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第9話 鴉、牙を研ぐ(864年)

 第九話:


 雲一つない夏の空の下、博多はかたの岸辺に人が集まっていた。舟が一艘、港に入ってきたのである。


「あれが噂の渡来人か」


「また増えてきおったな」


 人々の囁きが立ち込める中、菅原道真すがわらのみちざねは密かに舟を見つめていた。縁から下がった布には独特の模様が施されている。新羅の舟だ。


からすの衆が動き始めました」


 背後から声がして、道真は振り返った。さかきが立っていた。彼の表情は緊張に引き締まっている。


「今回は何名?」


「全員揃います。合わせて十二名です」


 道真は頷いた。ついに鴉の全メンバーが博多に集結するのだ。彼がこの筑紫の地に来てから既に三ヶ月以上が過ぎていた。時が来たのだろう。


「それだけ多くの人数が必要な理由は?」


「わかりません。ただ——」


 榊は躊躇いがちに言葉を継いだ。


「今夜、追捕使ついぶしと合同で作戦を行うとのことです」


「追捕使と?」


 道真は驚いた。八咫烏やたがらす——鴉は朝廷の秘密組織である。一方、追捕使は正規の警察組織だ。二つの組織が合同で作戦を行うとは、よほどのことがあるに違いない。


「事態が動き出したようだ」


 道真がそう呟いたとき、港から騒がしい声が聞こえてきた。新羅の舟から何かが下ろされていた。大きな木箱だ。


「あれは...」


「武器だ」


 榊の声が低くなった。


「我々が探していたものです」


 ***


 日が暮れ始めた頃、道真は葦切あしきりに導かれて港から離れた山の中の小屋へとやってきた。小屋の中では既に数人の男女が集まっていた。皆、質素な衣を身にまとい、特徴のない姿をしている。だが、その目には鋭い光があった。


