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02-03 森からの脱出

 **2-3:森からの脱出**


 朝早くに洞窟を出て、日が沈む前に目標の川に到着した。


 川幅は15m以上、場所によっては20mはある河川だ。河原で歩くと拳大の石がじゃらじゃらと足元で音を鳴らす。水面の波や色からして、水深は精々2,3mといった所か。


 時刻は1500時頃だろうか。日の傾きから、おそらく日没まであと3時間程。それまでに野営の準備を済ませなければいけなかった。


 なのに私は、川の上流に鹿を見つけてしまった。


 推定:鹿は、既にこちらに気付いているようだ。小さな子鹿を二体連れた成体の鹿が1頭、川の縁でこちらを見つめている。小鹿たちは川水を飲んでいた。片親でなければ、もう一体近くにいるかもしれない。


 野生の鹿は、その体高から想像できるより遥かに高く、素早く飛び跳ねる。それは本来必中である「矢の魔術」すら躱す場合もあり、注意が必要だった。


 私は数秒悩んだが、距離も離れていることだし、放っておいても危険は低いと判断した。


 もし襲ってきても「矢の魔術」を連続で数発も撃てば、いくら俊敏な鹿であっても躱しきれないだろう。


 森傍の農家なら恨みもあろうが、別に私は鹿に特別な感情を抱いていない。私は上流の鹿を無視することにした。


 背負った木製の背負子を下ろし、腹側に着けた鞄も外す。


 鞄に着けたナイフを腰につけなおす。


 ベルトに着けたナイフは木工・解体用で、刀身は約15㎝。丈夫ではあるが戦闘用のものではない。一応、槍は手元に置いておくとにする。


 手製の槍は研ぎなおしはしたが、所詮その刃は落とし穴の刃を荒石で擦っただけのものだ。質は良くない。使うのを躊躇う位に切れ味が悪いが、しかし突き刺す程度の事はできるだろう。


 背負子に積んできた食料はざっと20食分で、およそ7日分相当になる。その量は必要な日数というより、重量制限で決まった。木製の背負子自体が重いこともあり、体格の小さな今の私では、これが限界近かった。日がたつにつれ荷が減り、現地調達が不要であれば、徐々に楽になっていく計算だった。


 しばらくはこの近辺を中心に散策する。


 主に西方向を調査するが、最終的には川を下流へ進みたい。しかし時期的に、ここらで人の痕跡を見つけられなければ、洞窟へ戻って冬支度をすることになる。


 私は祈るような気持ちで天を仰ぎ見た。


 空高く、雲が激しく流れていたが、天候は良かった。


 河原の石を均し、かまどや寝床を整える。雨が降れば幕を張らなければならないが、ここいらの気候では雨はめったに降らない。夜間に少量の小雨が降る程度なら、毛皮にくるまって済ませてしまおう。


 薪は持ってこなかったのでその辺で集める。


 森で拾うまでもなく、河原にはあちこちに流木が転がっていた。


 川中で引っ掛かっていた物は濡れていて適さないが、陸に打ち上がったものはよく乾燥して火付きも良さそうだ。根ごと流れていたでかい流木を根性で引きずってきて、かまどの壁として使う。こうしておけば少しは熱の反射効率がいい。


 最近は魔術の行使にも慣れ、「着火の魔術」程度なら口笛程度の気軽さで行えるようになった。


 しかし中級魔術の行使にはまだ時間がかかりそうだった。荷運びの術が使えれば、こういった移動もかなり楽になるのだが。


 日のあるうちに行わなければならないのは、寝床の確保、火付けと薪の回収、荷の整理、そして水の補給だった。


 ブリキの鍋で川水を沸かせ、少し冷まして水筒に補充する。湯の入った水筒を肩や腹に充てると気持ちよかった。肩や首、ふくらはぎなどをマッサージしながら湯を沸かし続ける。


