Plus Extra : きみの背中に花束を。9
オリヴァン視点です。
いつ部屋に入ったのか憶えていない。気づいたら長椅子に座っていて、イオルシィズが淹れてくれたお茶を手に持ち、すでに一杯を空けていた。
「……シズ」
「だいじょうぶですか?」
「……ああ」
「もう一杯、飲みますか?」
「頼む」
熱いお茶をもう一杯頼み、液体が器を満たしていくのを眺めながら、オリヴァンはふっと息をついた。
「シズ、アインの話……知ってたか?」
「いいえ」
「……冷静だな」
「おれが苦手なのは父さんだけなので」
冷静というわけではないが、自我を放棄するほど驚きもしないと、イオルシィズは苦笑する。
この従弟は昔から少しずれているせいか、感情の起伏が少ない。絶えず微笑んではいるが、それは父であり鬼畜師匠たるラクウィルから受け継いだ落ち着きようだ。
だから、思う。
イオルシィズが落ち着いてくれていてよかった、と。
イオルシィズが冷静沈着でいてくれるから、オリヴァンも頭を冷やすことができる。感情を、制御することができる。
「おじいさまが、聖王猊下だって……」
「そのようですね」
「まあ、昔から変な感じはすると思っていたが……まさか聖王だなんて」
聖王は、たびたび天上猊下と呼ばれる。神であり、神々の長であると祭神殿では教え、天恵を与えたもうた存在であるとも、語られている。
「あのお方が聖王猊下でいらっしゃると言われても、納得はできますよ」
「そうか? 神さまだってことだぞ?」
「あのお方を前にすると、得体の知れないものを感じます。オリヴァンもそうでしょう? 刻印がざわめくとか、前に言っていませんでしたか?」
「……おじいさまも天恵者だからそうなんだと、思っていた」
「神という役割を果たす天恵、であったら、納得できませんか?」
とんでもない発想をしてくれたイオルシィズに、思わず目を見開く。言った当人は真剣で、本気でそう考えているようだ。
「神が、天恵?」
「神は人間ではない、なんて、誰が言ったことですか? 人間が神という天恵を与えられても、おかしくはないと思います。オリヴァンは国主の天恵を授けられて、ノアウルは古の騎士の天恵を授けられて……ライレイさまも、サリヴァンさまも、同じように天恵を与えられているんです。それなら、あのお方だって、そういう天恵者であると言えませんか?」
イオルシィズの言いたいことはわかる。
神学者がいて、天恵を調べる者たちが存在して、数百年も天恵について調べられているのに、未だ解明されていない天恵だ。この世界には、それくらい数多の天恵が存在している。
「そうか……そういう考え方もあるな」
人間が、人間ではなくなる天恵があっても、おかしくはない。
魔が、聖が、天恵を授けられた獣であることが、なによりの証拠となるだろう。獣は天恵を授けられることで、ただの獣ではなくなってしまうのだ。同じ作用が人間にあってもおかしくはない。
イオルシィズの言葉に、オリヴァンはほっと息をつき、驚いてしまっていたことをばかばかしく感じた。
「おじいさまは、おじいさまだ」
「そういうことです。ですから、納得できますでしょう?」
「ああ」
なんてことはない。
聖王がお伽噺で語られていても、オリヴァンが「おじいさま」だと認識しているひとは、なにがどう転がっても「おじいさま」以外のなに者でもないのだ。
一つ落ち着きを取り戻すと、オリヴァンは湯気を立てているお茶を半分ほど飲み、卓にお茶を置くと椅子を離れた。
「オリヴァン?」
「おじいさまのことには驚かせられたが、それほどのことではないとわかった。だが、おれにはいくつか疑問がある」
「疑問、ですか」
オリヴァンは窓辺に歩み寄ると、午後の陽ざしの中で働く職人たちの姿を見つめる。あの中に混じることはもうできないだろうか、とちらりと思った。それは少し残念なことだ、とも。
「国の、真実……仮初めの、皇帝」
「……サリヴァンさまのことですか?」
訊ねてくるイオルシィズに、オリヴァンは振り向く。
「シズはどこまで知ってる?」
「どこまで、と言われても……オリヴァンが知っている以上のことは、知りませんよ」
「幽閉されていた、ということも?」
「初めて聞きましたね」
自分を真っ直ぐと見つめてくるイオルシィズの瞳に、嘘は見えない。本当に知らないのだろう。
「アインは、サリエがおじいさま……猊下に育てられたと言っていた。実際にサリエは猊下を『養父上』と呼ぶから、確かなことだと思う。おれも『おじいさま』と呼ぶからな」
「そうですね」
「サリエは……産まれてからの十八年、幽閉されていた。その十八年を、猊下が育てたということになるよな?」
