Plus Extra : メルエイラ末弟事情録。6
幾度かイルアリアと逢い、他愛のない会話を楽しめるくらいになったときのことだ。
「逢瀬は順調のようだね」
今日は邸にいたらしいツァインが、寝乱れただけではない乱れをその均衡が取れた肉体にまとわりつかせながら、帰りの遅くなったトゥーラを出迎えた。
「そんな恰好のまま弟の前に出てくるな」
「そんな恰好って? ……ああ、さっきまでフィジスを抱いていたからね」
「あのな……」
トゥーラからしたら節操のないツァインは、溺愛するツェイルへその愛をすべて注げないせいか、フィジスという妻を得る前まではあちこちでその欲を晴らしてくるということが多かった。今でこそフィジスひとりに絞られてはいるようだが、それでも節操はないとトゥーラは思っている。
一度、ツェイルにそれを見せつけるかのような行動を取ったこともあるが、なんの反応も示さないツェイルを見てからは、ツェイルが眠ったあとに欲を晴らして帰ってくるようになった。ツェイルの就寝時刻が早いので、もう少し長く起きているトゥーラとはよく顔を合わせたものだ。
だが、だからといって、トゥーラはそれを許しているわけではない。仕方ないと、同情こそすれ、ツァインの行動はトゥーラには理解し難いことなのだ。
「なんでいやそうな顔するかな。フィジスは僕のものだよ? どうしようが僕の勝手でしょう」
「肉欲を晴らすためだけに、妻にしたのか」
「そうだよ」
にべもなく答えたツァインに、やはりこいつの考え方は気に喰わない、と思う。
「なに? 僕が、フィジスを愛するあまりに抱き潰したとか、そう答えると思うの?」
「いいや」
「ならいいじゃない。本当はツェイルを抱き潰したいんだから。トゥーラも、そうだろう?」
意味ありげなにやりとした眼差しに、腹が立ってぎろりと睨みつけた。
「あんたと一緒にするな」
「本当はツェイルを抱きたくて仕方ないくせに」
「おれはあんたとは違う」
「僕みたいに我慢しないで、その欲はどこかで吐いたほうがいい。あ、僕はトゥーラでもいいよ。だってトゥーラは、ツェイルとそっくりだもんね。フィジスより具合がよさそうだ」
「気色悪い!」
まんざらでもなさそうな様子のツァインに、本気で怖気が走って一歩後退した。
「あはは。冗談だよ」
腹を抱えて笑い始めたツァインに、しかし本気で言った可能性を否定できなくて、そこからさらに距離を稼いで剣の柄を握った。
「冗談だって言ったのに……」
一頻り笑ったあとに、ゆらりと身体を起こしたツァインは、壁に身体を預けつつトゥーラを見やってくる。
その瞳に浮かぶ狂気に、言い逃れできない恐怖を感じた。
「ツェイルの代わりなんて、どこにもいないよ」
これほどたちの悪い人間はいない。笑っていたかと思えば、その笑いを催した狂気を隠しもせず、実の弟にぶつけるのだ。
それほどまでにツェイルを溺愛し、執着しているのなら、なぜ手放したのだと、トゥーラは震えそうになる身体を抑えて強く睨んだ。
「だったらなんで、イルをあの男に……っ」
「殿下? 殿下なら仕方ないよ。だって、約束したから。殿下はその約束を果たしてくれただけ」
「たかだか口約束ごとき、あんたなら跳ね除けられただろうが!」
「そう、口約束。でもね、殿下はそれを果たしてくれたんだよ」
ふふ、とツァインは笑む。
「僕のツェイルへの愛を、殿下は認めてくれた」
それはとても嬉しそうで、幸せそうな笑みだ。
見たこともないようなものを見せられた気分になって、トゥーラは困惑する。
こんな顔ができる男だっただろうか、この兄は。
「だから僕は殿下がわりと好き。人間離れしたあの感じも、ツェイルを愛しているその姿もね」
「……恋敵、だろうが」
「そうだね。でもわりと好き。嫌いにはならない。トゥーラは……そうでもなさそうだね」
