第4話 西下赴学(862年)
第四話:
朱雀大路に朝日が降り注ぐ頃、菅原家の書斎では、父子の対話が交わされていた。
「道真、今日は特別な話がある」
菅原是善は、硯に向かっていた十七歳の息子に告げた。道真は筆を置き、真っ直ぐに父を見た。
「何でしょうか、父上」
是善は懐から一通の巻物を取り出した。朱色の紐で結ばれたそれは、遠い地からの便りのようだった。
「筑紫の万多羅という学者から便りが届いた。彼は私の若い頃の友人で、筑紫一帯で珍しい書物の収集に励んでおる」
道真は静かに頷いた。筑紫。都から遠く離れた地だ。
「万多羅殿によれば、異国からの書物が近年、博多の港に多く流れ込んでいるという。その中には『白氏文集』の新しい巻や、宋の学者の筆になる『字統』の写本もあるらしい」
道真の目が輝いた。『白氏文集』は、彼が愛してやまない唐の詩人・白居易の詩文集だ。そして『字統』は、漢字の成り立ちを解析した貴重な字書である。
「それで、道真」
是善は少し言葉を選ぶように間を置いてから続けた。
「お前に筑紫へ赴き、それらの書物を調査してもらいたい。万多羅殿の家に滞在し、書物の整理と写本作成を手伝うのだ」
道真は一瞬、言葉を失った。都を離れることになるのか。しかし、すぐに彼の学者としての血が騒いだ。新たな知の探求——それは誘惑に満ちていた。
「お受けします、父上。しかし…私ごときが」
「お前なら務まる。もう十七だ。貞観四年から文章生として朝廷に仕えているが、外の世界を知ることも大切だ」
道真が文章生に任じられてからまだ間もない。それでも父がこうして外の世界へ送り出そうとしているのは、成長への期待の表れだろう。
「筑紫へは、来月の初め、遣唐使の警固船が出る。それに乗れば、安全に博多へ着くはずだ」
道真は深く頭を下げた。学問のための旅立ち——それはやがて彼の運命を大きく変えることになるとは、この時まだ知る由もなかった。
***
その夜、道真が庭の梅の木の下で詩作に耽っていると、微かな風が吹き、木の葉がざわめいた。
「菅原道真」
突然の声に、道真は振り返った。そこには見覚えのある黒衣の男が立っていた。二年前に初めて現れた、あの謎の来訪者——「鳶」と名乗る男だ。
「また貴方が…」
道真は警戒しながらも、冷静さを失わなかった。
「二年ぶりだな。お前の成長ぶりを見に来た」
鳶は梅の枝を軽く手で触れながら言った。
「文章生になったそうだな。そして筑紫行きも決まったと」
「…私の動向をよくご存じで」
「我らの目は多い」
鳶は道真に近づいた。月明かりの中、半面の仮面が浮かび上がる。
「筑紫行きには、もう一つの使命を帯びてもらいたい」
道真は眉を寄せた。
「使命とは?」
「博多には多くの渡来人が住み、異国の情報が集まる。中でも重要なのは新羅の動きだ」
「新羅?」
「そう。最近、新羅の商人たちが頻繁に出入りし、彼らが持ち込む情報の中には、我が国にとって重要なものが含まれている可能性がある」
鳶は懐から一枚の紙を取り出した。
「これは万多羅の家の側にある茶室の見取り図だ。ここで新羅の商人たちが密かに会合を開いていると聞く。彼らが何を話し、何を運んでいるのか——それを確かめてほしい」
道真は紙を受け取りながら、眉間に皺を寄せた。
「これは…諜報活動のようなものですね」
「そう捉えてもいい。だが、単なる諜報ではない。これは国の安寧に関わる重要な任務だ」
道真は迷いの表情を浮かべた。学者として書物を求めて旅立つことと、密命を帯びて情報を探ることは、どこか相容れないように思えた。
「迷いがあるようだな」
鳶は静かに言った。
「知は時に刃となる——前にも言ったはずだ。お前の知識と洞察力は、単に書を読むためだけのものではない。それは国を守る盾ともなり得る」