 上流の鹿がまだいて、川水を沸かす私を見つめていた。


 鹿の涎だったり便だったり、森の色々なものが混じり溶けている川の水は、はっきり言って汚い。


 出来れば地下で濾過された湧き水がいいのだが、無いものは仕方ない。鍋に汲む際に出来るだけゴミが入らないようにし、火力も強めに念入りに湯を沸かす。沸騰して数分は維持し、雑菌類を可能な限り死滅させることが今の私の使命だった。


 金属水筒(2本:1Ⅼ×2)と皮の水袋(1袋:2Ⅼ×1)が満たされると、次は晩飯の準備だ。肉と野草を料理する。


 あまり沸騰させると肉が固くなるので、まず一度湯を沸かし、その後に鍋を遠火に置いて肉と野草をじっくりと煮る。まあ、どうせ煮るのはがちがちに固くなった乾燥肉なので大した差はないのだが、強火を避ける事で鍋の痛みは減る。ブリキの鍋は軽量で携帯に優れるが、あまり丈夫ではない。


 今日は川へ遠征に来た特別な日、ということで、削った岩塩を少し多めに鍋に入れる。


 濃い塩味は、単純ではあるが素晴らしい効果を肉体にもたらす。


 それは必須栄養素の補充というだけではなく、味覚を通じて私に生命の幸福をもたらすのだ。


 小さな鍋は、若い肉体を満足させる量を一度に煮込めない。私は何度も煮込んでは食し、計3回の煮込みを食べつくした。鍋3杯でも足りはしないが、塩と脂の解けた湯を飲んで腹を満たした。最後は野草だけを煮て茶を作り、鍋と食器を茶ですすぎながら、これも全部飲んだ。


 夕暮れ間際、私は川べりに膝立ちになって、じっと川を眺めていた。


 私はあまり釣りの経験がないのだが、話によれば魚が良く釣れるのは朝夕の時間帯だという。


 川の透明度はあまり高くなく、それでもじっと目を凝らしていると、何やら魚らしきものが泳いでいる姿が見えた。


 狙いを定めて、私は「つぶて魔術マナ・バレット」を放った。


 魔術は水面を弾いたが、魚が浮いてくることはなかった。


「礫の魔術マナ・バレット」は、よく「石礫の魔術ストーン・バレット」と混同されがちだが、元素系ではなくマナ・バースト系統の最下級魔術になる。


 マナ・バースト系の魔術は「矢の魔術」が有名だが、「礫の魔術」はその下位互換になる。


 その名の通り、小石ほどの小さな魔術塊をそのまま打ち出すという単純な魔術で、消費魔力は「矢の魔術」の数割程度だが、威力はさらに低く、命中精度は術者に依存、つまり、術者の投石技術や射出技能がそのまま命中精度になる。「矢の魔術」すら使えない魔術初心者などは、魔力の礫を実際に振りかぶって投げつけたりもする。


 発動は早く、しかし魔力効率的にはあまりよくない。威力もないので使いどころの難しい魔術ではあるのだが、ちょっとした牽制や目つぶし等には有効で、まあ、小技の魔術だ。


 魚取りに「矢の魔術」を打つのは大げさかな、と思ったが、水面を叩く音の所為で魚の姿が皆隠れてしまった。


 矢であればもう少し静かに行えたかもしれず、礫であってももっと小さな魔力塊にしておけば、と後知恵で考えたが、後の祭りだった。


 私は気を取り直して、服を脱ぐと川で水浴びを始めた。


 水深は意外と深く、川の中心では嵩が私の頭ほどあった。


 正直、川での水浴びはとても冷たく、苦行だった。


 季節は晩秋。先まで火に当たっていた事と、食後で体温が上がっていることが鑑みても、あまりすべきではなかったかも知らない。消化には明らかに良くない。


 しかし新生してからこの何十日かの間、毎日泥の湯に浸かって身を清めていたこともあって、川へ飛び込む欲求が私の体を突き動かした。が、それは想像以上につらく、洗浄欲求は直ぐに消え去り、後は「せっかく飛び込んだのだから」という惰性と損失補填の想いが私を支配した。


