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第8話 密語の海(864年)

 第八話:


 博多はかたの夏は湿気が多く、髪も着衣も常に湿り気を帯びていた。菅原道真すがわらのみちざねは木陰のひとつもない桟橋に佇み、たなびく入道雲を見上げていた。彼がこの筑紫の地に来てから既に三ヶ月が過ぎていた。


「そろそろ帰京の支度をした方がよろしいかと」


 振り返ると、几帳きちょう面の若い男が立っていた。八咫烏やたがらす——からすの新参者である「さかき」だった。


「まだだ」

 道真は首を振った。


華胥道かしょどうの真の目的がつかめぬうちは」


「しかし——」


蕭湛しょうたん李楚りそ、あの二人の話にはまだ核心がない」


 榊は黙って頷いた。三日前、追捕使ついぶしの急襲で散り散りとなった詩会の後、道真と華胥道の接触は続いていた。表向きは唐の詩文を学ぶ会合。しかし、その内実は文を通じた思想の浸透だった。


「昨夜、鶺鴒せきれい殿から連絡が」


 榊が低い声で言った。


鶏林社けいりんしゃの会合が本日あるとの情報です」


「どこで?」


「奥津嶋という場所。博多湾の小島です」


 道真は桟橋の先に広がる海を眺めた。博多湾には大小様々な島が浮かんでいた。その一つが、彼らの言う奥津嶋なのだろう。


「あの鶏林社も——私を誘おうとしている」


「何故、道真様が?」


「恐らく、自分たちの側につけようとしているのだろう。本朝の学者を味方につければ、朝廷への影響力も——」


「危険です」


 榊の声には苛立ちが滲んでいた。


「あの連中は商人や地方豪族も取り込み、教団のような組織になりつつあります。彼らが新羅の密使と接触しているとの情報もあります」


 道真は静かに頷いた。近年、新羅からの渡来が急増していた。商人や僧侶を装って入国し、何かを企んでいるとの噂は以前から聞いていた。


「行こう」


 道真が決然と言った。


「彼らの会合に」


「しかし!」


「君は鴉の構成員ではないのか?情報を得るのが使命だろう」


 榊は渋々と頷いた。


 ***


 その夜、道真と榊は舟を借り、奥津嶋を目指した。月明かりさえない闇夜で、ほんのりと灯る島の明かりだけが頼りだった。


「あの灯りを見て」


 榊が暗闇の中で囁く。


「奥津嶋の岸辺に何かが見える」


 道真は目を凝らした。確かに岸辺には舟が十艘ほど並んでいた。本朝の舟ばかりではない。唐風の形をした船もあれば、朝鮮半島特有の形状の舟も見える。


「彼らの集会はいつ始まる?」


「深夜のこくです。あと少しで」


 二人はそっと島に上陸し、低木の茂みに身を隠した。島の中央部には小さな堂があり、そこから灯りと人の声が聞こえてきた。


「入り口に番人が」


