Plus Extra : 悠久のなかで、与えられた。
聖王猊下視点です。
書物を読み始めると止まらない。捜しものがあって書庫に入ってしまうと、捜しているうちに余計な書物にも目がいって読み始めるので、書庫に籠もりっ放しというのは当たり前だ。
「猊下、そろそろ出てきてくださいませんか」
というアルトファルの声が聞こえたが、返事もせず読み耽る。
世界中から集めた書物は、それほど魅力的なわけではないのだが、ただ生きている自分の暇つぶしにはちょうどいい。
「猊下!」
ぱっと目の前が明るくなったとき、自分の目が夜に馴染んでいたことに気づいた。
「……なんだ、アルト」
「まったく……聖王というのは便利ですね。呑まず食わずで一月、よくこんな暗闇に籠もっていられますこと」
聖王に食事など意味がない。そんなことは百も承知だろうに、変わり者の最高位精霊は食事をさせたがる。自身だって食事は要らないのに、趣味だと言って人間が食すものを調理したがるのは、やはりあれのせいかと思う。
「さあ、書庫から出てください。上の塔にだって読んでいない書物はありますでしょう? そちらに移動してください、聖王猊下」
追い立てられるように、仕方なく書庫を出る。居座り続けてもよかったのだが、そうするとアルトファルが口煩く言葉を連ねるので、そうされるよりかはいい。
地下の書庫を出て階段を上り、途中で面倒になったので、自分の影から白い杖を取り出すと石畳を叩く。アルトファルの力と己れの魔術を応用させた力で、塔の最上部へと移動した。
掃除の行き届いた空間は、壁一面が書物の棚になっているが、どこを見ても埃一つない。
白い杖を影に戻し、開け放たれている窓の近くに腰かけると、適当な書物を自分に引き寄せ、書庫にいたときのようにまた読み始めた。
「なんじゃ。相変わらず籠もっておるのか、聖王よ」
と、声をかけられたとき、また邪魔が入ったことに顔をしかめた。
「空は晴れ渡り、雲は流れ、空気は澄み、緑は活気づいておる。これほどの世界は久しぶりじゃというのに、おぬしはなにをしておるのじゃろうのう」
窓辺に腰かけた青年は、ふわふわと灰色の髪をなびかせ、真っ黒な瞳を楽しそうに歪めている。
「……なに用だ、記録者」
記録者、と呼べば、青年は肩を竦めて薄い唇も歪ませる。
「われが来てはならぬ理由などなかろう。われはそう、記録者じゃ。〈大いなる意思〉に惑わされぬ、自由な記録者。おぬしのこともわれの頁に記録されておる。おぬしがわれを拒むことなどできはせんのじゃよ」
にやり、と笑む記録者に、腹を立てても詮無い。記録者は、世界を記録する孤独な存在、聖王である己れもまた孤独な存在であり、互いに持っている心がある。
はあ、とため息をついた。
「聖国に今、記録できるものなどなかろう」
「そうじゃのう……うむ、これはわれの気紛れじゃ。記録でなく、面白そうじゃったから、来たのじゃよ」
「大した気紛れだ」
「われはおぬしと違って忙しいのでの」
「ならば立ち去れ。わたしを巻き込むな」
「そうもゆかぬのじゃがのう……」
「立ち去れ」
記録者を追い出そうとしたときだった。
ふと部屋の扉が、なんの予告もなく開かれ、そこからひょっこりと小さなものが顔を見せた。見憶えのある幼子だ。
「……サリヴァン?」
おや、と思う。
まだこんなに小さかっただろうか。
書物を閉じ、卓に置いて立ち上がると、こちらとじっと見ている幼子に歩み寄る。
「ひとりでここまで来るとは……アルトはどうした」
腕を伸ばし、抱き上げると、幼子は首を傾げてきょとんとする。まだ言葉もわからぬ幼子だっただろうか。
「聖王よ、それはおぬしが知る人の子ではなかろうよ」
と、記録者が楽しげに言った。
「なんのことだ」
と振り向けば、記録者の姿はもうそこにはなかった。いったいなにを面白がってここまで来たのか、と思いながら、腕の幼子を抱き直して最上階の部屋を出た。
「アルト、サリヴァンがひとりで上まで来たぞ。なにをしている」
塔のどこかにいるだろう精霊に呼びかけるも、姿を見せる気配がない。なにをしているのだと思ったとき、ふと幼子に銀色の髪を一房、握って引っ張られた。
「……じぃちゃ?」
「? なにを言っている?」
