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第27話 文章得業生登用(867年)

 第27話:


 貞観九年じょうがんくねん正月、菅原道真すがわらのみちざねにとって人生における大きな節目が訪れた。文章得業生もんじょうとくごうしょうへの登用が正式に決定されたのである。


「道真、おめでとう」


 父・是善これよしは満足そうに息子を見つめていた。


「文章得業生への登用は我が家にとっても誇らしいことだ」


 道真は深々と頭を下げた。


「父上のご指導のおかげです。身の引き締まる思いにございます」


「これからが本当の勉強の始まりだ」


 是善は厳しい表情になった。


「文章得業生は単なる学生ではない。将来の対策たいさく受験に向けた本格的な修練の時期でもあり、同時に実務的な仕事も任される」


 道真は真剣に聞いていた。


「具体的にはどのような仕事でしょうか?」


「まず、後進の文章生への指導がある」


 是善は指を折りながら説明した。


「それから、朝廷の文書作成の補筆や、儀式における詩文の撰定なども求められる」


 道真の胸が高鳴った。朝廷の実務に関わることは、からすとしての活動にも大いに役立つだろう。


「さらに重要なのは、同じ文章得業生や既に対策に合格した先輩たちとの学問の交わりだ」


 是善は続けた。


「学問の世界は狭い。今築く人間関係が、将来の人生を左右することもある」


 道真は深く頷いた。


「心得ております」


 ***


 同日午後、道真は正式に下野権少掾しもつけごんのしょうじょうにも任官された。これは文章得業生登用に伴う慣例的な官職だった。


「いよいよ官途の第一歩をお踏みになりましたな」


 橘広相たちばなのひろみが祝いの言葉をかけてくれた。


「道真殿の昇進は当然の結果です」


「ありがとうございます。広相殿にもご指導いただければと思います」


 道真は謙虚に答えた。


 大学寮の空気もどこか変わって感じられた。文章得業生は文章生たちからは先輩として尊敬され、一方で既に対策に合格した官人たちからは後輩として指導を受ける立場にある。


「道真殿」


 文室真象ふんやのまさかたが近づいてきた。


「文章得業生登用、心よりお祝い申し上げます」


「ありがとうございます。真象殿もまもなく登用されるでしょう」


「そうあってほしいものです」


 真象は苦笑いした。


「ところで、文章得業生になると具体的にはどのような勉強をされるのですか?」


「対策受験に備えることが主となります」


 道真は答えた。


「『文選もんぜん』『史記』『漢書』の深い理解、詩作と散文の技術向上、そして時事問題への対応能力を磨くことになります」


「時事問題への対応、ですか」


 真象が興味を示した。


「はい。対策試験では単なる古典の知識だけでなく、現在の政治や社会問題についても問われます」


 道真は説明した。


「学問を現実に活かす知見が問われるのでございます」


 この点は、道真にとって特に重要だった。鴉としての活動で得た情報や洞察が、学問的な成果に活かされる可能性があった。


 ***


 その日の夕方、道真は菅家廊下かんけろうか門人もんじんたちに自分の昇進を報告した。


「皆さん、この度、文章得業生に登用していただきました」


 門人たちから歓声と共に祝辞があちらこちらから湧き起こった。


「道真先生、おめでとうございます」


「我々の誇りです」


 口々に祝いの言葉が聞こえる中、道真は一人一人の顔を見回した。その中に、橘清風たちばなのきよかぜの姿もあった。


「清風殿」


 道真は彼に声をかけた。


「何かご質問はありませんか?」


「はい」


 清風は立ち上がった。


「文章得業生として、社会の問題にどのように取り組まれるおつもりでしょうか?」


 道真は内心で警戒した。またしても政治の匂いを漂わせてきた。


「まずは学問の基礎をしっかりと固めることです」


 道真は慎重に答えた。


「真の学問的実力を身につけてこそ、社会に貢献できるのです」


「しかし、学問のための学問では無為に過ぎぬのではございませんか?」


 清風は食い下がった。


「今の世の中には多くの不正義があります。学者はそれを正す責任があるのではないでしょうか?」


 道真は他の門人たちの反応を見た。何人かは清風の発言に興味を示している様子だった。


「清風殿のお考えは理解できます」