「諸君、これが菅原道真殿だ」


 葦切が道真を紹介すると、全員が静かに頭を下げた。年齢はさまざまで、若い者から老いた者まで揃っている。だが、全員に共通しているのは、その身のこなしの軽さだった。


「まずは、これまでの状況を確認したい」


 鴉の構成員の一人、鷹見たかみと呼ばれる中年の男が前に進み出た。彼は手に持った巻物を広げた。


「筑紫一帯に、新羅と唐からの渡来人が増加している。彼らは主に三つの組織に分かれて活動している」


 鷹見は巻物を指し示した。そこには地図が描かれていた。


「まず、鶏林社けいりんしゃ。新羅系の商人を中心とした集団。表向きは交易組織だが、実際は新羅の密偵と連絡を取り、本朝の情報を収集している」


 道真は頷いた。自分が潜入した奥津嶋の集会を思い出す。


「次に華胥道かしょどう李楚りそ蕭湛しょうたんが率いる唐系の組織。詩文を通じて思想的浸透を図っている」


 これも道真にはよく分かっていた。


「最後に、緑林りょくりん。海の民を束ねる組織。渡来系と本朝人の混合組織だ。武器の密輸と人員の潜入を支援している」


「それらの組織が連携しているのか?」


 道真が尋ねた。


「正確に言えば一部の指導者同士が繋がっている」


 葦切が答えた。


「李楚は鶏林社の集会に参加していた。同様に緑林の頭領も鶏林社と接触している痕跡がある」


「目的は?」


「本朝の西方に足がかりを作ることだ」


 葦切の声は厳かに響いた。


「新羅は、百済、高句麗を滅ぼして朝鮮半島を統一した。次は筑紫を狙っていると見られる」


 道真は息を呑んだ。これは単なる諜報活動ではなく、侵攻の準備なのか。


「本当に武力侵攻を...?」


「その可能性もある」


 葦切が静かに言った。


「だが、より高い可能性は『影の支配』だ。地方豪族や地方官を取り込み、実質的な支配権を握ろうとしている」


「そんな...」


 道真は信じがたい思いだった。だが、これまでに見聞きしたものを総合すると、確かにそういう動きが感じられる。


「今夜、我々は追捕使と協力して、彼らの拠点を一斉に捜索する」


 葦切が言った。


「特に緑林の隠し倉庫に狙いを定めている。武器と文書を押収するのだ」


「私にはどのような役割が?」


 道真が尋ねた。


 一瞬の沈黙が流れた。


「道真様には、協力者として、そして目撃者として同行していただきたい」


 葦切は慎重に言葉を選んだ。


「あなたは将来、朝廷で重きをなすお方。この事態の真相を知る者が朝廷内にいることが重要なのです」


 道真は理解した。これは彼の試験でもあり、彼の将来への投資でもあるのだ。


「承知した」


 その言葉に、室内の緊張が少し和らいだ。


 ***


 夜が更けていく。道真は鴉の一団と共に、博多の港近くまで移動した。


「ここで待機してください」


 葦切が言った。


「我々と追捕使が合図をしたら、それから動いてください」


 道真は頷いた。彼の傍らには榊が付き添っていた。


「緊張しますか?」


 榊が囁いた。


「ああ」


 道真は正直に答えた。


「ただの学生だった自分が、こんな場所にいるとは思いもしなかった」


「道真様は優秀な学生です。だからこそ、この任務に選ばれたのです」


「父上は知っているのだろうか...私がこのような活動に関わっていることを」


 榊は微笑んだ。


「ご尊父様、菅原是善すがわらのこれよし殿は...かつて同様の役割を担われていました」


「父が?」


 道真は驚いて榊を見た。


「詳しくは申し上げられませんが、菅原家は代々、学問だけでなく、本朝の守護という役割も担ってこられたのです」


 道真は黙って考え込んだ。父からは聞いたことがない話だった。だが、父の行動や言葉の中に、時折見せる鋭さや警戒心は、単なる学者のものとは思えなかった。


「そろそろです」


 榊が小声で言った。


 辺りを見回すと、黒い影が港に向かって動いているのが見えた。追捕使の一団だ。彼らは音もなく進んでいく。


「さあ、我々も」


 榊に導かれるまま、道真は暗がりを進んだ。港に着くと、追捕使たちが既に緑林の倉庫を包囲していた。


「始まりました」


 倉庫の方から騒がしい声が聞こえてきた。追捕使が突入したのだ。続いて怒声や叫び声が聞こえる。


 道真は息を潜めた。闇の中から、葦切が彼らの前に現れた。


「こちらへ」


 葦切は二人を倉庫の側面へと導いた。そこには小さな扉があった。


「中へ」