 川淵の苔のせいで少し青臭い川水も、中程まで行けばさほど気にならなかった。


 頭まで浸かって髪と顔を洗い、脇や股などの全身をもみ擦ると、それだけで垢がごりごりと取れた。冷たさの中にも開放感があった。綺麗になっている、という実感がある。


 足の指は特に念入りに洗った。疲労回復と水虫防止のためだが、おそらく水虫にはならないだろう。ブーツは新品で、私は新生したばかりだ。菌が恐らくいない。それでも念入りに洗う事は損ではなかった。


 一度河原に戻ると、今度は全身に石鹸を塗りたくって、再度川に戻った。


 やはり冷たい。寒い。しかし汚れた石鹸泡とともに、こびりついた垢や余分な油分が全身から一掃され、私は再度新生した。


 身を清めるとは、つまり新生に他ならない。


 私たちは日々世俗に汚れ、それを清めるたびに毎度生まれ変わっているのだ。


 私は再誕の喜びに包まれながら、最後には寒さで震えつつ、焚火の前に引き返した。


 夜間の森は静かだった。


 川のせせらぎは常時聞こえるし、森の木々は川面を走る冷たい風に揺れてざわめいている。


 なのに静かだと感じるのは、秋の森はもっと虫が鳴くものだという意識があったからだ。


 実際には虫の音はさほどではなく、しかし静かとは言えないぐらいには聞こえている。


 これを静かと感じるのは、私の感性なのか、記憶の邪魔をする何者かの記憶なのか。


 考えに至るまで、私は周囲の音をまったく意識していなかった。


 音が聞こえてないわけではない。しかし無意識に、それらの音が当たり前と認識して、あたりは無音だと、ただ熾火の燃え、時折差し込む薪が割れながら燃えるぱちぱちという音だけが響いていると感じていた。


 夕方の、気温差が激しい時間には吹き荒れていた風も、夜半になると落ち着いて、ただ川とともに穏やかな、しかし冷たい風が河原を吹き晒していた。


 十数㎝程の毛長の毛皮にくるまりながら、私は想像以上の寒さに震えていた。


 焚火の傍を離れられない。腹をあぶれば背が、背をあぶれば前が寒かった。湯を飲んで温まった体が直ぐに冷える。背を火に向けて丸まり、前に背負子を置いて防風にして耐える。


 防寒をもっと考えておくべきだった。ストレッチも十分でない毛皮は硬く、微妙に生臭かった。


 寒さに震える長い夜が過ぎ、私は少し風邪気味だったが、たっぷりの茶と朝食を取った後、身を魔術で賦活して散策を開始した。


 脂肪が、カロリーが欲しかった。


 昨日は危険と手間を考え見逃したが、鹿を見たら狩ろう。


 肝臓と脳みそ、冬に備えて脂のたっぷり乗ったロースはさぞうまかろう。


 私は食欲の獣と化していた。


 川の向こうは森が薄くなり、一時間も進めば、そこには土ぼこりが舞っていた。


 荒野だった。岩肌を見せる荒れ地ではなく、草もなく、ただ土が風にさらされている、西部劇のような荒野。


 拭きっ晒しの荒れ地に、兎の姿がちらほらと見える。


 兎の生息数を考えると、普通はこうなるだろうというべき風景が、多少の凹凸を見せつつも地平線まで広がっていた。


 見晴らし的にも歩きやすさ的にも、荒野を進むべきかもしれない。


 私はキャンプ地を中心に散策する考えを改め、歩きやすい荒野側を移動することにした。


 川の下流方向へ、川と荒野をジグザグに行き来するように進んだ。


 鹿を狩るなら川を基準として進めたいが、河原は歩きにくい。荒野の方がまだ歩きやすく、視界も良好で人里を見つけるならずっとこちらを進むべきだが、結局は水が必要になる。


