第3話 黒き羽音(860年)
第三話:
夏の陽が西に傾きはじめた頃、陰陽寮の北側にある小さな庭で、一人の男が静かに立っていた。
黒衣を纏い、顔には半面の仮面をつけた姿は、庭に落ちる影と一体化するかのようだった。男は「鳶」という羽名で呼ばれる八咫烏の構成員。次列の使命帯行者として、今日も密命を帯びていた。
「彼の少年、成長が早すぎる」
鳶は低い声で呟いた。手元の巻物には、ある少年の観察記録が几帳面な字で記されている。
菅原道真、十五歳。
すでに学問の道で頭角を現し始めていた天才児。父は菅原是善、現在の文章博士であり、祖父は菅原清公、朝廷に仕えた名だたる学者の家系だった。
「我らの予測より三年は早い。是非とも確かめねばならぬ」
鳶は巻物を懐に収め、庭を後にした。
***
「道真よ、今日の学びはどうだったか?」
夕食の席で、菅原是善が息子に問いかけた。道真は箸を置き、背筋を伸ばした。
「はい、父上。今日は大学寮で伊都内親王の『文選《もんぜん』』写本を拝見することができました。特に『高唐賦』についての注釈が興味深く…」
是善は目を細めて頷いた。褒められることはほとんどないが、その静かな表情に道真は父の満足を読み取った。
「よく勉学に励んでいるようだな」
「まだまだ至らぬところばかりです」
道真が謙遜すると、母の伴氏が優しく微笑んだ。
「道真はいつも夜遅くまで灯火を消さず、学びに励んでおります。先日も『文選』を諳誦する声が夜半まで聞こえておりました」
是善は厳格な表情を崩さず、
「学びに終わりはない。しかし、体を壊しては本末転倒だ」
と言った。
「はい」
道真は従順に頷いたが、その眼差しは決意に満ちていた。十五歳とは思えぬ静謐さが、彼の周りには漂っていた。
***
夜が更けた頃、道真は書斎で灯火の下、硯に墨を磨っていた。
「『灯前磨墨』か…」
静かな声が闇から響き、道真は驚いて振り返った。
窓の外に黒い影が立っていた。
「誰だ?」
「恐れることはない。名乗るとすれば…『鳶』とでも呼べばよいだろう」
静かな足取りで窓から入り込んだ黒衣の男は、庭で鳶が身につけていたのと同じ半面の仮面を着けていた。
「盗賊ではないようだな。ならば何の用だ?」
と道真は冷静に尋ねた。声の震えは全くなかった。
「盗むことなど何もない。ただ、お前の才を見極めに来た」
鳶は部屋を見回した。書物が整然と積まれ、巻物がきれいに並べられている。十五歳の若者の部屋とは思えぬ厳格さだった。
「私の才?朝廷の者でもなさそうだが…」
「朝廷の表ではない。影だ」
道真は息を飲んだ。噂には聞いていた。朝廷の裏で活動する謎の組織があるという話を。だがそれは都の怪談程度に思っていた。
「菅原道真、お前は三代にわたる学者の血を引く。だが我らが観ているのは、血筋ではない。お前自身の才だ」
「何を望まれるのですか?」
鳶は道真の机に近づき、置かれていた巻物を一つ手に取った。それは道真が最近書き留めた漢詩の習作だった。
「『月輝如晴雪、梅花似照星』…これは何歳の時の作だ?」
「十一歳の時に詠んだものです」
「当家の学塾に通ってまだ二年目だが、驚くべき成長ぶりだ」
鳶は巻物を静かに戻した。
「道真、知は時に政の刃となる。お前の学びは、やがて朝廷の力となるだろう。だが、力には責任が伴う」
「私にはまだ、そのような大それた…」
「否、お前には才がある。そして世に才ある者は、やがて選択を迫られる」
鳶は道真に近づき、低い声で続けた。
「知を己のためだけに使うか、それとも世のため、朝廷のために用いるか。その選択の時が来た時、我らはお前を再び訪れよう」
道真は静かに考え込んだ。
「私の学びが…剣になるということですか?」
「その通り。知は最も鋭い刃となる。だがそれは同時に、最も危険な刃でもある」
鳶はそう言うと、窓辺へと歩み寄った。