 榊の声に従い、道真は堂の前を見た。確かに二人の男が立っている。海賊のような荒々しい服装だ。


「あれは——」


「海の民です」


 榊が低い声で言った。


「筑紫の沿岸で活動する、半ば無法の船乗りたち」


 堂の中からは低い声で何かを唱える音が聞こえてきた。


「集会が始まったようです」


 榊が言った。


「どうします?」


 道真は考えた。堂の周囲から全景を見下ろせる小高い場所はないだろうか。そうすれば中の様子が——


「ここは一度退くべきだ」


 道真が告げた。


「無理に接近すれば察知され——」


 その時だった。


「そこの誰だ!」


 低い声が闇の中から響いた。道真と榊は身を固くした。声は真後ろから聞こえてくる。誰かが彼らを背後から追跡していたのだ。


「逃げるぞ」


 榊が道真の腕を引いて茂みの中へと走り出した。背後からは足音が追ってくる。


「しっ!」


 榊は道真の手を取り、大きな岩陰に隠れた。追っ手は通り過ぎていく。やがて足音は遠ざかった。


「危なかった」


 榊が息を吐く。


「彼らは誰だ?」


「恐らく鶏林社の斥候です。島の周囲を巡回しているのでしょう」


 道真は考え込んだ。ここは素直に退くべきだ。だが、せっかくここまで来て何の情報も得られないのは惜しい。


「堂へ向かう道を探ろう」


 榊は驚いたように道真を見た。


「まだ接近する気ですか?」


「今日がきっかけだ」


 道真は決意を込めて言った。


「この機会を逃せば——」


 その時、静寂を破るように低いドラの音が響いた。


「集会が始まったようだ」


 二人は岩陰から出て、音のする方へと用心深く進んだ。堂は森を抜けた小さな丘の上に建っていた。丘を登りきる前に、またも人影を感じて二人は草むらに身を伏せた。


 丘の上にある堂からは歌うような節回しの声が聞こえてくる。それは本朝の言葉でも唐の言葉でもない、独特のリズムを持ったうたいだった。


「新羅の言葉だ」


 榊が囁いた。


「何を言っている?」


「解らない。だが——」


「見ろ、あれを」


 道真は堂の入り口を指さした。そこには黒い衣を纏った人物が現れ、両手を掲げて何か叫んでいた。その姿は祈るような、命令するような不思議な印象を与えた。


「集会の導き手だ」


 榊が顔を顰めた。


「鶏林社の首魁と言われる人物だ」


 黒衣の人物が両手を下ろした途端、堂の中からどよめきが起こった。そして一斉に人々が堂から出てきた。二十人、いや、それ以上の人数だ。


「あれは——」


 道真は息を呑んだ。黒衣の人物の真後ろに立つ男の横顔に見覚えがあったのだ。


李楚りそだ」


「まさか?」


 榊は目を凝らした。


「華胥道の?」


「間違いない」


 二人は互いに顔を見合わせた。華胥道と鶏林社。対立する組織のはずなのに、なぜ李楚はここにいるのか?