 荒野を歩き、川に戻る。森を横断するのがとても億劫だった。


 日中は兎と鳥しか目にせず、しかし「ぴゅーう、ぴょーう」という、高音の草笛のようなな鳴き声は聞こえていた。おそらくあれは鹿の鳴き声だ。「ほう、ほう」と鳴く鳩や、あとはよく分からない小鳥の声も聞こえていたが、体重が軽くて骨ばかりの小鳥など、私の食欲を満たすには足りなかった。


 昼には川縁で鹿と遭遇し、その瞬間、私は冷徹な狩人となった。


 河原の対岸、やや上流側に、子連れと思しき親子、つまり両親と子の3体の鹿を発見した。昨日の群れと恐らく同一の個体だ。私は素早く「矢の魔術」の3連射で3体を狙った。


 鹿たちは私より先にこちらに気付いていた。魔力の矢が飛んできて直ぐに逃げ出したが、追尾能を持つ魔力の矢は飛び跳ねる鹿に追従し、最も大きな個体の胸部を正確に打ち抜いた。


 残る二頭の内、一頭は矢をしっかりと確認し、直前まで引き付けてからの跳躍で矢を躱したが、ただ避けようと跳んだ小鹿は避けきれずに胴に矢を受けた。躱された矢は後方の木に当たって霧散した。


 小鹿は丁度胴の真ん中あたりで、胃の下、腸の上あたりの位置を貫かれていたが、痛々しくもそのまま跳ねて、上手く躱したもう一頭の鹿と共に逃げていった。


 半矢となってしまったが、追いかけるつもりはなかった。


 手負いの鹿を追跡し、きちんととどめを刺すべきというのは狩人のマナーかもしれない。


 しかし私の意思は仕留めた鹿を食うことに、強く激しく食指を伸ばしていた。


 太陽は中天を回り、日が沈むまで約6時間。余計なことをする時間はそうなかった。


 川はうねっており、地形はよくなかったが、今日はここをキャンプ地とすることにした。


 川はこちら側、荒野側を外に曲がっていたので、森側、小石の堆積した対岸でキャンプする事にする。どちらも岸は水面近く、取水に問題はなさそうだ。であれば風が弱そうな内側が良かろうという判断だ。


 森の縁ではまだ鹿の気配がしたが、背負子を担いでざぶざぶと川を渡り切る頃には姿を消していた。血の痕跡だけを残していた。


 私は荷を置くと、川上に登って仕留めた鹿の傍へ向かう。


 死んだ鹿の確認。重くて持てない。上手く担げない。80kgぐらいか、もっとあるかもしれなかった。鹿としては軽い部類だろうが、それでもやはり重かった。


 後ろ脚をもって川岸へ引きずっていき、死体を浮かべて一緒に川を下る。


 荷物のある辺りまで移動すると、そこの川岸で解体を始めた。


 解体の基本は野兎と同じだった。首を落として血を抜き、内臓を抜いて、手足を落として皮を脱がせ、枝にする。


 兎と違い、鹿の場合は同じ作業でも数倍の時間がかかった。単純に体がでかく、重いからだ。私よりは確実に重かった。


 ちょっと体をひっくり返すだけでも一苦労で、流れ出る血液も多かった。川は血で染まり、河原の一角は真っ赤になった。


 腸は捨てる。解体設備のない状況で、うまく内容物を処理できる方法を知らないからだ。


 のこぎりがないので、ブーツで踏んで全体重をかけて、ばきばきと背やあばらを割った。刃を入れて分割するが、裂けた骨が鋭利で怖い。刃を筋に沿わせたが、骨の折れ目に合わせて割ったので、肉塊が少々不揃いになった。全部自分で食べるのだから、見た目にこだわる必要もないだろう。


