第6話 唐詩に毒あり(864年)
第六話:
「あちらの方が、あなた様をお誘いしております」
菅原道真は、宿の主人に指さされた先を見た。博多の街で最も格式高い茶肆の一角で、見慣れぬ男が座していた。唐風の衣装を纏い、長い顎髭を蓄えている。道真がこちらを見ていることに気づくと、軽く会釈した。
「どなたでしょうか」
「唐の商人、李楚という方です。このあたりでは知らぬ者のない詩人でして」
「詩人、ですか」
道真は興味を惹かれた。この地に来て二ヶ月、鶏林社の動向、偽造経典の調査に追われる日々だった。束の間の安らぎを得られるかもしれないと思い、茶肆の主人に案内を頼んだ。
「菅原道真殿にお会いできること、この李楚、誠に光栄に存じます」
唐人は流暢な日本語で道真を出迎えた。その話しぶりは知識人そのもので、怪しさはひとかけらも感じられない。
「我が名をご存知とは」
「ええ、都より下向されたばかりの学者様と聞き及んでおります。父君も名高き学者とか」
道真は内心で警戒しながらも、礼儀正しく応じた。華やかな都を離れ、辺境とも言える博多の地で、教養ある話し相手を求めていたことは確かだった。
「明日、拙宅にて詩会を催します。良ければお越しになりませんか」
男の言葉に、道真は一瞬躊躇した。密命を帯びてこの地に来ている身。安易に人の誘いに乗るべきではない。しかし、異国の詩人との交流は、表向きの任務である「学問調査」の一環としても有益だろう。それに——鴉の一員としても、唐人たちの集まりを垣間見る価値はあるはずだ。
「喜んで」
道真が答えると、李楚は満足げに微笑んだ。
***
翌日、博多湾を望む小高い丘の上に建つ李楚の邸宅を訪れた道真は、思いがけない光景に出くわした。広間には十名ほどの人々が集まっており、日本人も唐人も入り混じっていた。
「ようこそおいでくださいました」
李楚は道真を上座に案内した。そこからは部屋全体が見渡せる。参加者の中には地元の長や博多を拠点とする豪商たちの姿もあった。つい先日、鶏林社と密会していた筑紫の有力者も混じっている。
「今日は何と贅沢な会合でしょう」
道真は穏やかに笑みを浮かべながらも、心中では警戒を強めていた。ここに集う人々の顔ぶれは、単なる詩会のものとは思えない。何かの謀議か、あるいは——
「今日は『春江花月夜』をテーマに詩を賦しましょう」
李楚が宣言し、詩会が始まった。次々と趣向を凝らした詩が披露される。道真は言葉の綾に耳を傾けながらも、参加者たちの様子を注意深く観察した。
やがて順番が回ってきた。道真は立ち上がり、その場で詩を詠み始めた。
「春江潮水連海平、海上明月共潮生——」
張若虚の名詩を引用しながら、即興で詩を紡ぎ出す。場内から歓声が上がった。詩を得意とする道真にとって、この程度の即興は造作もないことだった。
李楚が最後に立ち上がった。彼もまた美しい詩を詠んだ。表面上は春の情景を描写した穏やかな内容だが、道真の耳に何か違和感が引っかかった。何度か聞き返しているうちに、その詩の中に異質な一節が含まれていることに気づいた。
「江上遊人歸不歸、江天一色無纖塵」
(川辺の遊人は帰るとも帰らぬとも、天と川は一色に塵一つなし)
表面上は美しい風景描写だが、道真はこの一節に何か別の意味が込められているような気がした。参加者たちの多くは頷いている。特に奥座敷に陣取る三人の唐人たちは、意味ありげな視線を交わしていた。
詩会の終わり際、李楚は道真に近づいてきた。
「いかがでしたか、道真殿」
「素晴らしい詩会でした。特に貴殿の詩は印象的でした」
「そうですか」
李楚は微笑んだ。
「実は来週もまた催すつもりです。よろしければ」
「喜んで」
道真は表情を崩さずに答えた。帰り道、頭の中では李楚の詩の一節が繰り返し響いていた。
***
「帰るとも帰らぬとも——」
宿に戻った道真は、唐詩集を広げて類似の表現を探した。几帳の陰では、黒い衣を身にまとった人影が静かに佇んでいた。
「気づきましたか」
「ああ」
道真は顔を上げた。
「あれは暗号だった。『江上遊人歸不歸』——この歸不歸の部分が」
「華胥道の密語です」
影の男——鴉の使者である「葦切」と呼ばれる男が言った。
「華胥道?聞いたことがない」
「唐の没落とともに台頭してきた一味です。『政を正す』という名目で、本朝に思想的浸透を図っている」
道真は思い返した。詩会に集った面々——彼らは単なる文化人ではなく、この地方の有力者たちだった。
「彼らは詩の中に何を忍ばせていたのだろう」
「恐らく次なる接触の合図でしょう。李楚は華胥道の外交官を兼ねた密使と見ています」
道真は窓の外を見やった。博多の港には、今夜も大陸からの船が停泊している。表向きは貿易船だが、その中には唐の詩や思想を運ぶ「文の兵士」たちがいるのだろう。
「来週の詩会——行くべきですか」
「行くべきです。ただし」
葦切は静かに言った。
「今度は道真殿自身も、詩の中に何かを忍ばせてみてはいかがでしょう」
道真は頷いた。自らの筆が、今、静かな戦いの武器となりつつあることを感じていた。
***
翌朝、道真は李楚からの贈り物を受け取った。唐の詩集だった。ページを開くと、その端々に小さな朱の点が打たれている。道真はすぐに気づいた——それは暗号だ。点の位置を繋ぎ合わせれば、文字が浮かび上がる。
「華胥之夢——」
道真はその言葉を紙に写し取りながら、密かな決意を固めた。この地に蔓延る「言葉の毒」を解明し、その真意を暴かねばならない。詩は美しい——だが、その裏に潜む意図は必ずしも美しくはない。
風は西から東へと吹き、大陸から日本へと渡ってくる。その風に乗って運ばれてくるのは、ただの詩文ではなく、国を揺るがす思想だった。
道真は筆を執り、来たるべき詩会のための一篇を書き始めた——それは応酬であると同時に、挑戦状でもあった。
【語り:八咫烏?】
「貞観六年、菅原道真はまだ二十歳の若者やった。歴史に残る記録では、この年に道真は渡来人との交流を深めるために博多に滞在していたとされとる。実際には、朝廷の密命を帯びた任務だったんやが、表向きには文章生としての研鑽を積む旅ということになっとった。この頃の博多には新羅や唐の船が頻繁に入港し、様々な情報や思想が流入してきた時代や。道真の才能は早くから見出されており、若くして朝廷の密命を担うことになったんやが、彼自身はまだ『鴉』の組織の全容を知らされておらんかった。ただ、彼の文才が単なる学問だけではなく、国家の防衛にも役立つと見込まれていたのは確かなことやな」