第26話 権力の嵐(866年)
第26話:
伴善男の流罪が決定された日、菅原道真は大学寮で異様な光景を目撃していた。これまで頻繁に姿を見せていた大伴氏・紀氏出身の文章生たちが、一人、また一人と姿を消していくのだった。
「道真殿」
文室真象が沈痛な面持ちで近づいてきた。
「大伴文雄殿が大学寮を辞された」
道真は驚いた。文雄は優秀な文章生で、将来を嘱望されていた人物だった。
「連連座の咎に連なることとなったのでしょうか?」
「はい。彼の叔父が伴善男殿の側近だったため、一族郎党として処分を受けたのです」
真象の声には抑えきれぬ憤りがにじんでいた。
「学問に政治を持ち込むべきではないと思うのですが...」
道真は周囲を見回した。講堂の一隅で紀氏の若者たちが無言で荷をまとめ、その目には悔し涙が浮かんでいた。
「これが他氏排斥ということなのですね」
道真は小声でつぶやいた。
その時、橘広相が血相を変えて駆け寄ってきた。
「大変です!紀長谷雄殿が...」
「長谷雄殿がどうかされましたか?」
道真が尋ねた。長谷雄は当代随一の学者として知られていた。
「官職を解かれるやもしれぬとのことです」
広相は息を切らしながら答えた。
「紀氏の血筋ということで、疑いをかけられているのです」
道真は愕然とした。長谷雄ほどの学者でも、血筋だけで排除されるのか。
***
その日の午後、道真は父・是善のもとを急いで訪れた。
「父上、大変なことになっています」
道真はやや語気を荒げて告げた。
「大学寮から大伴氏・紀氏の学者たちが次々と排除されています」
是善は深刻な表情で頷いた。
「やはりそうなったか。予想していたことだが、実際に起こると衝撃は大きいな」
「このままでは学問の世界が政治に支配されてしまいます」
道真は憤慨していた。
「優秀な学者たちが血筋だけで排除されるなど、あってはならないことです」
是善は息子の肩に手を置いた。
「道真、お前の気持ちはよく分かる。しかし、これが政治の現実だ」
「現実だからといって、受け入れるべきでしょうか?」
「いや、受け入れる必要はない」
是善は立ち上がった。
「しかし、正面から反対することもできない。我々にできることは、優秀な学者たちを陰で支えることだ」
道真は父の言葉に考え込んだ。
「具体的には?」
「菅家廊下だ」
是善は決意に満ちた表情で答えた。
「大学寮から排除された優秀な学者たちを、我々の私塾で受け入れよう」
道真は目を輝かせた。それは実に意義深きことと思えた。
「ただし、表立ってはできない」
是善は注意を促した。
「あくまで個人的な学問の交流という形でなければならない」
***
翌日、道真は大学寮で紀長谷雄と密かに面会した。長谷雄は疲れ切った様子だったが、その目には不屈の意志が宿っていた。
「道真殿、お忙しい中をありがとうございます」
長谷雄は深く一礼した。
「このたびは、思いもよらぬことになってしまいました」
「長谷雄殿、父から申し上げたいことがあります」
道真は周囲を確認してから言った。
「もしご希望でしたら、菅家廊下での学問継続をお考えいただけませんでしょうか」
長谷雄の表情が明るくなった。
「それは...本当でしょうか?」
「はい。父は『真の学問に血筋は関係ない』と申しております」
道真は力強く答えた。
「ただし、表向きは個人的な交流ということにしなければなりません」
長谷雄は涙を浮かべた。
「菅原家のご厚意、生涯忘れません」
二人は固く握手を交わした。
***
一方、藤原氏の勢力拡大は目覚ましいものがあった。道真は朝廷での藤原氏一族の動きを注意深く観察していた。
摂政・藤原良房の権力は絶大で、清和天皇への影響力は計り知れない。良房の養子・基経も左近衛中将として頭角を現していた。
「これからは藤原氏の時代になるのでしょうね」
橘広相が複雑な表情で言った。
「我々のような他姓の者は、より一層注意深く行動しなければなりません」
道真は頷いた。橘氏もまた、今回の事件で微妙な立場に置かれていた。
「しかし、学問の世界まで血筋で決まるようになっては困ります」
道真は静かに答えた。
「真の実力者が正当に評価される世の中であってほしいものです」
その時、菅家廊下の門人である橘清風が近づいてきた。
「道真先生、お話し中失礼いたします」
清風の表情はいつになく興奮していた。
「このたびの事件について、ぜひご意見をお聞かせください」
道真は警戒した。清風の政治的発言には常に注意を払っていた。
「どのような意見をお求めでしょうか?」
「権力者が己の利を以て他氏を退けるがごとき振る舞いについてです」
清風は熱弁を振るい始めた。
「これは、まさしく道理に反する所業ではございませんか?世を正す政の改めこそが、今こそ必要と存じます」
道真は内心で警戒を強めた。これはまさに華胥道の論調だった。
「清風殿のお気持ちは理解できます」
道真は慎重に答えた。
「しかし、我々学者が政治的な判断を下すのは適切ではないでしょう」
「なぜでしょうか?」
清風は食い下がった。
「学者こそが正義を追求すべきではないですか?」
「正義の追求と政治的活動は別物です」
道真は冷静に答えた。
「我々の使命は学問を通じて真理を探究することです」
清風は不満そうな表情を見せたが、それ以上は反論しなかった。
***
その夜、道真は鴨川のほとりで鴉の連絡係と会っていた。
「応天門の変の影響は想像以上に大きいようですね」
連絡係が口を開いた。
「華胥道の活動も活発化しています」
道真は頷いた。
「清風という門人の動きが気になります」
「彼についてはすでに情報を得ています」
連絡係は答えた。
「間違いなく華胥道の影響下にあります。今回の政変を利用して、より積極的な工作活動を展開する可能性があります」
道真は決意を固めた。
「引き続き、目を配ってまいります」
「お願いします。それと、菅家廊下での新たな門人受け入れについてですが...」
連絡係はどこか含みのある微笑を浮かべた。
「紀長谷雄殿のような優秀な学者を受け入れることは、我々にとっても有益です」
道真は複雑な気持ちになった。父の善意による行動が、結果的に鴉の活動に利用される可能性があった。
しかし、長谷雄のような真の学者を救うことは、間違いなく正しいことだった。
応天門の変は、政の構図に大きな揺らぎをもたらした。そして、道真にとっても新たな挑戦の始まりとなった。
【語り:八咫烏】
「応天門の変の影響で、大伴氏・紀氏の官人や学者が大量に処罰・失脚した。紀長谷雄は実在の人物で、文章博士として活躍した学者や。この事件で一時的に不遇を囲んだが、後に復活することになる。大伴文雄も実在で、巨勢文雄の間違いかもしれへんが、いずれにせよ当時の学者が政治的影響を受けたのは事実や。菅家廊下が政治的に排除された学者を受け入れたかどうかは史料にないが、菅原家の学問的寛容さを考えれば十分あり得る話や。この時期の藤原良房は摂政として絶大な権力を持ち、基経も左近衛中将として頭角を現しとった。他氏排斥は藤原氏の基本戦略で、この事件でそれが決定的になった。道真はこの時21歳で、政治の現実を肌で感じた重要な体験やったやろう」