「これは——」


 道真が口を開いた瞬間、草むらがざわついた。何かが彼らに気づいたのだ。


「逃げるぞ!」


 榊が道真の腕を引っ張り、二人は丘を駆け下りた。背後からは追跡の足音が聞こえてくる。


 海岸にたどり着くと、彼らの舟があった場所に別の男たちが立っていた。


「待ち伏せだ!」


 榊が叫ぶと同時に、男たちが二人に向かって走り寄ってきた。


「こちらだ!」


 道真は別の方向へと走り出した。砂浜を離れて茂みに入り、夜の闇に紛れる。追っ手は背後に迫っていた。


「ここから海に——」


 道真が言いかけたとき、暗がりから一人の男が現れた。藁の笠をかぶり、全身を黒い衣服で覆っていた。榊は持っていた小刀を構えた。


「待て」


 男は藁笠を少し上げ、微かな月明かりに顔を晒した。


葦切あしきりだ」


「葦切殿!」


 榊が驚いて叫んだ。葦切は二人を手招きし、暗がりへと導いた。


「急げ。時間がない」


 葦切に導かれるままに走ると、そこには小舟が待機していた。


「乗れ」


 三人が舟に乗り込むと、葦切は舟を岸から押し出した。やがて島は遠ざかり、追っ手の姿も見えなくなった。


 ***


「先ほどの李楚は間違いない」


 博多の街外れにある葦切の隠れ家で、道真は断言した。


「なぜ彼が鶏林社の集会に?」


「考えられる可能性は二つ」


 葦切は落ち着いた声で言った。


「一つは、李楚が鶏林社の内情を探るために潜入した。もう一つは——」


「李楚自身が鶏林社と繋がっている」


 道真が言葉を続けた。


「その可能性が高い」


 葦切は頷いた。


「華胥道と鶏林社。表向きは対立する組織だが、裏では何らかの協力関係があるのかもしれない」


 道真は思案に暮れた。


蕭湛しょうたんの態度からは感じられなかったが...」


「巧妙な計略だろう」


 葦切は言った。


「本朝に流入する新羅と唐の勢力。表向きは対立しつつも、実は連携していた——」


「だとすれば、私に接触してきた理由も...」


「道真様の才能と立場を利用して、朝廷に影響を与えようとしている可能性が高い」


 道真は静かに目を閉じた。すべてが騙りだったのか。「華胥之夢」も「詩文による世の安定」も、すべては道真を駒として利用するための嘘だったのだろうか。


「明日、蕭湛に会うことになっている」


「危険です」


 榊が介入した。


「もはや彼らは敵と見るべきです」


「いや、行く」


 道真は決然と告げた。


「彼らの正体を確かめるため、もう一度会おう」


 葦切は長い間、黙っていたが、やがて静かに告げた。


「行くべきです。しかし、一人ではなく、私たちと共に」


「どういうことだ?」


「罠を仕掛けた者に、逆に罠を仕掛けるのです」


 葦切は茶を啜りながら説明した。明日の会合で蕭湛に李楚の件を問い質す。おそらく蕭湛は取り繕おうとするだろう。その隙に他の鴉の構成員が、彼らの隠し場所を探る——。


「博多の海に面した小さな荘園があります」


 葦切は告げた。


「唐商人の所有と名目上はなっていますが、実際は華胥道の拠点と見られている場所です」


「そこに何かあると?」


「書物、文書、さらには——武器」


 道真は驚いた。


「武器?」


「ええ。筑紫地方で刀剣が密かに集められている情報があるのです」


 これは単なる文化的・思想的浸透ではなく、何か大きな陰謀の兆しかもしれない。道真は感じていた。


「わかった」


 道真は決意した。明日、蕭湛との会合に臨む。そして彼らの秘密を暴く手助けをするのだ。


 ***


 翌日、約束通り道真は港近くの茶肆さしで蕭湛と会った。蕭湛は相変わらず温和な表情で、道真を温かく歓迎した。


「菅原殿、お越しくださりありがとう」


「こちらこそ」


 道真は笑顔を作った。


「あなたの詩文談義は実に啓発されます」


 蕭湛は満足げに頷き、唐詩の話を始めた。李白の作品から杜甫の詩へと話は移り、やがて政治的な話題となった。


「本朝と唐の関係も、かつての遣唐使のような形式的なものではなく、より自由な交流があるべきだと思いませんか?」


「確かに」


 道真は頷いた。


「しかし、交流には常に警戒も必要でしょう。例えば...」


 道真は一瞬間を置いてから、


「昨夜、奇妙な光景を目にしました」


 と続けた。


 蕭湛の表情が微かに強張った。


「どのような?」


「奥津嶋の集会です。多くの人々が集まり、新羅の言葉で何かを唱えていました」


 沈黙が流れた。蕭湛の目が鋭く光った。


「そこで李楚殿を見かけたのですが」


 蕭湛の表情が一瞬、ひきつった。道真はそれを見逃さなかった。


「李楚が?まさか」


 蕭湛は笑おうとしたが、その笑みは不自然だった。


「彼は昨夜、病に伏していました」


「そうですか」


 道真は平静を装った。


「では、私の見間違いでしょう」


 蕭湛はすぐに話題を変えた。


「さて、菅原殿。私どもの『華胥之夢』についてどうお考えですか?」


「素晴らしい理念です」


 道真は言った。


「ただ、その実現の方法について、もう少し伺いたいのですが」


 蕭湛は詳しく語り始めた。大陸の詩文を通じて本朝の人々に高い教養を広め、両国の架け橋となる賢人を育てる——。表向きは崇高な理念だ。しかし道真には、その言葉の裏に隠された狙いが見え隠れしていた。


