第5話 若き旅人、海へ(863年)
第五話:
大海原は果てしなく広がり、船は波間を行く小さな存在にすぎなかった。
甲板の上、菅原道真は朝日に照らされる水平線を眺めていた。都から出て一週間、警固船はやがて筑紫の海域に入ろうとしていた。
「見えましたぞ、若旦那!」
船頭の老人が声を上げる。道真が目を凝らすと、霞の向こうに薄く陸地の影が浮かんでいた。
「あれが筑紫の地ですか?」
「いや、まだ途中の屋代島じゃ。瀬戸内の大きな島じゃよ。筑紫の本土までは、まだ数日かかる」
道真は静かに頷いた。遠い異郷の地。しかし、この先に新たな知と、そして密命が待っている。
「屋代島には、海神を祀る古い社があると聞く」
と道真が言うと、老人は
「ほう、都の若人にしては物知りじゃな」
と笑った。
「若旦那は文章生と聞いておる。学問が深いはずじゃ」
「いえ、まだ浅学の身です。これから多くを学ばねばなりません」
道真が謙遜すると、老人は海の彼方を指差した。
「海を渡れば、見える世界が変わる。筑紫には都にない風が吹き、都では聞けぬ声がある」
道真は、老人の言葉を胸に刻んだ。これから始まる旅は、単なる学問の旅ではない。未知との遭遇、そして密命を果たす旅でもあった。
***
屋代島の港で一泊した後、船は再び海へと漕ぎ出した。朝から雲が広がり、海は灰色の顔を見せていた。
「若旦那、今日は荒れるかもしれん。船室で休んでおるがよい」
船頭の進言に、道真は首を振った。
「いえ、この風と波を感じたいのです」
甲板に立ち、道真は吹き付ける潮風に身を任せた。都では決して味わえない感覚だ。海の匂い、波の音、空の広がり——すべてが新鮮だった。
船の片隅では水夫たちが談笑していた。その中に、どこか都人とは違う雰囲気の男が混じっている。道真は興味を持って近づいた。
「あの、失礼ですが」
男は振り返り、道真を見て軽く会釈した。
「貴方は渡来人でしょうか?」
「はい。私は新羅から来た金竜山と申します」
やや訛りのある発音だが、日本語はたどたどしくなかった。
「菅原道真と申します。新羅からの渡航は初めてですか?」
「いいえ、三度目です。筑紫には新羅からの商人が多く住んでいます」
金竜山は笑顔を浮かべた。が、その目は笑っていないことに道真は気づいた。
「道真様は学者のようですね。何を求めて筑紫へ?」
「書物です。唐や新羅の珍しい書物が博多に集まっていると聞き、調査に参りました」
「ほう、なるほど」
金竜山は頷いたが、その表情には微妙な警戒心が混じっていた。
「博多では万多羅様のお宅に滞在すると聞きました」
道真は驚いた。自分の行き先を知っているとは。
「ええ、そうですが…」
「万多羅様は筑紫の名士。新羅の商人とも親交がありますよ」
金竜山はそう言って微笑んだが、道真にはその言葉に何か隠された意味があるように感じられた。
「もし良ければ、博多で私の店にもお立ち寄りください。珍しい書物もございます」
道真はありがたく頷いたが、内心では警戒していた。これが単なる商売の誘いなのか、それとも何か別の意図があるのか——。
「では、またお目にかかりましょう」
金竜山は軽く頭を下げ、水夫たちの輪に戻っていった。道真は彼の後ろ姿を見つめながら、鳶から授かった密命を思い出していた。
新羅商人の動向を探れ——その最初の糸口が、偶然にも見つかったのかもしれない。
***
「雨雲が近づいています!みなさん、船室へ!」
船頭の叫び声が響いた時、道真は船首で金竜山と話していた。
「新羅の文学に興味があるなら、元暁の著作がおすすめです」
金竜山が言うと、道真は目を輝かせた。
「元暁の『大乗起信論疏』ですか?都でもその名は聞いておりますが、手に入れることはできませんでした」
「博多なら可能かもしれません。新羅の僧侶が多く訪れますから」
会話に熱中するあまり、二人は船頭の警告に気づくのが遅れた。
空が一気に暗くなり、風が強まった。波が高くなり始め、船が大きく揺れる。
「急いで船室へ!」
金竜山が道真の腕を引いた。二人が船室に向かって走り出した時、巨大な波が船を襲った。
船が大きく傾き、道真は足を滑らせた。彼は甲板に倒れ込み、そのまま船の縁に向かって滑っていく。
「道真様!」
金竜山の叫び声が聞こえたが、道真の体はすでに縁を超えていた。冷たい海水が彼を包み込む。彼は海中へと沈んでいった。
「……!」
水中で目を開けると、すべてが青い闇だった。海水が鼻と口に入り込み、苦しい。必死に手足をばたつかせるが、重い衣服が体を引っ張る。
息が続かない。意識が遠のきかける。
その時、強い腕が道真の体を掴んだ。水面に向かって引き上げられる感覚。そして——
「ッハア!」
道真は激しく咳き込みながら、空気を求めて大きく息を吸った。
「大丈夫ですか、道真様!」
彼を救ったのは金竜山だった。彼もまた全身濡れそぼち、激しく息をしていた。
「あ、ありがとう…助けてくれて…」