 割れたあばらの中から、胃や肺などを切り取って外す。外した肺や横隔膜をどうするか悩んだが、捨てるのは後でもいいと、とりあえず置いておいた。


 胃は割いて中を洗う。中から大きな甲虫の残骸や、緑の塊が出てきた。


 緑の塊は葉をすりつぶしたものだろうが、鹿って虫を食うのか、と少し疑問に思いながらも、鹿という同定が正しくない可能性もあり、気にしないことにした。


 解体の途中で火を起こし、ぶつ切りにして川で洗っただけの胃と肝臓を熱した石の上で焼く。


 石には内臓脂肪をたっぷりと塗り付けたが、念入りに焼いたので焼けた内臓が石にこびりついた。私はそれをこそげ採りながら口に運んだ。


 塩も振らずに焼いただけの肝臓が、ただおいしかった。


 兎とは違う、豊富な脂肪分が、これこそが栄養であると、生命の源であると訴えていた。


 一口、二口と食べるだけで、もう十何日に渡って疲労と痛みを訴え続けていた体が回復していくのを感じる。栄養失調で狭まっていた視界が色を取り戻していく。


 肝臓だけで2kg近くあったが、胃と肝臓を全て食べてもまだ食べたりなかった。


 中途半端に折れたあばら肉を数本と、背と肩の肉を雑に切り取った塊を何個か焼いて食べ、わたしはようやく満足した。


 ごつごつした河原に横たわって、森を見る。


 視界の縁に映る緑が鮮やかで、兎に食い荒らされた森の最下層にも、寝そべった視点で見れば、まだまだ草木が生い茂っていた。


 少し考えて、それはそうだと思った。まったく下生えがなければ森は生態系を維持できないし、無いわけがないのだ。


 わたしは起き上がると、目玉のくり抜かれた鹿の頭に合掌し、残りの肉の解体に取り掛かった。


 その日の夜も寒かったが、不足していた栄養を十分に取り、石も三方に組んで焚火の熱をよく貯めこむようにしたので、河原の夜風は相変わらずひどく冷たかったものの、私の体温は高く、継ぎ接ぎの毛皮の中で温かく眠ることが出来た。


 夜間にぐっすり寝てしまったせいで、翌朝、焚火は消えかけていた。


 焚火周りの石はまだ熱をもっていたが、風は吹き荒れるように強く、全体的に気温が低かった。温かい石を懐に当てても、あっという間に熱が逃げていった。焚火に薪を足し、余った魔力で熱をガンガン加える。薪は水蒸気交じりの煙を噴き出して、風にあおられた私は顔を煤だらけにした。


 私は涙目になって河原へ移動した。川面は低く、直で顔を洗うには姿勢がつらい。たらいを片手に川水を汲んで、濡らした片手で顔をなでるように洗った。


 不揃いな玉石だらけで歩きにくい河原を、鹿肉の元へ移動する。


 木組みに吊られた鹿の肢は生臭く、近づけば血の匂いが酷かった。昨日、川でよく洗ってから吊るしたが、肉の真下にはゲル状になった血の塊が下り物の様に溜まっていた。


 血の筋が残る鹿のモモ肉を、野球のバットの様に振り回して血を飛ばしていると、血の匂いの他に、強烈な獣臭が漂ってきた。


 鹿とは死んでもこんなに臭かったか、と疑問に思いながらモモ肉を担いだ。今日の朝食はこれを削いで食おうと、焚火へ向かい、寝床の傍に置いた荷物から背負い鞄のベルトに括ったナイフを探した。


 さて、肉を削ろうとナイフ片手に焚火前に陣取ろうとし、振り返った視界に、何やら妙なものが見えた。


 川上の向こうに、大きな黒い塊が見える。


 周囲の木々や岩よりでかく見えるから、縮尺がおかしくないのであれば、10m近い塊だ。丸というよりは、やや縦長の、どんぐりを立てたような形状だった。


 目を凝らしてもよく分からない。流石に異様に思って「遠見の魔術」を使おうとしたが、術行使の直前、塊の形が更に巨大な姿へと姿を変えた。


 それは熊だった。


 普通の熊ではなかった。体高が15m近く、大きさが2階建ての一軒家に比肩するような大きさの熊だ。


 ぬう、と立ちあがった姿には、まるで現実感がない。


 熊はこちらを向いて、高い位置からしばらく私を見つめていたが、そのまま無言で4つ足に戻ると、重力を無視した巨体らしからぬ軽快な動きで、河原をじゃりじゃりと駆けだし始めた。