「貴方の家の名声は高い」


 蕭湛が言った。


「将来、朝廷で重きをなさるでしょう。そのとき、私どもの志に共感して頂けるなら...」


「もちろん」


 道真は微笑んだ。


「文を通じた交流の重要性は、私も確信しています」


 会話が続く間、道真は密かに他の鴉の構成員たちが動いていることを意識していた。彼らは今、華胥道の隠れ家を探索しているはずだ。


 ようやく会合が終わりに近づいたとき、蕭湛は内懐から一枚の紙を取り出した。


「これは李楚からの手紙です。あなたに渡すよう言付かっていました」


 道真は紙を受け取った。そこには美しい書で詩が書かれていた。


 江上の月 水に映り

 我が心は 故国を思う

 春風いかに吹こうとも

 帰ることなし 故郷の地へ


「謝謝」


 道真は詩を読み終えて告げた。


「美しい詩です」


 道真が宿に戻ると、そこには葦切と鶺鴒が待っていた。


「如何でしたか?」


「蕭湛は取り乱した」


 道真は告げた。


「李楚の件を言うとすぐに否定した」


「予想通りです」


 葦切は頷いた。


「我々も成果を得ました」


 鶺鴒が取り出したのは、唐風の文書だった。小さな文字で綴られた密書のようなものだ。


「何が書かれているのですか?」


「新羅の人間と交わした密約の内容です」


 葦切が説明した。


「彼らは周到に次の一手を準備しています」


「どんな内容なのですか?」


「彼らは本朝の西国一帯に浸透しようとしている」


 葦切は静かに告げた。


「まずは地方豪族を取り込み、やがては朝廷の政策にも影響を与えようとしている」


 道真は沈黙した。これが本当なら、大変な事態だ。外からの浸透が進んでいるというのに、朝廷はそのことに気づいていないのかもしれない。


「それだけではありません」


 鶺鴒が続けた。


「彼らは本朝の官人にも接触しているようです。文書には数名の名が記されていました」


「そうなのか...」


 道真はさらに暗い表情になった。誰が彼らと繋がっているのだろうか。まさか父の友人たちの中にも...?


「では、我々はどうすれば?」


「この情報を持って帰京すべきです」


 葦切は言った。


「道真様の使命はここまで。よくやってくださいました」


 道真は頷いた。しかし、心の中には複雑な思いが渦巻いていた。彼はただの学生のはずだった。父の期待に応え、学問を修めるために文章生となったのだ。それが今や、国家の命運にかかわる秘密を手にしている。


「李楚からの詩...」


 道真は再びその詩の意味を考えた。表面上は美しい望郷の詩だが、その裏には何か暗号めいたものが含まれているのではないか?


「道真様」


 葦切が声をかけた。


「何をお考えですか?」


「この詩には何か隠されているように思うのです」


 道真は李楚の詩を二人に見せた。葦切と鶺鴒はそれを凝視した。


「確かに奇妙です」


 鶺鴒が言った。


「この詩の中に、文字が微かに強調されている箇所がある」


 道真も気づいていた。いくつかの文字が他よりもわずかに太く書かれている。それらを順に読むと——


「来月、長安、再会」


 道真が呟いた。


「彼らは私が帰京し、長安を訪れることを期待している」


「罠かもしれません」


 葦切は眉を寄せた。


「あるいは、単なる希望かもしれない」


 道真は静かに言った。


「いずれにせよ、私はまだ長安を訪れる予定はない」


「明日、船が都へと向かいます」


 葦切が告げた。


「道真様とこの情報も、その船で帰京していただきましょう」


 道真は頷いた。筑紫での使命は終わりを告げようとしていた。だが、彼の心の中で、これは終わりではなく、むしろ始まりに感じられた。


 この経験は彼の人生を変えるものになるだろう。彼はもはやただの学生ではない。彼は本朝の未来を担う、そして守る者の一人となったのだ。


 窓の外で、波の音がさざめいていた。博多の海は今夜も密語で満ちているようだった。

【語り:八咫烏?】

「貞観六年という時代は、唐と日本の関係が大きく変わりつつあった頃やな。唐では安史の乱以降も藩鎮の跋扈が続き、中央政府の権威は著しく低下しとった。この頃、唐は両税法という税制を導入し、国家体制を立て直そうとしていたけど、その後も方鎮の反乱など不安定な状態が続いたんや。とくに筑紫地方は古来より大陸との交流が盛んな地域で、多くの新羅人や唐人が交易のために往来しとった。菅原道真が博多に滞在していたという直接的な史料はないが、この物語での彼の活躍は、のちに大陸交流や遣唐使廃止の建議など、国際的な視点で政策提言を行うようになる道真の片鱗を見せるものやな。また、唐の衰退はやがて黄巣の乱を経て唐滅亡への道をたどっていくんやが、その前兆となる混乱がこの時代に既に始まっていたと言えるやろう」

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