「おそらく、そういうことだと思いますが」
「サリエを幽閉したのは先帝……理由は、国主の天恵がサリエにあったから……サリエが仮初めの皇帝であった期間は五年半、おれの歳から逆算すると……」
「合いますね」
計算が、と言うイオルシィズに、オリヴァンも遅れて頷く。
父は、十八歳のときに幽閉を解かれ、直後に仮初めの皇帝となり、五年半後に帝位を退いた。その一年半後に、オリヴァンは産まれたことになる。
「……シズ」
「はい」
「なぜ……サリエは幽閉を解かれたんだと思う?」
問うと、イオルシィズは幾分か眉をひそめ、そして俯いた。
「その年は、先帝が崩御なさいました」
「……なるほど」
そういうことか。
父を邪険にし、疫病神のように扱った先帝が死んだことで、父は幽閉を解かれた。ならば、先帝以外の者たちは、父を先帝のように思っていなかったということになる。
ただ、自由は与えなかった。
「シズ、ほかにもありそうだな?」
「……陛下が病に倒れられた年かと」
「……それで、サリエを引っ張り出さなければならなくなった、ということか」
「そう、なるかと……」
仮初めの皇帝、ではなく、身代わりではないか。影武者ではないか。
「サリエの存在は秘されていた。それが、幽閉によるもの……先帝の独断による、身勝手で傲慢な……やっと出られたと思えば、国の重鎮はサリエを縛りつけた。あれほど似ていれば、変えが効くとも思ったのか」
恨めしい、と思った。自分が父に似ているということもいやだと思うのに、それを利用されるのはもっといやだ。だが、父はそれを受け入れたのだろう。そしておそらく、今も。
「皆がサリエに対して慎重になるのは、サリエが国主の天恵者であるのに、誰にも知られることなく幽閉されていたからか……」
父が、ちらりと天恵についてのことを話してくれたとき、オリヴァンに見せた悲しそうな顔。
オリヴァンとは違う天恵だと言った、その意味。
ライラとの婚約に反対する、その理由。
「だからこそ、国は神の子となられたサリヴァンさまを、手放せない」
イオルシィズではない声に、ハッと目を向けた。どこかに行っていたらしいノアウルが、いつのまにか扉の前に立っている。
「国はサリヴァンさまを必要としている。だが陛下は、サリヴァンさまの兄で在り続けたいだけだ」
ふと息をつきながらノアウルは歩を進め、どさりと長椅子に座った。イオルシィズにお茶を頼んでもらったあと、一口飲んでからオリヴァンのほうを見やってくる。
「陛下の人となりは、おまえもよく知ってるだろ」
「……あれだけ抱きつかれる機会があれば、な」
オリヴァンもふっと息を吐き出し、窓に背を預けて寄りかかると、腕を組んでノアウルを見据えた。
皇帝サライが、父をどう見ているかなど明らかだ。あの溺愛ぶりを見ていれば、父の幽閉には僅かな関わりすらないことくらい、はっきりとわかる。
父の幽閉を、きっとサライは、知らなかった。だからあれだけの愛を注ぐ。溢れたものを、オリヴァンに押しつけてしまうくらいに。
「サリエが幽閉されていたと聞いて、複雑なだけだよ。あれでもおれの父親だからな」
「サリヴァンさまはお優しい」
「知っている」
だから、複雑なのだ。
天恵のことを語る表情と、ライラとの婚約に反対するその意思が、まるでサリヴァンのさまざまな過去がオリヴァンに悪い影響を及ぼすことを心配しての、過保護さに思える。
「……なにを心配しているのだか」
オリヴァンは成人した。父の過去も知らずに、国の過去なども知らずに、大事に護られ包まれて、ときには厳しく、甘やかされて育った。
だが、だからといって、なにもできない子どものままではいられない。
「気づいていたか、オリヴァン」
「……その言葉だけでなにを察しろと?」
「おまえはずっと、反皇弟派の勢力に狙われている」
ふっと、オリヴァンは皮肉げな笑みを浮かべた。
「気づいていないとでも思っていたのか」
命を狙われていることには、早くから気づいていた。あれだけ大事に護られていれば、その異常さにも気づくというものだ。
そもそも、父の懐刀である騎士隊が近くにいない日々など、成人前であったらありえなかった。自由に往来を歩けるようになったのも、成人してからのことになる。それまでは、邸を一歩でも出ようものなら騎士隊の誰かが必ずそばについたし、誰にも見つからないよう邸を抜け出しても、ノアウルかラクウィルに必ず見つかった。
いつでもどんなときでも人に囲まれて育ったせいか、そういうことをあまり気にしなかったオリヴァンも、成人を迎えてからの日々を思い返すと、あれは異常なほどだったと気づくことができる。