道真は黙って考え込んだ。若き日の彼にとって、これは大きな選択だった。
「時間はある。明日の日没までに返事を聞かせてほしい。梅の木の根元に答えを置いておくといい」
そう言うと、鳶は再び闇に溶け込むように姿を消した。
***
「道真、何を考えているのだ?」
母の伴氏は、物思いに沈む息子を心配そうに見つめていた。翌日の昼下がり、道真は庭先でぼんやりと空を見上げていた。
「母上…もし学問以外の道で国に仕えるとしたら、それは学者の本分を外れることでしょうか」
伴氏は少し驚いた様子で息子を見た。
「なぜ、そのような問いを?」
「ただの思案です」
伴氏は静かに微笑んだ。
「道と言っても、一筋だけとは限らぬもの。川も幾筋もの支流を持ち、最後は大きな流れとなる。それぞれが役割を持っておる」
道真は母の言葉に耳を傾けた。
「お前が選ぶ道、それがどのような形であれ、心を正しく保ちさえすれば、本分を外れることにはならぬだろう」
「心を正しく…」
「そう。何のために知を求め、何のためにそれを用いるか。その志さえ曲がらなければ、どのような形であれ、それは正しい道となる」
道真は深く頷いた。母の言葉が、彼の迷いを少しずつ晴らしていった。
***
夕暮れ時、道真は決意を固めていた。
彼は小さな紙片に短い返事を書き、梅の木の根元に置いた。
『筆に墨を含ませるごとく、使命を受け入れん』
道真は数歩後ずさり、静かに一礼した。鳶の姿は見えなかったが、きっとどこかで見ているに違いない。
やがて月が上り始める頃、書斎に戻った道真の前に、父・是善が現れた。
「道真、筑紫行きの準備はどうだ?」
「はい、整えております」
「よい。だが、旅立つ前に話しておきたいことがある」
是善は厳かな表情で言った。
「菅原家は代々、学者として朝廷に仕えてきた。だが、学問とは単に書物の中にのみあるのではない」
道真は息を飲んだ。まるで父が彼の心の内を読んだかのようだった。
「学びとは世を知ることでもある。筑紫で多くの人と出会い、異国の風に触れ、そして…時に思いがけぬ形で国に貢献することもあるだろう」
是善の言葉に込められた意味を、道真は敏感に感じ取った。
「父上…」
「道とは一つだけではない。幹から枝が分かれるように、時に別々の道を歩むこともある。だが最後は同じ根に帰る」
是善は静かに息子の肩に手を置いた。
「菅原家の血を引くものとして、その智恵を正しく用いよ。世のために、朝廷のために」
道真は深く頭を下げた。父の言葉に、彼は決意を新たにした。
***
出発の前日、道真は自室で旅支度を整えていた。
母・伴氏が小さな木箱を持って入ってきた。
「道真、これを持っていきなさい」
箱を開けると、中には美しい象牙の筆と、小さな青磁の硯が納められていた。
「これは…」
「祖父・清公が遣唐使から贈られた品。筆記の達人だった祖父が愛用したものだ」
道真は恐れ多くも、その筆を手に取った。
「母上、このような大切なものを」
「あなたの旅が実りあるものとなるように」
伴氏は優しく微笑んだ。
「筆こそがそなたの剣。それを忘れぬように」
道真は驚いた。母の言葉が、二年前に鳶が語った言葉と響き合うように思えた。
「母上…何かご存じなのですか?」
伴氏は静かに首を振った。
「ただの母の勘。だが覚えておきなさい。菅原家は代々、表の学問と裏の知恵、両方を持つ家系なのだよ」
その夜、道真は長い間、祖父の筆を眺めていた。
筆は剣となり得るのか。学びは時に国を守る盾となるのか。
彼の胸に新たな決意が芽生えた。二つの使命を胸に、明日、彼は未知の地へと旅立つ。西の空に、一羽の烏が飛んでいった。
***
「準備は整ったようだな」
鳶は出発の朝、泉川の岸辺で道真を待っていた。船出の準備をする人々の中に紛れるように立っている。
