうと、シュネイはラクウィルの表情を見て思ったものだ。なので、オリヴァン用に見立てるには、知識が豊富な人に同行してもらいたい。
「ネイ、ユグドもつき合ってくれるぞ」
言われたとおり玄関で待っていたら、ナイレンは近衛騎士隊のユグド・コール・シュミッドも連れてきてくれた。
「どこへ行かれるのですか」
というユグドの問いに、シュネイは「すぐそこの街よ」と笑顔で答える。ついでに「子ども用の武具を揃えたいの」と言うと、ユグドは思い当たったように「ああ……」と納得した。
「そろそろ公子も重さに慣れていただきたいところですからね」
そう言ってから、ユグドの視線は黙しているツェイルに移る。
「片刃でなくてよろしいのですか?」
「……両刃に慣れてから。それに、ヴァリアスは両刃が主流で、片刃はメルエイラ独特のものだから」
「そうですか……」
少し残念そうにしたユグドは、ツェイルが扱う片刃の剣に興味を隠せないようで、たまにツェイルからその型を教えてもらっていた。帝国式の剣しか知らないから、という理由かららしい。
シュネイはまったく剣を揮えないが、護身術くらいは身につけている。ただ、特に帝国式であるとかメルエイラ式であるとか考えたことがないので、自分の護身術がメルエイラ独特のものであるとは知らずにいた。ユグドが興味深そうにツェイルの稽古を見ていなければ、一生気づかなかっただろう。
ちなみにナイレンは元傭兵なので、帝国式とメルエイラ式が混ざっている。長くそれで戦場にいたナイレンの剣は、もはや我流だ。誰も真似できないのではないだろうか。
「そういえばイル姉さま、オリヴァンにあまり、メルエイラの型式を教えないわね。やっぱり、ヴァリアスの主流を重んじているの?」
ツェイルと手を繋ぎ直して邸を出て、少し歩いてからシュネイは姉を覗き込む。その顔に表情らしいものはないが、だからといって無感情というわけではない。昔の名残りで、上手く表情筋を使いこなせないのだ。
「そういうわけではないが……わたしの型式は、メルエイラ式というよりも、我流のようなものだから」
「え、そうなの?」
「その……身体が小さいから」
言いたくなさそうにしながら、ツェイルはそっぽを向く。
いつのまにかシュネイはツェイルの身長を追い越していたのだが、どうやらそれを気にしているらしい。思えば昔からなにかと気にしていたことでもある。今もまだ、気になって仕方ないようだ。
「イル姉さまは気にし過ぎなのよね……」
「え?」
「ん、なんでもないわ」
ツェイルにはツェイルの美しさがある。シュネイはそれを知っている。人形のようだった頃も、ツェイルのその美しさは変わらなかった。いくら外見を気にしようと、その美しさがあれば充分だと、シュネイは思う。ツェイルのそれに惹かれたサリヴァンが、それらを証明しているだろう。
「少し急ぎましょう、イル姉さま。夕食はみんな揃っていただけるかもしれないわ。間に合わせないと」
「あ、ああ……」
さておき買いものだ、とシュネイは姉の手を引き、ついでなので街の市も見ようと、歩く速度を上げる。
いつだって賑わっている街は、黙々と歩けば半刻もかからない。馬か車で来られたらよかったのだが、シュネイは馬に乗れないし、車では人でごった返す街にとって邪魔でしかない。
目的の武具屋へは、市を一巡りして食糧を少し買ってから、辿り着いた。
「訊いたらね、身体に合わせて創ってもいいそうなの。エンバルのお店と同じでしょう?」
「……それは珍しいね」
「だからイル姉さまを連れてきたの」
剣のことは、ツェイルほど明るい知識がない。だからシュネイはユグドにツェイルのつき添いを頼み、ナイレンと店先で待つことにする。待ち人用なのか長椅子があったので、土埃を払って腰かけた。
「……イオルシィズには用意しないのか?」
シュネイと同じように長椅子に腰かけたナイレンにそう問われ、シュネイは「そうねえ」と唸る。
「ラクさまが言い出さないなら、必要ないと思うの」
「言わないのか、ラクウィルが」
「まだ小さいということもあるのだろうけど、オリヴァンほどの技量もないし、ちょっと能天気な子だもの」