成人から一月もしないで、どれだけのことに気づかされたことか。
「みんな、過保護だ」
ひとりでも、できることがある。
北領の砦に来たのは、それを証明したかったのもあった。実際に職人たちとは上手い関係を築けていたし、賊も剣で退けることができたのだ。頑張れば、もっとなにか、できることが増えるはずだ。
「過保護、か……仕方ないだろ。みんな、おまえを護りたいんだ」
「天恵を、の間違いだろ。おれの命を狙っている連中は、つまりはライラに天恵を返せと、そういうことだろうからな」
「その天恵はおまえのもので、おまえがおまえだから護りたいんだ」
真剣な顔のノアウルに、くす、とオリヴァンは声に出して笑う。
ノアウルはいい友人だ。
「ノアには、ライラを護り続けて欲しい。おれはいい。メルエイラ家が力を貸してくれるし、騎士隊のみんなもいる。剣の腕だって、ツェイとラクウィルに鍛えられているんだ。ノアの天恵は、ライラのためにある」
「おれの天恵はオリヴァンのためにもあるんだ」
「ノア」
頼むよ、と微笑めば、幼い頃からの友人は困ったように、悔しそうに、目を細めた。
「それなら、同じことをシズにも言え。おればかりでは不公平だ」
「……シズ?」
なぜそこでイオルシィズの名が出るのだ、とオリヴァンは視線をイオルシィズに向ける。本人も首を傾げていた。
「おれはただの従者ですよ? ヴァルハラ公爵家に仕える者のひとりですから、ライレイ殿下にお逢いする機会などありませんし」
「シズ、いい加減自覚しろ」
「はあ……自覚と言われましても」
なにを自覚すればいいのか、と困っているイオルシィズに、ノアウルはため息をついて呆れていた。
「ノア、なんのことだ?」
「口で説明するより、見たほうが早いか……オリヴァン」
「? なんだ?」
長椅子を離れたノアウルが、オリヴァンのそばに歩み寄ってくる。ぽん、と肩を叩かれると、とたんにどっと肩に重力がかかった。その重みが、ノアウルが天恵を発動させたがゆえに起こるオリヴァンの負荷であると気づいたときには、景色が変わっていた。
「おまっ……日に二度も三度も飛ばされるおれの身にも」
なってくれ、と言えずに膝が床につく。
ノアウルの天恵は、オリヴァンには非常に疲れる代物で、一緒に飛ぶとなると一日に数度が限界だ。
今日はすでに二度ほど飛んでいるため、三度めともなると立っていることすらつらい。
「見ていろ、オリヴァン」
「なにを、だよ」
自室から、どうやら別の部屋に飛んだだけのようで、床の感触はそれほど冷たくもない。疲れた身体をそのまま座って休ませることにして顔を上げると、ふと、目の前が歪んだ。
そう、景色が歪んだ。
それは、ノアウルがまだ己れの天恵を上手く使いこなせなかった頃、よく起こしていた事象だ。
「え……?」
もう見ることもなくなった事象に、オリヴァンは瞠目する。
そして。
「置いて行かないでくださいよぅ」
と、イオルシィズが事象の中から現われた。
「……シズ?」
「はい? なんで吃驚しているんですか?」
「おまえ……飛んだ?」
まるでノアウルのようだ、とオリヴァンは思う。
ノアウルは、その天恵を授かった兆しが見え始めるとどこからともなく現われるようになって、天恵だと理解すると使いこなすために練習を始め、オリヴァンの目の前に現われるようになったものだった。上達してくると、ラクウィルのようにふわりと空から、舞い降りるように、現われるようになった。
「シズは飛べる。自覚がないだけで」
ノアウルの言葉に、ハッとする。
「天恵……なのか」
「それ以外のなにがある?」
「……なら、飛べる天恵なんて」
「ああ、一つしかない」
ノアウルと同じだ。
ラクウィルと同じだ。
「シズは《天地の騎士》だ」
国にひとり、多くてふたり、世界中では数人の存在。
空間を歪め、瞬時に移動できる天恵。
皇帝国主の天恵者のそばに、必ず現われる天恵者。
「おれが古の騎士なわけないでしょう。それは父ですよ」
「じゃあ、ここはどこだ?」
「どこって……あれ?」
「おまえは飛んだよ、シズ。これまでにも、幾度かあったはずだ」
「……いつのまにか景色が変わっていることはありましたけれど……あれ?」
どうやら当人に自覚はないらしい。だが、オリヴァンが今見たものは、確かなものだ。
「シズが……《天地の騎士》」
「それは父ですって。オリヴァンまで、なに言うんですか」
呆然としたオリヴァンと、違うと否定し続けるイオルシィズ、両者をノアウルは見比べて、そうしてため息をついていた。