ツェイルを奪っていった男を、わりと好き、なんて言うツァインが信じられない。いや、もともと嫌いなものすらもなく、なにごとにも無関心なツァインが、ツェイル以外で好き嫌いをはっきりさせるのも、珍しいことだ。信じられない。
「おれは、嫌いだ……あんな男……イルを奪った男なんか!」
「……ふぅん?」
「イルはおれか、あんたのものになるはずだったんだ。イルを護れるのは、おれたちだけのはずだったんだ。なのに……なのに、なんで……なんでイルを!」
握った拳で、がんっ、と強く壁を叩く。
ツァインは無言でその様子を眺めていたかと思ったら、はあ、とため息をついた。
「なんで今、それを言うかな」
「なんだと」
「ツェイルはもう、四年も前に、殿下のものになった。今さらだよ、トゥーラ」
「そんなのはわかっている」
わかっている。もう遅い。今さらだ。それでも、どうしても、その想いは昇華できない。
「無理だってわかっているのに……まったく、さすがは僕の弟だよ」
「一緒にするなっ」
「トゥーラ」
笑いともつかない顔で、ツァインがじっと見つめてきた。
「僕みたいになったらいけないって、わかっているだろう? なら、そうすべきだ。わかるよね」
「……諦めろと、言いたいのか」
「いいや。認めろって、言いたいの」
「なにを認めろと?」
「僕らは、ツェイルを幸せにできない」
ぐさりと、胸を剣で貫かれたような痛みが、心に響く。
「僕やトゥーラでは、ツェイルが望むものを、与えることすらできない。わかる? ツェイルの孤独は、僕らが埋められるものではないんだよ」
ぐっと、歯噛みする。
わからないものだったらよかったのに、わかることだから、余計に言葉を紡げない。
認めたくないのだ、本当は。
ツェイルを幸せにできない、自分を。
サリヴァンだから、ツェイルは幸せになれるのだと。
ツェイルの幸せは、メルエイラの名を背負っていては得られないと。
認めたくない。
信じたくない。
「おれは……っ」
ツェイルが好きだ。
きょうだいとしてではなく、ひとりの人間として、男として、ツェイルが好きだ。
サリヴァンの妻となり、子を育んでいる今のその姿を見ても、ツェイルが好きだ。
諦められない。
それくらい恋慕している自分を、トゥーラは自覚していた。
「認めろ、トゥーラ。じゃないと、前に進めない」
「認められるわけないだろ!」
こんなに、好きなのに。
こんなに、恋しくてならないのに。
こんなに、いとしくてならないのに。
別の少女にツェイルの面影を追ってしまうほど、どうしようもなく焦がれてしまっているのに。
「……今、ブラグフランの娘のことでも、考えた?」
「なっ……!」
くすりとツァインが笑った声を聞いたあと、ちらりと脳裏を過ぎったイルアリアの姿に、トゥーラ自身、愕然とした。
「ふふ……そう、なら、前に進めるだろうね」
「なんの…っ…ことだ」
「今はいいよ。ゆっくりでも。とにかく前に進んでくれたら、いいから」
ふふふ、と意味深な笑みをこぼしたツァインは、身体を預けていた壁を離れ、トゥーラに背を向けた。
「僕はフィジスをもう一抱きしてくるよ。ツェイルのことを考え出したら、止まらないからね」
「アインっ!」
「トゥーラは初心だねえ」
ははは、と笑って手のひらを振るツァインに、衝動的になにかものを投げつけたくなったトゥーラだが、生憎とそういう衝動を潜ませているきょうだいたちがいるために、簡単に持って投げられるものをメルエイラの邸は置いていない。
剣を投げつけてやろうかと思ったときには、もうそこにツァインの姿はなかった。
「くそ…っ…アインの奴!」
がんっ、と拳で壁を殴るも、今度は痛いだけだった。
意味深な笑みだけを残して立ち去ったツァインが、その理由らしきものをトゥーラに寄越したのは、それから数日後のことである。トゥーラは愕然としたのではなく、今すぐにでも逃げ出したいという情けない衝動に駆られ、それを見てしばらくはメルエイラの邸に帰らず、騎士団の宿舎に引き篭もる生活をした。