「はい。二つの使命、果たして参ります」
道真は静かに答えた。彼の背には書物を納めた箱と、旅の道具を入れた鞄が括られている。
「これを」
鳶は小さな木製の印を渡した。
「万多羅の家に着いたら、裏庭の藤棚の下で待て。この印を見せれば、我らの同胞が接触してくる」
「同胞…八咫烏の?」
「そう。都だけでなく、各地に我らの目と耳はある」
鳶は遠くを見つめた。
「筑紫は辺境の地ではあるが、大陸との窓口でもある。そこで得る情報は、都よりも早く大陸の動きを知る手がかりとなる」
道真は印を懐に収めた。
「新羅の動向だけでなく、唐の政変についても耳を傾けよ。混乱の予兆があれば、すぐに報告してほしい」
「承知しました」
鳶は最後に、低い声でつぶやいた。
「学びと使命、どちらも疎かにしないように。しかし、まず第一に自らの身の安全を図ること」
岸辺から呼び声が上がった。出航の時間だ。
「行きなさい。我らは常にお前を見守っている」
道真は一礼し、船へと向かった。彼は振り返らなかったが、鳶の姿はすでに人ごみの中に消えていた。
***
春の海は穏やかだった。船は泉川から巨椋池、そして淀川を下り、やがて大海原へと出た。
甲板に立つ道真の顔に潮風が吹きつける。
「初めての船旅かい?」
船頭の老人が話しかけてきた。
「はい。都からこれほど離れるのも初めてです」
「ほう、都育ちかい。どこまで行くんだい?」
「博多です。筑紫への旅です」
老人は目を細めた。
「筑紫か…あそこは異界との境目じゃ。大陸の風と日本の風が交わる場所。気をつけなされ」
道真は不思議そうに首を傾げた。
「異界との境目?」
「そう。唐や新羅からの渡来人も多いし、彼らが持ち込む文物や思想も…」
老人は言葉を切った。
「若いの、学問の徒のようだが、ただ書物を求めて旅するだけではなさそうな顔をしておる」
道真は驚いて老人を見た。
「心配せんでも、わしは何も聞かん。ただ、海の上では神仏の加護だけが頼りじゃ。どうか無事に目的を果たされるよう」
老人は懐から小さな香袋のお守りを取り出し、膝に置いた。
「都では、清和天皇の御世も二十年を過ぎた。だが、筑紫では別の風が吹いておる。心して行くがよい」
老人の言葉は、道真の胸に深く刻まれた。
波間に日が沈み始め、雲が茜色に染まる。その輪郭を眺めながら、道真は考えた。
この旅は、彼の人生を大きく変えるかもしれない。学問の旅であり、同時に初めての密命を帯びた旅。
「この筆の先に、世界の輪郭があるならば…」
道真は呟いた。母から受け継いだ象牙の筆を懐から取り出し、握りしめた。
船は静かに、西の海へと進んでいく。博多の港はまだ遠く、道真の新たな冒険は始まったばかりだった。
【語り:八咫烏?】
「この話の時代背景は貞観四年(862年)頃や。道真が文章生になった年やな。実際に道真が筑紫へ行ったかどうかは記録に残ってへんけど、後に大宰権帥として筑紫へ左遷された時よりずっと前のことやから、若い時に九州へ行ったかもしれんというのは、あながち嘘でもあらへん。道真の才能は早くから認められてたさかい、朝廷からの密命なんかがあったとしても不思議やないな。この時代、清和天皇の治世(858年-876年)で、藤原良房が摂政として権力を握っていた時代や。博多は大陸との交易の窓口で、新羅(現在の韓国)や唐(中国)からの渡来人や商人が多く住んでたんや。実際に道真は漢詩や漢学に精通していき、『白氏文集』なんかも熱心に学んでたんや。道真の父・是善は実際に文章博士として朝廷に仕えてたし、祖父の清公も学者やった。菅原家は学者の家系やったんやな。この年、道真が十七歳って設定は正しいで。845年生まれやから862年なら十七歳ちょうどやな」