第7話 華胥道の微笑(864年)
第七話:
夕闇が博多の港町を覆い始めていた。菅原道真は、一筋の風に袂を翻されながら、港に近い一角に佇んでいた。唐の商船が停泊する岸壁から少し離れたその場所には、質素な茶肆が建っている。李楚との再会の約束の場所だった。
「やはり来られましたね」
声の方向を振り返ると、李楚が微笑みながら立っていた。前回の詩会で見せた豪華な装いとは違い、今宵は質素な旅装束に身を包んでいる。
「お待たせしました」
「いえ。本朝の方々は時刻を守られる」
李楚はにこやかに言った。
「こちらへどうぞ」
李楚に従い、道真は茶肆の奥へと進んだ。茶の香りが漂う室内には、すでに一人の人物が座していた。唐風の衣装を身にまとい、顎髭を長く伸ばした初老の男である。男は道真を見るなり立ち上がり、深々と礼をした。
「これは菅原殿、ようこそお越しくださいました。私は蕭湛と申します」
蕭湛もまた流暢な日本語を話した。道真は礼を返し、促されるままに席に着いた。茶肆の主人が茶を運んでくると、蕭湛は手振りで主人に下がるよう指示した。
「これより秘事を語りますゆえ」
主人は何も言わずに頷き、部屋を出ていった。
「菅原殿」
蕭湛は静かに口を開いた。
「李楚から聞き及んでおります。あなた様は聡明で、詩才も豊かだと」
「過分なお言葉」
「謙遜なさる必要はありません」
蕭湛は真っ直ぐに道真を見つめた。
「詩会の折、あなた様は李楚の詩の中に隠された言葉に気づかれた。これは並の才能ではなし得ぬこと」
道真は黙って相手の言葉を待った。
「私たちは『華胥道』の者です」
李楚が静かに言った。
「唐のただの商人ではない」
「華胥道とは何ですか」
道真はようやく口を開いた。
「千年の命を持つ王朝も、今や衰微の一途」
蕭湛が答えた。
「今の唐は内憂外患に満ちています。藩鎮の跋扈、宦官の専横、そして黄巣の乱」
「確かに耳にしています」
「かつて陸羽という茶人がおりました。彼は茶を通じて世を正そうとした」
蕭湛は茶碗を手に取り、香りを嗅いだ。
「我らもまた、世を正すため立ち上がった」
李楚が続いた。
「華胥道は、詩や文を通じて混迷の世に新たな秩序をもたらそうとしているのです」
「詩や文で?」
「そう」
蕭湛は頷いた。
「剣ではなく、筆こそが世を変える力を持つ」
道真は二人の言葉を注意深く聞いていた。黒衣の「葦切」から聞いた話と合致する。だが、なぜ彼らは自分に接触してきたのか。
「どうして私に?」
「あなた様の才能が必要なのです」
李楚は熱を込めて言った。
「我らは太宰府から始め、やがて京へ——秩序ある新しい世を創りたい」
蕭湛は懐から一巻の軸を取り出し、静かに広げた。そこには美しい楷書で詩が記されていた。
「これが『華胥之夢』」
道真はその詩を一読した。表面上は美しい理想郷を描いた詩だが、その背後には権力批判と新たな秩序への導きが巧妙に織り込まれている。
「荘子の逸話から名づけられたのでしょう」
道真が言った。
「蝶の夢のように、実体と幻影の境が曖昧な理想郷」
蕭湛は満足げに微笑んだ。
「さすがは菅原殿」
「あなた様のような才能ある人物が、本朝と唐の橋渡しとなってくださるなら」
李楚が言った。
「文化は武力を超え、混迷の世にあっても人々に希望を与えられる」
道真は静かに考えた。表向きは詩文の交流を謳う集団。だが、その真の目的は何だろうか。
「少し考えさせてください」
「もちろん」
蕭湛は頷いた。
「拙速は賢者の敵です」
***
「奴らの狙いは明らかよ」
博多の宿に戻った道真の前で、葦切が皮肉っぽく言った。その横には
「鶺鴒」と呼ばれる若い女性が座っていた。彼女もまた八咫烏——鴉の一員だった。
「華胥道は本朝への文化的浸透を図っている」
葦切が続けた。
「詩や文を通じて、特定の思想を広めようとしている」
「そこまでは理解できる」
道真は言った。
「だが、なぜ私に接触してきたのか」
「あなた様は菅原氏の嫡流」
鶺鴒が静かに言った。