幼子の発する言葉は難解だ。アルトファルなら理解できるだろうが、自分には無理なことである。
階段を降り切って、アルトファルがいそうな場所を歩いた。アルトファルなら外の菜園か、厨房か、そのあたりにいるのだろうと当たりをつけたのだが、そこまで行く前に、広間でその姿を見つけた。
「アルト、サリヴァンが……」
と言いかけて、言葉が詰まる。
「養父上!」
呼ばれ慣れたその名称が、聞き慣れた声で聞こえて、不思議に思った。思わず腕の中の幼子を見つめる。
「サリヴァン?」
この幼子は、サリヴァンだと思うのだが。
「養父上、おれはこっちですよ」
聞き慣れた声に説明されて、顔を上げる。見慣れた顔があった。
「サリヴァン?」
大きいサリヴァンだ。
おかしいと思ってまた視線を下げると、小さなサリヴァンがいる。
頭が混乱してきた。
これだから聖王というのは不便だ。時間の感覚がおかしいせいで、ときに現実がよくわからなくなる。
「養父上、ですからおれはこっちです。その子はオリヴァンですよ」
「……オリヴァン?」
「おれの息子です。忘れましたか? 養父上が助けてくれたわが子ですよ」
目の前の大きなサリヴァンに言われて、記憶を探る。
そういえば、なにか、そういったこともあった気がする。あれは確か、初めてサリヴァンの、国に対する想いを聞いたときのことだ。
「……あの片翼か」
「思い出していただけましたか?」
苦笑した大きいサリヴァン、いや、大きく成長したわが子同然のサリヴァンに、ああ、と頷く。
ついでに、もうサリヴァンは塔を出て、街に降り、その生活を得たことも思い出した。そして、腕に抱いている幼子のことも、産まれたときに一度逢っていると思い出し、それから数日はサリヴァンのところにいたときの記憶も甦る。
「そんなにおれと似ていますか、オリヴァンは」
「……そうだな」
ふっと息をつき、幼子を見やる。
「おまえがまだ小さいのだと、勘違いしていた」
「はは、そのようですね」
幼子に、オリエ・ヴァラディンと、オリヴァンという名を与えたのは、自分だ。だが、サリヴァンの幼い頃によく似た面差しをしているので、てっきりサリヴァンがまだ小さいものだと勘違いしてしまっていた。よく見れば、オリヴァンの瞳はサリヴァンよりも濃く、そして薄紫っぽい感じがある。目許はサリヴァンよりきつく、強そうな意思がそこに宿っている。総合的にサリヴァンに似ているが、一つ一つに違いがあった。
「……ひとりか?」
オリヴァンに、サリヴァンと違う部分を形成させた少女がいないことを不思議に思って、どうしたのかと問えば、サリヴァンは少しだけ悲しげな顔をした。
「連れてきたくなかったので、おれひとりです。ああ、ラクやユートはいますよ。外で待っています」
「……なにかあったか」
なにもなく、サリヴァンが自分のところに来るとは思い難かった。理由を訊ねれば、サリヴァンは俯く。
「さぁり?」
オリヴァンが、父の様子がおかしいことに気づき、不安そうに名を呼ぶ。だが、サリヴァンは顔を上げない。
「サリヴァン」
どうした、話してみろ、と昔そうしていたように頭を撫でてやると、それを真似てオリヴァンもサリヴァンの頭を撫でる。ゆっくりと顔を上げたサリヴァンは、笑ったらいいのか泣いたらいいのかわからないとでもいうような、そんな顔をしていた。
「公式発表が、されてしまって……」
「発表?」
「反対、したのですが……突っ撥ねられて」
なんのことだと、忘れ易いが憶えてはいる己れの記憶を探る。
しかしどうしても思い当たらなくて、仕方なく控えているアルトファルに目配せすると、サリヴァンと同じような顔をしたアルトファルは口を開いた。
「半年ほど前、皇女殿下がお生まれになりました。名を、ライレイ殿下と。オリヴァンさまは、ライレイ殿下との婚約が決まったのです」
「……産まれたばかりの赤子と、婚約?」
早過ぎやしないか、と思ったが、自分と比べて生の短い人間なら、早いほどいいのかもしれない。
「……いやなのか、サリヴァン」
「当たり前です。兄上がなにを考えているのか、おれにはわからない……オリヴァンを城になんて、なぜ……いくら国主の天恵があるからとはいえ、横暴としか言いようがありませんよ。オリヴァンはまだ三つで、ライレイは産まれたばかり……まだどちらも親の手が必要で、おれとツェイにだって手放したくない可愛いわが子なのに……」
