10 : 護りたいもの。2
サリヴァン視点です。
ツェイルの部屋を辞して、執務室に向かう廊下でふらついたサリヴァンを支えたのは、すぐ後ろを歩いていたルカイアだった。
「無茶をなさいましたね、陛下」
支えられたサリヴァンは、ルカイアのその、なんとも表現し難い表情に、顔を歪める。支えられ続けるのが不愉快になるその表情に、ルカイアを突き飛ばした。
「おれに、触れるな」
よろめくサリヴァンを、今度はラクウィルが支える。ラクウィルはなにも言わなかった。
「……わたしに敵意を向けられるとは、初めてですね」
「今回ほど、おまえを憎らしく思ったことはない」
「そうですか」
サリヴァンはルカイアを睨んでいたが、ルカイアはそれを意にも介さず、平然としている。それは癪に障るというよりも、サリヴァンに悲しさを募らせるものだった。
「そんなに、おれをこの国に、縛りたいのか」
「ええ」
ルカイアは即答した。
「あなたがこの国を離れられないように、郷里を求める者を盾に取る。それくらいのこと、なんでもありません。そう思うくらいには、あなたをこの国に縛りたいと思っています」
サリヴァンは、いっそこのお人好しな自分を切り捨てたいと、思った。けれどもそれすらできない立場にある自分が、悔しくて悲しくて、ならなかった。
「おれはこの国のために在る。それでも、その言葉に満足しないか」
「しません」
「おれは国主だ!」
叫んで、寝不足と痛みでふらつく身体をどうにか動かし、ラクウィルの支えから離れて歩き出す。
ずきずきと痛む肩と二の腕。
けれども温かくぬくもりが残る、包帯を巻いた腕。
痛みとぬくもりがせめぎ合って、寝不足であるらしい自分を自覚して、舌打ちする。
「痛みますか」
「うるさい」
「薬を用意しましょう。薬師に連絡を……」
「要らない!」
「……では、彼のお方さまのところへ参られますね」
返事をしなかった。自然と足がそちらに向いていたから、言う必要はないと思った。
ときおりふらつきながら、支えてくれようとするラクウィルの手を払いのけて、サリヴァンは廊下を進む。
執務室がある棟の、その行き止まりとなった場所まで来ると、一面ただの壁でしかないところに手をつき、押した。
ある術式が施された壁はサリヴァンが触れると大きな扉に変わり、押された方向に開かれる。扉の向こうにはまた廊下が広がっているが、向かって右手は森のような庭で、中央に噴水がある。
サリヴァンは扉を抜けた。ルカイアとルーディはその場で足を止め、礼を取る。ラクウィルだけを連れて歩き出した。
そうして真っ直ぐ歩いて、見えてきた角の部屋で立ち止まると、いきなり扉を開ける。
「……どうした」
中にいた住人は、サリヴァンの唐突な来訪に驚くことなく、また膝に置いた書物から顔を上げることもなかった。
書物だらけの部屋で、窓の隙間から零れる陽光に当たって煌めく銀糸の髪が、サリヴァンの寝不足の眼を刺激する。
「養父上……」
サリヴァンは、中の住人を「養父上」と呼び、ふらふらと入室する。行きついた寝椅子に辿り着くと、どさりと倒れ込んだ。
「……わたしをそう呼ぶとは、久しいな」
いつもならそう呼ばない。けれども、今は、養父と呼びたかった。
黙っていると、養父は書物から顔を上げた。
「サリヴァン?」
琥珀色の、光りの加減では金色に見える双眸が、サリヴァンを見つめる。
サリヴァンは目を閉じた。
「どうして、議会を、承認させたのですか」
「……議会?」
「メルエイラ家の娘ですよ」
「……ああ、あれか」
とぼけているわけではない。このひとは、時間の感覚が狂っている。いきなり話し始めても、思い出すのに時間がかかってしまうのだ。
「必要だと判断した。それだけだ」
「なぜ必要だと」
「わたしが必要だと判断した、それが理由だ」
「そんなの……」
理由になっていない。けれども、このひとの言葉は絶対で、覆されない。
「足掻いたようだな」
「……ええ」
「隣国との問題は片づいていまい」
「それを片づけてからと思ったのに、養父上が承認してしまったから……面倒なことになっているんじゃないですか」
「メルエイラのほうは片づいたであろう」
「先に片づけるは隣国との問題。そちらではない」
「そうか」
「養父上っ」
サリヴァンは身じろぎ、視線を書物に戻してしまった養父を睨む。しかし、養父はそれ以上の言葉を与えてくれることはなかった。しばらく見つめていたものの、サリヴァンは諦めて寝椅子に埋もれる。
「眠らせてください」
「……好きにしろ」
素気ない言葉を耳にしつつ、サリヴァンは再び目を閉じる。
少しして、うとうととし始めたところで、ふんわりとなにかが頭を撫でた。薄目を開けて見ると、それは養父の手のひらだった。
「養父上……」
どっと、安心感が押し寄せる。涙が込み上げるほどの安心感だ。
この安堵感には、憶えがある。
「……ツェイルとの、剣……楽しかった」
「……そうか」
声は素気ない。けれども、手のひらは優しかった。
「前向きな、覚悟で……おれには、眩しい……けど、楽しかった。剣は、使えないと、わかっていたのに……」
「その腕、メルエイラの娘か」
「こんな、おれを……心配して、くれる……自分だって、家族のところに、帰りたいだろうに、帰れなくて……帰してやれなくて、申し訳ない」
「……そうか」
「養父上……ツェイルを、帰してやって、くれ……ツェイルを、巻き込みたくない……あの子は、いい子だ。おれなんかの事情に、巻き込んでは、可哀想だ」
「わたしの決定は覆らぬ」
「……養父上はひどい」
「いつものことだ」
「はは……それも、そう……で、す……ね」
緩やかな優しさに、安堵感に、サリヴァンの瞼は完全に落ちる。それはツェイルのそばで眠っていたときと同じで、完全なる深い眠りだった。
自分をここまで安心させてくれるのは、このひとだけだと思っていた。
なにがあっても自分を肯定していてくれるのは、このひとだけだと思っていた。
だから、ツェイルにもそれを感じて、サリヴァンは信じられなかった。
今度、この腕を治療してくれた礼をしなければ。
そう思った自分にも驚きで。
なにか贈りものでもして、気を紛らわせてあげたい。
そう思った自分が、不思議だった。
「ツェイル……」
不思議な娘だ。
その瞳には、サリヴァンの真実が見えているだろうに、サリヴァンの騎士になるのだと言ってきた。手合わせしたら、騎士にしてくれるのかと、諦めた様子もなく言ってきた。
ツェイルが手当てしてくれた腕に、まだツェイルの手のひらの感触が残っている。暖かく、優しく、剣を握るのに柔らかなぬくもりが、脳裏から消えない。
不思議な娘だ。
眩しいくらいに真っ直ぐな瞳が、薄い紫色の瞳が、なかなか忘れられそうにない。
ああ、目覚めたら剣を贈ろう。ツェイルの瞳と同じ宝石を入れた、銀色の剣。その小柄な体格に合わせて、両刃ではなく片刃の、動き易さと安全性を重視した美しい剣だ。きっとツェイルに似合うだろう。
ツェイルは暖かだった。とても安らぐぬくもりを持っていた。その手に剣を握らせるのは忍びないが、剣を持ったツェイルは美しかった。
そこまで考えて、漸く、サリヴァンは思考を手放した。