「いえ…当然のことです…」
船員たちがロープを投げ、二人は船上に引き上げられた。
「危なかったぞ、若旦那!」
船頭が心配そうに駆け寄ってきた。
「申し訳ありません…不注意でした…」
道真は震える手で顔の水を拭った。金竜山は毛布を差し出し、道真の肩に掛けた。
「海の神は時に非情です。でも今日は、あなたの命を望まなかったようですね」
金竜山の言葉には、何か深い意味が込められているようだった。
「なぜ、あなたは命を危険にさらしてまで私を助けたのですか?」
道真が尋ねると、金竜山は静かに微笑んだ。
「私たちは皆、運命で結ばれています。あなたを失う時が来るまで、私はあなたを見守るでしょう」
その言葉の意味を考える暇もなく、再び船が大きく揺れた。
「船室へ!早く!」
今度こそ全員が船室に避難した。嵐の中、船は闇の海を進み続けた。
***
嵐は一晩中続いた。
船室で震える道真に、船医が温かい飲み物を差し出した。
「これを飲みなさい。体が温まる」
薬草の苦い香りがする飲み物だったが、確かに体の芯から温かくなった。
隣では金竜山も同じ飲み物を飲んでいた。二人は言葉少なに、お互いの無事を確かめ合った。
「金竜山さん、本当にありがとう。あなたがいなければ、私は…」
「いえ。あれは私の使命だったのです」
「使命?」
「すべての命には守るべきものがある。あなたの命も、何かのために存在しているはずです」
道真は金竜山をじっと見つめた。彼は本当に単なる新羅商人なのだろうか。言葉の端々に、深い思想と知性が感じられる。
「私の命の目的か…」
道真は呟いた。彼の中で、様々な思いが交錯していた。学問の道を極めること、朝廷に仕えること、そして密命を果たすこと。
「明日には博多に着くでしょう」
金竜山が言った。
「あなたの旅の目的が、どうか叶いますように」
その言葉が単なる祝福なのか、それとも別の意味があるのか、道真にはわからなかった。ただ、この嵐の夜に命を救われたことで、金竜山という存在が彼の旅において重要な意味を持つことだけは確かだと感じていた。
***
夜が明け、嵐は去った。
海は嘘のように穏やかになり、朝日が水面を黄金色に染めていた。
道真は甲板に出て、深呼吸した。
「心も洗われるような風景ですね」
背後から金竜山の声がした。
「ええ。まるで生まれ変わったようです」
「死と再生。これは旅の本質かもしれません」
二人は静かに朝の海を眺めた。
「あれが博多です」
金竜山が指差す方向に、港町の輪郭が見えてきた。
博多——大陸との窓口、異文化の交差点。道真の新たな旅が、ここから始まる。
「道真様、約束通り博多でお会いしましょう。私の店は博多川の近く、赤い門が目印です」
金竜山は深く頭を下げた。
「あなたの求める書物が見つかりますように」
道真も同じように頭を下げた。
「そして、あなたの望む『商売』も、うまくいきますように」
その言葉に、金竜山は一瞬目を見開いた。だが、すぐに微笑を取り戻した。
「互いの旅の無事を祈りましょう」
遠くから船着き場の喧騒が聞こえてくる。人々の声、荷物を運ぶ音、市場の活気。道真の心は期待と緊張で一杯だった。
「ここからが私の旅の本番です」
道真は母から贈られた硯と筆を懐から取り出し、手のひらに載せた。
「筆こそが我が剣…」
彼は呟いた。学問の道を行くためだけでなく、密命を果たすための武器でもある。
「筆は剣よりも時に鋭く、遠くを射る」
道真は硯と筆を懐に戻し、前方を見据えた。世界の新たな扉が、今まさに開こうとしていた。
船は静かに、博多の港へと近づいていった。異国の香りが風に乗って運ばれてくる。渡来人たちの言葉、市場の喧騒、異国の船の旗印——。
道真は深く息を吸い込んだ。
「さあ、新たな旅の始まりだ」
博多の港が、若き学者を迎え入れようとしていた。
【語り:八咫烏?】
「この話は貞観五年(863年)の設定やけど、道真が船で筑紫に渡ったという記録は残ってへんねん。でも、平安時代に都から九州への移動は船を使うのが一般的やったんや。淀川から難波津、瀬戸内海を通って下関から博多へ向かうのが普通のルートやったんやね。屋代島(今の周防大島)は瀬戸内海の大きな島で、当時の船旅では寄港地として利用されてたんやろな。博多は確かに唐や新羅との交易の拠点で、大陸からの文物が集まる場所やった。道真がまだ十代で海を渡ったかどうかは分からんけど、若い頃から漢籍を熱心に学んでいたのは間違いないんや。道真はとりわけ白居易の『白氏文集』を愛読していて、自分の詩もそれに影響を受けてたんよ。新羅(今の韓国)との交流も盛んで、多くの渡来人が日本に住んでいたことも史実や。道真の旅はこの話では創作やけど、若い頃に旅をして見聞を広めたとしても不思議やない。それが後の彼の学識の深さにつながったんかもしれんな。この時代、遣唐使が廃止される前やから、大陸との交流はまだ続いていたんやで」