「学者の家系として朝廷への影響力を持つ」
「しかも若い」
葦切が付け加えた。
「柔軟な思想を持つ若者に影響を与えれば、将来的に朝廷の政策にも関与できる」
道真は黙って窓の外を眺めた。港には今も多くの船が停泊している。その中には、大陸からの商品だけでなく、思想や文化も積まれているのだ。
「彼らの提案は危険ですか?」
「一概には言えません」
葦切が答えた。
「彼らの思想自体には、美しい部分もある。しかし……」
「しかし?」
「唐の闇の勢力と繋がっている可能性がある」
鶺鴒が言葉を継いだ。
「国内の混乱に乗じて、周辺諸国への影響力を強めようとしているのです」
道真はしばらく黙っていた。若きながらも、この任務の複雑さを理解していた。単に拒絶すれば情報は得られないし、深入りすれば引き返せなくなる。
「私は——」
「道真様」
葦切が遮った。
「どうか拙速な判断はなさらないでください。彼らとの接触を続け、真意を探るのです」
「つまり、二重の役を演じろと?」
「そういうことになります」
鶺鴒が小さな声で言った。
「危険は伴いますが」
***
翌日、道真は港の埠頭を散策していた。頭の中では昨夜の会話が繰り返し響いていた。遠く水平線を眺めていると、ふいに横から声がかけられた。
「菅原殿」
振り向くと、李楚が一人たたずんでいた。
「考えていただけましたか?」
道真は相手をじっと見た。賢明そうな瞳、誠実そうな物腰——だが、その全てが演技かもしれない。
「あなたの詩は美しい」
道真は言った。
「しかし、我が君に仕える身として、異国の思想に深入りすることはできません」
李楚は悲しげに微笑んだ。
「それが道真殿の答えですか」
「しかし」
道真は続けた。
「詩文の交流なら喜んで」
李楚の表情が明るくなった。
「それだけでも十分です」
二人は海を眺めながら歩き始めた。波の音だけが二人の間に流れていた。
「道真殿」
李楚がふと立ち止まった。
「あなたは知っていますか?」
「何をですか?」
「詩は時に人の心を揺り動かし、時に国をも動かす」
李楚は遠くを見つめた。
「唐の詩人・白居易の言葉を借りれば『言志』——心に抱く志を言葉に表すこと。それが詩の本質」
道真は頷いた。
「本朝にも『言霊』という考えがあります。言葉には魂が宿る」
「そうです」
李楚の目が輝いた。
「だからこそ、我々は詩を通じて世を正そうとしている」
沈黙が流れた。やがて李楚は懐から一枚の紙を取り出した。
「これは私たちの集いの案内です。明日、商館で詩の会を催します。もしよろしければ」
道真は紙を受け取った。そこには時間と場所が記されている。
「参りましょう」
***
「危険です」
夕刻、宿に戻った道真に、葦切は厳しい表情で言った。
「華胥道の集いに参加すれば、鶏林社の目にも留まる」
「それも良いではないか」
道真は冷静に言った。
「彼らの動向も知れる」
「道真様」
鶺鴒が心配そうに言った。
「あなた様は学者です。諜報の世界は——」
「学問も諜報も、本質は同じ」
道真は彼女を見た。
「真実を探求する営み」
葦切は溜息をついた。
「分かりました。しかし、万が一の備えは必要です」
「何を?」
「これを」
葦切は小さな木箱を差し出した。開けると、中には短い錐が入っていた。
「緊急時には」
道真は黙って頷き、箱を閉じた。その夜、道真は窓辺に座り、星空を見上げながら一首の詩を書いた。
西窓開きて 秋の月見る
故郷遥かに 思いを馳せて
誰か知らん 此の夜の心
影は水に映り 実は天に在り
詩を書き終えると、道真はそれを読み返し、静かに折り畳んだ。そして懐に忍ばせた。明日への備えとして。
***
翌日、道真が唐人商館に到着すると、既に多くの人が集まっていた。日本人と唐人が入り混じり、詩や文について語り合っている。道真は静かに部屋の隅に立ち、場の様子を観察した。
「菅原殿、よくお越しくださいました」
李楚が近づいてきて、道真を中央の席へと案内した。そこには蕭湛の姿もあった。
「今日はより親密な仲間だけで」