 道真は冷静に答えた。


「しかし、学者が行うべき社会貢献は、正しい知識の普及と優秀な人材の育成です。政に直接関わることとは道を異にいたします」


 清風は不満そうな表情を見せたが、それ以上は反論しなかった。


 ***


 その夜、道真は自室で一人考えていた。文章得業生への昇進は喜ばしいことだったが、同時に新たな責任も背負うことになった。


 学問の位階を上げることは、鴉としての働きにも少なからぬ影響を及ぼす。禁中の奥に潜む消息を垣間見る機を得ることにもなろうが、同時に注目も集めることとなる。


 窓の外では、京の夜が静かに更けていた。遠くで夜警の拍子木ひょうしぎの音が響く。


 道真は筆を取り、今日の感慨を詩にした。


「学問の道新たなる段階 責任重くして身の引き締まる 先人の教え胸に刻みて 国を思う心忘れじ」


 詩を書き終えると、道真は決意を新たにした。文章得業生として、そして鴉として、自分の使命を果たしていこう。


 ***


 翌日、道真は大学寮で最初の実務の任に当たった。文章生たちへの指導である。


「今日は『論語』の「学而篇がくじへん」について議論しましょう」


 道真は十数人の文章生を前にして言った。


「『学而時習之、不亦説乎《がくじじしゅうし、またよろこばしからずや》』の意味を考えてみてください」


 一人の文章生が手を挙げた。


「学んだことを時々復習すれば、喜ばしいということでしょうか?」


「基本的にはその通りです」


 道真は頷いた。


「しかし、もう少し深く考えてみましょう。なぜ孔子は『時習』を重視したのでしょうか?」


 文章生たちは考え込んだ。


「単に暗記するだけでは不十分だからでしょうか?」


 別の文章生が答えた。


「そうです」


 道真は満足そうに答えた。


「学問は一度理解すれば終わりではありません。経験を積むにつれて、同じ教えでも新たな意味が見えてくる。それが『時習』の真の意味です」


 道真は筑紫つくしでの経験を思い出していた。『論語』の教えも、実際の困難に直面してこそ、その真価が理解できた。


「皆さんも、単に暗記するだけでなく、常に考え続けることを忘れないでください」


 文章生たちは真剣に聞いていた。


 指導を終えた後、道真は充実感を感じていた。後進の育成は、予想以上にやりがいのある仕事だった。


 ***


 午後、道真は紀長谷雄きのはせおと密かに面会した。長谷雄は応天門の変以来、表立った活動を控えているが、菅家廊下での学問は続けている。


「道真殿、文章得業生登用おめでとうございます」


 長谷雄は心から祝福してくれた。


「ありがとうございます。長谷雄殿のご指導のおかげでもあります」


「いえいえ、道真殿の実力です」


 長谷雄は謙遜した。


「ところで、最近の大学寮の様子はいかがですか?」


「大分落ち着いてきました」


 道真は答えた。


「ただし、学問の場にも政の陰が色濃く差し始めております」


 長谷雄は深刻な表情を見せた。


「それは好ましくないことですね」


「はい。特に一部の学生が、現政権への批判めいた発言をすることがあります」


 道真は清風のことを念頭に置いて言った。


「注意深く見守る必要があります」


 長谷雄は頷いた。


「学問の政治化は危険です。我々は常に客観性を保たなければなりません」


 道真は長谷雄の見識の深さに改めて感心した。このような優秀な学者が政治的理由で排除されるのは、本当に残念なことだった。


 文章得業生としての新たな出発は、道真にとって学問と政治の複雑な関係について、より深く考える機会となった。

【語り:八咫烏やたがらす

「貞観九年(867年)正月七日、道真はんが文章得業生に登用されたのは史実や。同時に下野権少掾に任官されたのも記録に残っとる。この時道真は22歳。文章得業生は大学寮での重要な地位で、文章生の指導や朝廷実務への参加が求められた。対策受験の準備段階でもあり、『文選』『史記』『漢書』の精密な研究が必要やった。文章得業生から対策合格までは通常数年かかり、道真の場合は870年に合格することになる。この登用により、道真は本格的な官人としてのキャリアをスタートさせることになった。当時の文章得業生は朝廷の文書作成にも関わり、政治の実務に触れる重要な立場やった。紀長谷雄との交流も、学問的な人脈形成として重要な意味を持っとったやろう」

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