「我らは影から見守っている。お前の選択を、そしてその才が花開くのを」
「待ってください。あなた方は一体…」
だが鳶の姿はすでに闇に溶け込んでいた。残されたのは、夜風に揺れる灯火と、道真の混乱した思いだけだった。
***
翌日、陰陽寮の奥にある一室。
「いかがでした?」
侍烏と呼ばれる女性が、鳶に問いかけた。彼女もまた、八咫烏の一員だった。
「予想以上だ。あの年齢で、あれほどの冷静さと深い思考を持つとは」
「彼を選ぶのですか?」
「まだだ。しかし可能性は高い」
鳶は手元の報告書に朱を入れながら言った。
「彼には特別な才がある。ただの学者ではない。政の才も秘めている」
「藤原氏の台頭が続く中、菅原家の者が…」
「時代は変わる。藤原氏一族の栄華も、いつかは終わるかもしれぬ」
侍烏は静かに頷いた。
「すべては八咫烏のため、皇のために」
「その通り、すべては黒き羽搏きのそよ風に過ぎない」
誓詞を唱え終えると、二人は姿を消した。その足跡さえ、誰も気づかぬままに。
***
菅原家の書庫で、道真は古い巻物を探していた。
昨夜の出来事が、まるで夢のように思えた。だが、それが現実だったことは確かだった。
「知が剣となる…」
道真は昨夜の黒衣の男の言葉を反芻していた。
書庫の奥から、一冊の古い書物を見つけた。『貞観政要』と題された唐の政治書である。
「父上がいつも言っておられた、為政者の指針…」
道真はそれを開き、静かに読み始めた。
政とは何か。知とは何か。その交差点に自分はいるのかもしれない。そう感じ始めていた。
窓の外では、一羽の烏が静かに飛び立っていった。
***
「陛下、報告がございます」
清和天皇の御前に、藤原良房が跪いていた。
「いかがか、子息の様子は?」
「はい。基経は順調に育っております。しかし…」
「なんだ?」
「一つ、気になる動きがございます。陰陽寮の裏、八咫烏が…」
清和天皇は静かに頷いた。天皇のみが全容を知る秘密機関。表の朝廷では語られぬ存在だった。
「彼らが何を?」
「菅原家の若き者に、目を付けたようです」
「菅原道真か…」
天皇は遠い目をした。
「時代は動き始めているのだな」
「はい、陛下」
良房は静かに頭を垂れた。彼もまた、この国の未来が大きく変わろうとしていることを感じていた。
八咫烏が動くとき、それは常に大きな変化の前触れだった。
***
道真は書斎で、新たな巻物に向かって筆を走らせていた。
「知と政…」
昨夜の出来事から、道真の中で何かが変わり始めていた。学ぶことの意味が、より深く、より広がりを持って見えてきたのだ。
「私の道は、まだ見えぬ。だが、この筆を持つ手が、いつか何かの剣となるのならば…」
彼は夜空を見上げた。そこには星々が瞬き、まるで彼の未来を照らすかのようだった。
文章生として歩み始めたばかりの道真。彼の前には、まだ長く、そして険しい道のりが広がっていた。
夜空には、烏の姿はなかった。しかし、どこかで黒き羽音が響いているような気がした。
【語り:八咫烏?】
「この話の時点では、道真はまだ十五歳。まだ文章生になる前やね。実際に文章生になったんは貞観四年(862年)、十七歳の時やったんや。伊都内親王の写本を見たかどうかは史料に残ってへんけど、当時の貴族の子弟は大学寮で学んでたさかい、若い道真がそこで古典を学んでたのは間違いないやろな。都良香は、後に貞観十二年(870年)に道真が対策(試験)を受けた時の問答博士やった人物や。菅原家は確かに学者の家系で、道真の祖父の清公、父の是善と続いて文章博士を務めとった名家やった。清和天皇の時代、藤原良房は摂政として権勢を振るっとったわけや。この話に出てくる『八咫烏』は創作やけどな、朝廷には確かに陰陽寮があって、陰から天皇を支える仕組みはあったんや。道真の才能は早くから認められてたさかい、朝廷の内外から注目されてたんは間違いないやろな」