「能天気……まあ、ラクウィルの息子にしては、ちょっとおとなしいというか……動きが鈍いというか」
「でしょう?」
わが子イオルシィズは、周りにいる子どもたちと比べると、少しどころかかなりのんびりな子で、それこそオリヴァンにかまわれなければ虐められていそうな子だ。たまにラクウィルが剣を教えているが、まずラクウィルと対峙するとなぜか固まって動きが悪くなり、かと思えば俊敏な動きを見せて逃げるので、たぶん運動神経に問題はない。あれは性格なのだろう。
しかし、ラクウィルから全力で逃げるあれだけは、シュネイには理解できない。
「どうしてあの子、ラクさまから逃げるのかしら?」
お父さんなのに、とシュネイは首を傾げる。ちなみに母たるシュネイには、そんなことはしない。かといって極端に甘えてくることもなく、オリヴァンと遊んでいることのほうが多い。かまわれる頻度としては、オリヴァンやサリヴァンのほうが多いくらいだ。
「ラクウィルから逃げる、のは……あー……わからなくもないが」
「わかるの?」
「いや、はっきりとした理由じゃないぞ? ……たぶん、ラクウィルの力が怖いんだと思う」
「ラクさまの、力……?」
ラクウィルは天恵者だ。それも、稀に見ない、複数の属性天恵を持つ天恵術師だ。少年の時分には帝国の天恵術師団に属し、異形という悪評までつけられたほどの天恵者だった。
しかしながら、シュネイはラクウィルのそんな過去などはどうでもよく、また天恵も授かっていないので、力と言われてもよくわからない。
「わかる奴には、わかるらしいからな。天恵者の強さが」
「確かにラクさまは強いわね」
それがどうした、と目を丸くすると、ナイレンがなんとも言いようのない顔をした。
「……平和だな、ネイ」
「なによ、それ」
「いやまあ、そういうことだよ」
「どういうことよ」
「ラクウィルの強さを怖いって思う奴らは、たくさんいるんだ。おもに術師団の連中だが」
「怖いの? 強いから?」
「ああ。感じ方はそれぞれ違うだろうが、その感情の総称は恐怖だ。おれだって、ラクウィルがたまに怖い」
「あんなに優しいのに?」
「んー……優しいには優しいんだろうが、腹になに隠し持っているかわからないからなぁ」
ナイレンの説明は、シュネイにはよくわからない。ラクウィルを怖いと思う気持ち、それが理解できないからだろう。
シュネイは一度だって、ラクウィルを怖いだなんて思ったことがない。
「……それで、どうしてシズが? あの子はまだ子どもよ?」
「子どもは素直だろう」
「そうね」
「ツェイルみたいに上手く力を隠せばいいのに、ラクウィルはそれをしようともしない。だから子どもには怖いんだ」
「力を隠してないから?」
「いや、逆だ」
「逆?」
「力を持っていないように振る舞う。言い換えれば、まるで気配がないんだ」
それはなにも感じられないということで、恐怖を感じることもないと思うのだが、とシュネイは首をひねる。そもそも自分には感じられないそれを理解しようというのは、難しいことだ。
「その気配がないなら、怖くはないでしょう?」
「どうかな」
ナイレンは唇を歪めた。
「わかる奴にはわかるって、さっき言ったな?」
「ええ」
「気配を完全に断つ、なんてこと、できると思うか?」
瞬間的に、シュネイは黙す。答えられなかったからだ。
「強い力を持っている奴ほど、隠すのは上手い。だから、ふつうは上手い具合に隠すものなんだ。隠して、僅かな気配を残しておく。警戒のために。完全にその気配を断つ、なんてこと、隠密の連中でない限りやらないものだ」
「……持っている力を、完全に隠してしまうから、子どもたちは……シズはラクさまが怖いの?」
「本来なら感じられるはずのそれを、まったく感じない。それはものすごい違和だ。すべてに敏感で素直な子どもにとって、ラクウィルは違和の塊だと思うぞ」
むしろわかる者には不審を煽る、とナイレンは言う。
なるほど、とシュネイは漸くわが子の挙動に納得する。そういう理由でラクウィルと対峙したときは硬直し、かと思えば瞬間的に逃げ出すわけだ。思えばラクウィルのそばに寄ってくる子どもは、邸に子どもたちが集まっても、オリヴァンただひとりだけだった。