 拳大から頭蓋骨に近い大きさの岩まで、熊の走りに合わせてがりがりと割れ、またははじけ飛んでいた。先ほどから感じていた、鹿にしては妙だと思っていた強烈な獣臭が、空気中に溶け出した脂の様に、ねっとりと此方へ漂ってきていた。


 私は掴んでいた肉を放り出しすと、熊と逆方向に全力で駆けだした。


 口の空いた背負い鞄を途中で拾う。中身の何かが少し零れた。ナイフを持ったままの手でブーツをひっつかみ、私はサンダル履きで河原の石を蹴飛ばしつつ、森の中へ飛び込んで、そのまま恐怖のままに駆け続けた。


 森に入っても私は駆け続け、付近を大きく回って、下流側の数百m先に出ると、森の縁から上流の様子を眺めた。


 縮尺のおかしな熊が、残された私の荷を壊し、叩いてバラバラにしては踏みつぶしている。


 遠見で、砕けた背負子が見えた。蹴られたかまどに、踏み潰れた鍋、折れた槍に破かれた毛皮など、熊は単に鹿肉狙いではないのか、恨みでもあるかのように、私が残したものを徹底的に破壊しようとしていた。


 私は熊に恐怖していたが、それに勝る怒りと、憎しみが体を突き動かした。


 サンダルを履いた足の爪が割れ、擦り切れた足先は真っ赤になっていた。泥や砂も付着して傷から砂が入り込み、痛いどころの話ではない。歯を食いしばりながら、鞄から水筒を出して足を洗う。感染症予防の為に貴重な薬を飲み、消毒し、軟膏を塗って布を裂いて巻く。ブーツに履き替えても、指が動くだけで痛みが走る。一度脱いで、更に布を巻いて履きなおす。靴内で足が動かないようにした。痛み止めも飲む。痛みを早く消すように、蜜で固めた錠剤を歯で噛み砕いて、舌先で歯茎に塗り込んだ。


 激しく煮えたぎる怒りが、傷を手当てする内に次第に穏やかになっていく。


 しかし憎しみは消えない。熾火のような静かな恨みが、私の体をじわじわと燃え上がらせた。


 血塗れの手を触媒に、魔力をよく練り、詠唱と身振りを交えて周囲に干渉し、バレル・レールを形成する。基本術式は「矢の魔術」だったが、数分の時間をかけて祈り、詠唱し、今の私の限界まで練り上げた魔力の矢は、槍の様に長く、巨大で、鋭かった。


 森から河原側へ出て、数歩の助走をつけて投げつけた高密度の魔力の槍は、外付けの術による多段階の加速と軌道修正を受け、熊に当たる直前には音速に近い速度に達していた。


 投げつけられた魔力の槍に、熊は途中で気付いていた。


 しかし気付いても、その巨体ではよけられまい。たとえ体格が人サイズでも、常に軌道修正しながら急所を狙って飛んでくる音速の飛翔体など、そうそう避けられるものではない。魔術の矢とは、元々そういった基準で性能調整されているからこそ、必中と広く謳われているのだ。


 槍が熊に当たろうかという瞬間まで、私は熊を注意深く見ていた。


 熊はその腕を振りかぶると、その前腕で槍を払いのけた。着弾時には強烈な破裂音が響き、森に木霊した。


 熊の腕に裂傷が走り、血が零れている。しかしその傷は、見るからに軽微だ。


 無理だな、と私は理解した。


 しかし私は執念深いので、潰された鍋の恨みをいつの日か晴らそうと、後の復讐を心に誓った。


 逃げる最後にもう一発、槍を食らわせるために再び魔力の集約を始めると、熊はこちらへ駆け出してきた。


 熊は悪い足場をものともせず、信じられないぐらい高速で移動していたが、あらかじめ数百mの距離を開けているのだ。先の威力とまではいかないが、適度な威力の槍を頭にでも食らわせて、その後逃げ出せば十分間に合う。