李楚が囁いた。
「政治や朝廷のことは触れぬよう」
道真は頷き、座に着いた。詩会が始まり、次々と参加者が詩を詠む。表面上は風景や恋愛を題材にした詩だが、道真は各詩の背後に隠された意味を読み取ろうとした。
やがて蕭湛が立ち上がった。彼は「華胥之夢」と題した長詩を朗読し始めた。その詩は荘子の逸話をもとに、理想の国の姿を描いたものだったが、その行間には現状への不満と変革への意志が込められていた。
道真の番になると、昨夜書いた詩を取り出した。しかし、最後の一節を少し変えた。
影は水に映り 実は心に在り
詩を読み終えると、場は静寂に包まれた。やがて蕭湛が静かに拍手し、他の者もそれに続いた。
「実に素晴らしい」
蕭湛が言った。
「菅原殿は我々の志に共鳴されておられる」
道真は微笑むだけで、それ以上は何も言わなかった。
詩会が終わりに近づいたとき、蕭湛は道真を脇へ呼んだ。
「いずれ都へ戻られるのでしょう」
「はい」
「その時は」
蕭湛は声を落とした。
「我々の言葉を朝廷にお伝えいただきたい」
「それは——」
「強制ではありません」
蕭湛は優しく微笑んだ。
「ただ、賢明な方なら、きっと我らの志の正しさを理解してくださるでしょう」
道真がどう答えるべきか迷っていると、突然、門外から騒がしい声が聞こえてきた。
「追捕使だ!」
場は一瞬にして騒然となった。集会に参加していた者たちは慌てて逃げ出し始める。蕭湛は冷静さを保ちながらも、李楚に何やら指示を出していた。
「菅原殿」
李楚が急いで道真の手を取った。
「こちらへ」
李楚に導かれるまま、道真は裏口から建物を出た。夜の闇に紛れて二人は港の方へと走った。
「なぜ追捕使が?」
道真は息を切らせながら尋ねた。
「奴らの仕業でしょう」
李楚は唇を噛んだ。
「鶏林社の」
二人は人けのない倉庫の陰に身を潜めた。
「菅原殿」
李楚は真剣な表情で道真を見た。
「あなたは我々と共にありますか?それとも——」
「私は真実を知りたいだけだ」
道真は答えた。
「華胥道も鶏林社も、何を目指しているのか」
李楚は長い間黙っていた。やがて静かに口を開いた。
「華胥道は、唐と周辺国との間に新たな絆を作ろうとしているのです。それは支配でも服従でもなく、対等な文化交流」
「そして鶏林社は?」
「彼らは新羅の支配層と繋がっている」
李楚の声が冷たくなった。
「彼らは文化的浸透を通じて、周辺国を新羅の影響下に置こうとしている」
道真は沈黙した。二つの勢力が博多の地で暗闘を繰り広げ、本朝の未来をめぐって駆け引きをしている——その渦中に自分がいる。
「伯楽は良い馬を見る目を持つという」
李楚が微笑んだ。
「私たちもまた、あなたの中に非凡な才能を見出した。ぜひ我らの志に共感してほしい」
道真は江上を見つめた。波は黒く、月明かりだけがその表面を照らしている。影と実体、表と裏——どちらが真実なのか。
「時間をください」
道真は言った。
「真の姿を見極めるために」
李楚は頷いた。
「急がぬ者は、遠くまで行ける」
二人は静かに別れた。道真は宿への道を急ぎながら、心の中で思った。
「華胥の夢か……か弦の謀か」
月明かりの下、道真の影が長く伸びていた。
【語り:八咫烏?】
「貞観六年、当時十九歳の菅原道真がどのような活動をしていたかを示す史料は乏しいんや。せやけど、この年齢の道真は文章生として漢詩や漢文の勉強に熱心やったことは間違いない。道真が二十五歳のときに詠んだ『春夜』という詩が残っており、すでにこの頃から優れた詩才を持っとったことがわかるんや。道真の父・是善は貞観六年に近江権守や刑部卿を務めた記録が残っとる。この時代の唐では実際に安史の乱以降、藩鎮の跋扈が激しゅうなり、黄巣の乱が近づくなど衰退期に入っとった。この物語で触れられとる華胥道という組織は創作やが、当時の唐と日本の関係が微妙に変化しつつあった時代背景は史実に基づいとる。また博多は古くから大陸との交易の拠点として栄え、様々な文物や情報が行き交う場所やったんや」