オリヴァンはどうして、わが子にすら逃げられるラクウィルのそばに、歩み寄るのだろう。
そしてラクウィルは、どうしてそんなことを、しているのだろう。
「なにか理由があるのかしら……」
「理由?」
「ラクさまが、そんなことをする理由よ。わたしにはラクさまの力なんてわからないし、どうでもいいのだけれど」
「はは……ラクウィルのあれをどうでもいいなんて、そんなこと言えるのは殿下とおまえだけだな」
シュネイは真剣に考えているのに、ナイレンは引き攣った笑いを浮かべている。
「あんなでもアインだって、ラクウィルのことは気にかけているんだが」
「アイン兄さまが?」
「本当に強いからな、ラクウィルは。アインと剣一本で喧嘩したとき、おまえいなかったか?」
「……憶えがないわ」
上の兄ツァインとラクウィルの喧嘩など、初めて聞く話だ。
「あれはひどかったぞー……もう、ほんと、隊舎が壊されるところだったし、庭は凄惨を極めたし、そのあと修理に費やされた請求書の、立派な山」
「そ、そんなことがあったのね……」
思った以上の話だった。
「さすがの殿下も泣いてたな。アインにものを壊されるたび、殿下の懐が軽くなっていったから」
謝ったほうがいいだろうか。血の繋がった兄と、いとしい旦那さまが仕出かしたことに対して。
「まあそれで、どうやらアインはラクウィルが力を完全に隠しているらしいと、わかったようだな。おれも骨身に染みた」
「わかった経緯がそれというのは……」
どうかと思う。
「手合わせする機会がそれまでなかったんだ。アインは騎士隊長、ラクウィルは侍従長だからな」
「どうしてラクさまは侍従なのかしら……殿下をお世話するのは楽しいようだけど」
「それは訊いたことがないな……そういや、あれだけ強いのに、なんでラクウィルは侍従なんだ?」
その経緯は、ナイレンも知らないらしい。サリヴァンの世話をする姿がはまっているのでシュネイも気にしたことはなかったのだが、話を聞いていくと不思議になってくる。
「術師団にいたことは聞いてるか?」
「殿下の計らいで五年ほど属していたとは、聞いたわ。天恵の使い方を教わったとか。あまり楽しくはなかったようね」
「てことは、やっぱりあれは真名だな」
「真名?」
「ラクウィル・ダンガードという名は、術師団では有名だ。言い方は悪いが、なにしろ異形だからな。それが忽然と姿を消して、姿を見せたと思ったら皇帝のそばにいて、そして皇弟のそばにいる。ラクウィルを疑う奴は多い」
「ラクさまが、ラクさまではないということ?」
「おれの視点から言わせてもらえば、殿下のそばにいる今のラクウィルが噂の天恵術師で、おまえの旦那だ。疑うつもりはないが、どうも釈然としない」
気になるのだ、とナイレンは唸る。サリヴァンの身に起きたことを知っている人間だから、その実を把握したくなるのだそうだ。
「ラクさまに直接訊けばいいじゃない」
「自己紹介された」
「なら、それが真実よ」
ラクウィルは、ラクウィル・ディバイン・ダンガードだ。シュネイのいとしい、旦那さまである。それ以外の、なに者でもない。
「ネイ」
「あら、イル姉さま。もう決まったの?」
区切りのいいところでツェイルが、武具屋の店主と話し込んでいたのか店の奥から出てきた。
「もう少し、時間が欲しい。いいか?」
「わたしはかまわないわ。ナインと久しぶりにお話ができるもの。それより、よさそう?」
「うん。ネイの言うとおりだ。見つけてくれてありがとう」
ふわっと、ツェイルが微笑む。その笑みを見られただけでも、街に出てきた甲斐があったというものだ。
「焦らないで、じっくり吟味してね。わたしのことはいいから」
「……ありがとう、ネイ」
シュネイは笑顔でツェイルを見送り、ほっと息をつく。
ラクウィルのそばにいられない日々の慰めは、ツェイルの穏やかな笑みだ。滅多に見られないものだから、なおさらそれは貴重で、心が温かくなる。
「相変わらずツェイルが好きだな」
ナイレンにそう言われて。
「大好きよ」
と、シュネイは笑った。