 私の暗い笑みに怒ったのか、熊はぐおぐおと叫び、数歩進む度に腕を振り回して威嚇してくる。


 所詮は畜生だと思ったが、迫りくる速度が更に加速しつつあり、流石にちょっとやばいとも感じたので、私は術を止めて森の奥に逃げ込んだ。


 あの巨体では、木々の密集する中には来られない。私は奥へ逃げた。


 熊は振り回す両手から、魔力の気配を放ち始めていた。


 森の縁に到達した熊の周囲では、木々が熊の腕に合わせて引き裂かれていた。自前の爪の長さではどう見ても足りない斬撃。


 所謂「クロウ・スラッシュ」などと呼ばれる、魔力の爪による攻撃術だった。


 自らの意思で魔術を行使する、高い知能を持った上級個体。


 つまり、あの熊は魔獣だ。


 魔獣とは、肉体の構成と生命維持に魔力が組み込まれた生命体を指す。


 生命維持と肉体強化は、魔力の利用方法としては比較的メジャで、一時的な身体強化術などと原理としては同系統に当たる。


 階位の低い魔術師の中には、術は編めないが身体強化はできる、という者が結構いて、魔術師は魔との親和性から一般的に骨肉が薄くなる傾向があるのだが、これにより貧弱とは真逆の持ったりするからややこしい。


 これは野生動物などにも例がみられ、更に常習化して生命としての性質が変わったものを「魔獣化した」と一般には呼んでいるようだ。これは用語としては俗語に近く、あまり学問的な定義ではない。


 大抵の場合、その体内には特殊な骨肉が形成され、そのあたりの変化形成具合が、魔獣かそうでないかの実際的な判断基準になる。そういった部位は魔術の収束素材として使われることもあり、実際的とは、つまりそういうことだ。


 いろいろと定義はあるのだが、要は常時魔力を消費して己を強化する化け物、と考えて差し支えないだろう。


 森の縁で暴れる熊は、奥へ入ってくる様子がない。自分の有利不利を、ある程度は理解しているようだ。


 愚かな熊など放っておいて、私は今後の事を考えた。


 槍も、鍋も、毛皮も破壊された。


 私は身に着けた衣服と鞄の他、全てを熊に奪われた。


 食料の多くが無くなった。


 兎の燻製は背負子に乗せていたから、全部失った。


 どうにか持ち出せた鞄を確認すると、例の非常箱に入っていた保存食の他、僅かなドライフルーツが残っていた。水筒も1Ⅼのものを2つ失い、2Ⅼの革袋が1つ残っているだけだ。その中身も、足を洗浄するのに殆ど使ってしまった。


 当初の拠点に戻るのは良い手ではない。


 洞窟のあるあたりは木々が密集しておらず、あの熊の巨体でも入ってくることが出来るだろう。


 熊が徘徊していると知ったあの森で、今まで通り食料集めをするのは無理だ。今まで出会わなかったのは徘徊コースを外れていたからか、それともただの幸運だったのか。


 戻ったとしても、水筒や鍋が復活する訳でもない。あの熊を倒したとて、恨みは晴れても、私の未来が開けるわけではなかった。


 下流へ進む。


 私が未来へ進むには、このまま彷徨い続けて、どうにか人里にたどり着くのがベストだと考えた。


 幸い、川に水はあり、森は端で、荒野側には視界が取れる。


 薬が効いて足の痛みは和らいでいるが、傷が治ったわけではない。むしろ怒りが収まるにつれ、痛みを思い出す方が大きかった。


 歩くたびにつま先が痛む。痛まないように踵で歩くと、変な歩き方なので直ぐに内腿が痛くなった。


 熊から遠ざかった所で再び川へ戻り、水を沸かして水筒に貯める。


 今日は森の中で寝る。


 背負子を失い、毛皮も失い、水も半分になって食料も残りわずか。荷は軽いが、酷く心もとなかった。


「森歩きの魔術」も、ここではもう使えなかった。住処からの距離が離れすぎており、使用条件を満たせなくなったからだ。荒野に接した森の縁であることも不利な条件だ。これが熟練者であれば、縁だろうとどこだろうと、森に接していればどこでも「森歩きの魔術」を使えるらしいのだが、私の神官としての階位はそう高くない。「森歩きの魔術」は、古代神群に属する貸与の術なのだ。