 三人は倉庫内に入った。中では既に追捕使が数人の男たちを取り押さえていた。床には箱が散乱している。箱の中には刀剣や弓が収められていた。


「これが証拠だ」


 葦切が静かに言った。


 道真はじっと武器を見つめた。確かにこれは一般の交易品ではない。ただの商人が、これほどの武器を集めることはあり得ない。


「こちらも」


 追捕使の長が手を振った。彼は床板を剥がし、その下から文書の束を取り出していた。


「何が書かれている?」


 道真が尋ねた。


 追捕使の長が文書に目を通し、顔色を変えた。


「これは...」


 葦切が文書を受け取り、読み始めた。その表情が徐々に厳しくなっていく。


「何が?」


「地方の豪族の名が列記されている」


 葦切が静かに答えた。


「恐らく、既に彼らと接触し、協力を取り付けた者たちのリストだろう」


 道真は息を呑んだ。


「これは...反逆罪に当たるのでは?」


「その通り」


 追捕使の長が厳しい表情で言った。


「だが、この文書だけでは証拠として不十分だ。彼らが実際に何をしたかを確認する必要がある」


 急に、外から騒がしい声が聞こえてきた。


「何だ?」


 追捕使の一人が走り寄ってきた。


「長官!港の方で戦闘が始まりました。緑林の主力が応戦しています!」


「行くぞ!」


 長官が叫び、追捕使たちは倉庫から飛び出していった。葦切も道真と榊を促した。


「我々も移動します。ここは危険です」


 三人は倉庫を出て、暗がりの中を港へと向かった。そこでは激しい戦いが繰り広げられていた。


 十数人の追捕使が、同じくらいの数の緑林の構成員と刃を交えている。緑林側は明らかに訓練された戦士だった。彼らの動きは素早く、追捕使を圧倒していた。


「これは...」


 道真は愕然とした。


「予想以上の抵抗です」葦切の声が緊張に満ちていた。「彼らはただの密輸団ではない。軍事訓練を受けた者たちだ」


「我々はどうすれば?」


「あの建物へ」


 葦切は港に面した倉庫を指さした。「あそこなら安全です」


 三人は激戦を避けて建物へと向かった。だが、その途中、緑林の一人が彼らに気づいた。


「おい!あそこだ!」


 男は仲間二人を連れて、道真たちの方へと走ってきた。


「逃げろ!」


 葦切が叫んだ。


 道真と榊は急いで倉庫へと駆け込んだ。葦切は後ろから追ってくる男たちを迎え撃とうとしていた。


「葦切殿!」


 道真は振り返ったが、葦切は既に男たちと交戦していた。彼は短刀を手に、三人の男たちと渡り合っていた。


「こちらへ!」


 榊が道真の腕を引っ張った。二人は倉庫の奥へと駆け込んだ。


「葦切殿を見捨てるのか?」


「彼なら大丈夫です」


 榊の声には自信があった。


「我々は道真様の安全を確保するのが最優先です」


 倉庫の奥には狭い階段があった。二人はそれを上って二階へと登った。


「ここなら...」


 榊の言葉が途切れた。階段の先には既に一人の男が立っていた。


「待っていたぞ」


 男は冷ややかな笑みを浮かべた。筋骨隆々とした体つきで、腰には刀を差している。


「緑林の...」


「間違いない」


 榊が低く唸った。


「下がっていてください、道真様」


「いや、榊...」


 だが、榊は既に男に向かって飛びかかっていた。彼は短刀を抜き、男の胸を狙った。男は軽く身をかわし、榊の腕を掴んだ。


「甘い!」


 男は榊を壁に叩きつけた。榊は呻き声を上げながらも、すぐに立ち上がった。


「道真様、逃げてください!」


 道真は逃げるべきか、それとも榊を助けるべきか迷った。その時、男は刀を抜いた。


「その若造も、お前も、今日ここで終わりだ」


 男は刀を振りかざして榊に襲いかかった。榊は必死で身をかわしたが、男の太刀筋は鋭く、榊の肩を切り裂いた。


「くっ...」


 榊が膝をつく。男は勝ち誇ったように笑った。


「次はお前だ」


 男が道真を見た。その目には殺意が満ちていた。


 道真は咄嗟に懐から小さな筒を取り出した。出発前に葦切から渡されたものだ。筒の中には粉が入っている。


「それが何だというんだ?」


 男が嘲笑うように言った時、道真は筒の中身を男の顔めがけて吹き付けた。


「ぐわっ!」


 男は目を押さえて悶絶した。灰汁を含んだ粉だった。男が苦しむ間に、道真は榊の元へ駆け寄った。


「大丈夫か?」


「こんな傷、なんでもありません...」


 だが、榊の肩からは血が滴り落ちていた。