自分のような人生が、わが子にも降りかかるかもしれない。サリヴァンはそう慄いたのかもしれない。奪われるかもしれないと、恐怖しているのかもしれない。
「このままでは、オリヴァンが……っ」
確かに、皇女の婚約者ともなれば、それが幼い内に決まったならなおさら、すぐにでも城に召し上げられることになるだろう。幼い内からオリヴァンは城で生活させられることになり、また両親から引き離されるだろう。
そんなことを、サリヴァンが享受できるわけがない。
「……久しぶりに、表に出るか」
「え……養父上?」
「わたしが出れば、おまえが考えた末路にはなるまい」
可愛いわが子だ。サリヴァンがオリヴァンを愛するように、自分にだってサリヴァンを想う気持ちがある。
オリヴァンを抱き直して一歩踏み出すと、慌てたサリヴァンに引き留められた。
「養父上になにかしてもらおうと思って来たわけではありません!」
「……聖王の言葉は絶大らしい。効果はあろう」
「違います! おれは、ただ……どうしたらいいか、わからなくて……気づいたら、ここにいて……」
無意識に、頼ってくれていたらしい。迷惑をかけるつもりでここに来たわけではないとサリヴァンは言うが、頼りにされるのは思いのほか嬉しいものだ。これくらいは頼れと、むしろ言いたい。
「サリヴァン、わが子よ。わたしを父と呼ぶなら、たまには頼るがいい。おまえと同じ刻を歩むことはできぬが、それくらいはできよう」
「違います、養父上! おれは……っ」
「サリヴァン」
この悠久の時間を生きることが、どれほどの孤独と苦痛にあるか。そんな中で、捨てられたわが眷属を拾い、育てたことが、どれほど満ちた時間であったか。もうここには帰るまいと感じたあの瞬間の、空虚なものといったら。
だからこそ、こうしてときどき逢いに来てくれることが、とても嬉しい。
「わたしは、今も昔も、これからも、おまえの父でありたいのだ」
想う心があることの、どれほど幸せなことか。
今ならよくわかる。
「養父上……」
そう呼ばれることが、この空虚な日々を満たしてくれる。
それは聖王という理が自分を縛っていても、唯一感じられる喜びだ。
「わたしは人間のやることに干渉はできぬ。だが、わが眷属に干渉することは可能だ。わたしは聖王として、おまえの父となろう」
聖王の理は覆すことなどできない。だが、盲点を突くことはできる。そのおかげでわが子を護れるのだから、聖王という存在そのものも利用しよう。サリヴァンは、悠久の中で、自分に与えられた眷属、わが子なのだ。
「ですが……養父上」
まだなにか言い募ろうとするサリヴァンの頭をくしゃっと撫でて黙らせると、今度こそ表に出るために、オリヴァンをしっかりと抱いて歩く。自分の影から白い杖を取り出し、石畳を叩いて、移動した。
「……じぃちゃ」
この塔、天王廟とも呼ばれている淡の塔から移動する瞬間、オリヴァンがまたそう言った。
「……それはもしや、わたしのことか?」
「じぃちゃ」
「わたしはレイシェントだ」
「じぃちゃま」
もしや、じいさま、と呼びたいのだろうか。
じぃちゃ、じぃちゃま、とにこにこしながら自分を呼ぶオリヴァンに、ふっと、久しぶりの笑みがこぼれた。
「ああ……わたしは、おまえのじいさまだ」
頬を擽りながら答えると、オリヴァンはよりいっそう、嬉しげな笑みを浮かべた。
記録者は、ふむふむと、笑った。面白い記録が残ったことに、満足した。人間に干渉できない神々の長が、人間のように微笑んでいる事態が、とても愉快だった。
「さて〈大いなる意思〉よ、おぬしはどういたすかのう。稀代の力を持ちながら捻くれ、しかし従順であった聖王は、おぬしの袂を離れた。おぬしの〈声〉に、聖王は反発するじゃろう。面白くないか、不愉快か、不服か、〈大いなる意思〉よ」
くくく、と笑ったあと、晴れ渡った空を見上げる。
「これが世界じゃ、〈大いなる意思〉よ」
青い空は記録者の声を吸い上げ、風に乗せる。
「われも行くとしよう。いとしき者の袂へ」
記録者の声は、空気に馴染む。
その姿が、風と消えるのと同じく。