 虫よけに傷軟膏を薪に塗り、炙る。独自調合のワセリンに含ませたメントール臭が虫除けになる筈で、多少は効果があるかもと考えたが、結果から見ると気休め程度だった。


 荷に括りつけていた毛布を広げる。暖かだった毛皮に比べ、携帯用の非常用毛布は軽く、薄かった。寝そべるには面積がぎりぎりで、そうすると薄い毛布では寒くて休めなかった。焚火傍に座った状態で毛布に包まる。


 背中が寒い。薪を十分に集めきれなかったせいで、焚火の火も小さい。こまめに向きを変えて、どうにか身を冷やさないようにする。寒さと興奮後の余波で眠れない。


 座った状態では体が休まらない。どう状態を工夫しようとも、身を冷やして風邪をひきそうだ。


 目を閉じ、瞑想して夜を過ごす。


 翌日。


 身はがちがちで、血の巡りが悪い。おかげで寒い。足の治りも遅い。薬を塗りなおし、包帯を巻いて痛み止めを飲む。痛みに耐えて体操し、体調を整えて魔術で賦活する。


 荒野にも兎がいたが、無視した。森側で鹿も見かけたが、日中は無視した。昼過ぎに森で見かけた兎を仕留め、川で捌いた。腿肉を皮付きのまま二本だけ取って、後は川に捨てた。まだ日は高かったが、休みたかった。推定1500時頃には森の中に腰を据え、休む準備を済ませた。


 怒りと寒さ、虫がストレスになり、昨日はあまり休めなかった。今日は薪を多く集めて、焚火:熱源を複数作る事にする。余計な手間だが仕方ない。

 虫対策に、寝床と定めた周囲の草場を時間をかけて魔術で熱し、草を枯らして乾燥させた。魔力効率が悪く、こんな使い方は自分でも頭悪いと思ったが、熊への激しい怒りが、私の心をひどく傷付けていた。アンガーコントロールとして魔力を噴き出し、丁寧に地を撫でては、枯らした草を踏みつぶしていった。


 焼き枯れた草の中に落ちている虫の死骸が、香ばしい匂いを放っていた。エビのように真っ赤に焼けたバッタが落ちていて、食べるか悩んだ。足だけもいで捨て、残りは食べずに布に包んだ。


 兎の腿を皮ごと炙って食べる。毛が燃える臭いが不快で、一度風下に移動して、そこで焼いてから戻った。


 焼いた表面は毛の炭で真っ黒だったが、木の幹に打ち当てて炭を落とした。焼いた皮は炭の味がしたが、ぱりぱりとして意外とうまかった。


 しかし旨いのは皮のあたりだけで、血抜きの十分でない腿肉は不味かった。塩と、強い香辛料が欲しかった。吐き気を堪えながら食べたが、全部は食べきれず、どうにか腹を満たした後は捨てた。


 洞窟の周囲に打った魔力ピンから三角測量して、ここは洞窟から直線距離で約110㎞、南西方角あたりだと判断した。


 このあたりで川は南東に曲がり、広がる森の中へ戻って入って行ってしまう。


 一応、南にも川が伸びていたが、こちらは細かった。地面の割れ目のような隙間に、2mもない幅の、天然の側溝のような川が南、途中で南西に曲がりながら伸びていた。側溝の周囲にだけ緑が濃いので、遠見をしなくとも広く荒野を眺めれば川の流れが一目でわかった。


 私は南の川沿いに進んだ。



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