「見ろ、あいつが...」


 男は依然として目を押さえたまま、よろめいていた。だが、彼の手には依然として刀が握られている。


「逃げるぞ」


 道真は榊を支えて立ち上がった。二人は男を避けて階段へと向かった。


「待て!」


 男が叫んだ。彼は目を押さえたまま、盲目的に刀を振り回した。


 二人が階段を下りようとしたその時、上から足音が聞こえてきた。葦切だった。


「道真様!榊!」


 葦切は状況を一目で把握すると、男に向かって飛びかかった。両者の間で短い闘いが繰り広げられ、やがて男は床に倒れ込んだ。


「無事か?」


「ええ」


 道真は答えた。


「だが、榊が怪我を...」


 葦切は榊の肩を見て、眉をひそめた。


「応急処置をしよう」


 葦切は懐から布を取り出し、榊の肩を縛った。


「外の様子は?」


 道真が尋ねた。


「追捕使側が優勢になりつつある」


 葦切が答えた。


「他の鴉の者たちも合流して、緑林を追い詰めている」


「良かった...」


 道真はほっと息をついた。この戦いはいずれ終わる。だが、本当の戦いはこれからだろう。外国勢力の浸透を食い止め、本朝を守る戦い。道真は自分がその一端を担っていることを実感した。


 ***


 夜が明けた。博多の港には追捕使が多数配置され、緑林の残党を取り締まっていた。道真は港を見下ろす丘の上に立っていた。


「緑林は壊滅したのか?」


 葦切が後ろから近づいてきて答えた。


「いいえ、一部は逃亡しました。だが、首謀者は捕らえられています」


「鶏林社と華胥道は?」


「蕭湛は既に博多を離れた模様です。李楚も姿を消しました」


 道真は遠くの海を見つめた。彼らは逃げたのではなく、一旦引いただけだろう。


「我々の戦いは終わっていない」


 葦切が静かに告げた。


「彼らは別の形で戻ってくるでしょう」


「私にも何かできることはあるか?」


「道真様は都へお戻りください」


 葦切は言った。


「そして学問を続けてください。いずれ朝廷で、本朝のために力を発揮する時が来ます」


 道真は黙って頷いた。この筑紫での経験は、彼の人生を変えるものだった。彼はもはやただの学生ではない。本朝の未来を守る役割を担う者となったのだ。


「帰京の準備をしてください」


 葦切が告げた。


「明日の朝一番の船で」


「榊の怪我は?」


「大事には至りませんでした。すでに手当てを受けています」


 道真は安堵の息をついた。そして、改めて朝日に照らされた博多の街を見渡した。静かな朝の風景だが、その下では様々な思惑が交錯している。


「榊が言っていた。父も同じような役割を担っていたと」


 葦切はしばらく黙っていたが、やがて静かに答えた。


「はい。菅原家は代々、本朝の守護者です。特に是善殿は、天皇家の密命を幾度も遂行されました」


「なぜ私に話してくれなかったのだろう」


「おそらく...時期が来るまで待っておられたのでしょう」


 葦切は空を見上げた。


「そして、その時が来たのです」


 道真は自分の両手を見つめた。これまでは筆を持つ手だった。学問のための手だった。だが今、その手は本朝を守るための手にもなったのだ。


「我々鴉は闇に生きる者たち」


 葦切が言った。


「だが、私たちの使命は光をもたらすこと。本朝の明日のために」


 道真は頷いた。彼もまた、その一員となったのだ。


 夏の朝、海からの風が二人の髪を揺らしていた。

【語り:八咫烏?】

「貞観六年の日本と唐の関係は、大きな変化の時期やったんや。安史の乱から百年経過したこの時期、唐は表面上は安定しとったものの、藩鎮の専横や宦官の権力闘争が激化し、中央政府は弱体化の一途を辿っとった。この頃、新羅は朝鮮半島を統一して勢力を拡大し、筑紫への影響力も強めようとしとった。この物語で描かれるような密輸や諜報活動の詳細は史料に残ってへんが、当時の筑紫は実際に多くの渡来人が往来し、文化・政治・経済の交流が活発な場所やった。文章生時代の道真について詳しい記録は少ないが、のちに遣唐使廃止の建議などを行うことになる道真の国際的な視野は、このような若き日の経験から培われた可能性はあるんやな。また、菅原家は代々学者の家系として知られていたが、同時に朝廷の中枢で重要な役割を果たしてきた。道真の父・是善も文章博士として活躍し、当時の国際情勢に深い見識を持っとったことは間違いないやろう」

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