第25話 応天門炎上(866年)
第25話:
貞観八年三月十日の夜、京の都に衝撃が走った。応天門が、突如として火に包まれたのである。。菅原道真は自宅で書物を読んでいた時、遠くに見える赤い炎と立ち上る煙に気づいた。
「火事でしょうか?」
葦切が慌てて駆け込んできた。
「どうやら内裏の方角のようです」
道真は急いで外に出た。夜空を赤く染める炎が、確かに宮中の方向から上がっている。
「これは只事ではありませんね」
道真は緊張した面持ちで炎を見つめた。
間もなく、近所の人々も外に出て騒ぎ始めた。
「応天門が燃えているらしい」
「大変なことになった」
「これは、ただ事ではあるまい。天の警めかもしれぬ」
口々に不安の声が聞こえる中、道真は静かに事態の推移を見守っていた。
***
翌朝、京の都は応天門炎上の話題で持ちきりだった。道真は父・是善と共に、詳しい情報を収集しようと努めていた。
「どうやら放火らしいな」
是善は深刻な表情で言った。
「しかし、犯人については諸説入り乱れている」
「いかなる風聞が流れておるのですか?」
道真が尋ねた。
「大納言・伴善男が左大臣・源信を疑っているという話がある」
是善は眉をひそめた。
「一方で、伴善男自身が犯人だという噂も流れている」
道真は緊張した。これは単なる火災事件ではなく、朝廷内の権力闘争に発展する可能性があった。
「父上はどのようにお考えですか?」
「まだ判断するには情報が不足している」
是善は慎重に答えた。
「しかし、このような事件が起これば、必ず政治的な影響が出る。我々は注意深く様子を見守る必要がある」
その時、門の外から騒がしい声が聞こえてきた。
「何事でしょうか」
道真が外を見ると、近所の人々が集まって熱心に議論している。
「源信様が逮捕されるかもしれないという話です」
使用人の一人が報告した。
「伴善男様が強く疑いをかけておられるとか」
道真と是善は顔を見合わせた。事態は予想以上に深刻になりそうだった。
***
午後、道真は大学寮を訪れた。学者たちがこの事件をどのように受け止めているかを確認するためだった。
「道真殿」
文室真象が声をかけてきた。
「大変なことになりましたね」
「ええ。朝廷にとって大きな危機です」
道真は真剣な表情で答えた。
「真象殿はどのようにお考えですか?」
「正直なところ、困惑しています」
真象は率直に答えた。
「伴善男殿と源信殿、どちらも朝廷の重鎮です。このような争いが起これば、政の中枢に大きな揺らぎが生じましょう」
その時、橘広相が近づいてきた。
「お二人とも、応天門の件で議論されているのですね」
「広相殿もご心配でしょう」
道真が答えた。
「私が気になるのは、この事件の背景です」
広相は声を潜めた。
「単なる個人的な恨みではなく、もっと大きな政治的意図があるのではないでしょうか」
道真は内心で同感した。鴉としての直感が、この事件の裏に何か大きな陰謀があることを告げていた。
「具体的にはどのような意図でしょうか?」
真象が尋ねた。
「それは...」
広相は言いかけて口を閉じた。大学寮のような公の場で、あまり政治的な推測を述べるのは適切ではないと判断したのだろう。
「いずれにせよ、我々学者は冷静に事態を見守るべきです」
道真がまとめた。
「感情的になったり、根拠のない噂に惑わされたりしてはいけません」
二人は深く頷いた。
***
その日の夕方、道真は鴨川のほとりで鴉の連絡係と密会していた。
「応天門の件、どう見ておられますか?」
連絡係が尋ねた。
「非常に複雑な事件だと思います」
道真は慎重に答えた。
「表面的には伴善男と源信の対立に見えますが、その背景にはもっと大きな権力闘争があるのではないでしょうか」
「その通りです」
連絡係は頷いた。
「摂政・藤原良房の影響力拡大を阻止しようとする勢力の動きとも関連している可能性があります」
道真は興味深く聞いていた。
「良房殿が?」
「はい。良房殿は清和天皇の外祖父として強大な権力を持っています。それを快く思わない勢力が、混乱を引き起こそうとしているのかもしれません」
連絡係は続けた。
「そして、そのような混乱に乗じて活動を活発化させる者たちもいます」
「華胥道のことですね」
道真は理解した。
「その通りです。彼らは朝廷内の対立を利用して、自分たちの思想を浸透させようとしています」
連絡係の表情が厳しくなった。
「道真殿には、学者としての立場を活かして、その動向を静かに見定めていただきたい」
「承知いたしました」
道真は決意を固めた。
***
数日後、事態は予想通り深刻化した。源信が犯人として疑われ、右大臣・藤原良相が左近衛中将・藤原基経に逮捕を命じた。
しかし、基経はこの命令を怪しんで養父・良房に相談した。良房の尽力により、源信は無実であることが判明し、逆に伴善男が真犯人として疑われることになった。
道真は自宅でこれらの情報を整理していた。
「見事な権謀術数ですね」
是善が感心するように言った。
「良房殿の政治手腕は見事なものだ」
「しかし、これで本当に事件は解決するのでしょうか?」
道真は疑問を呈した。
「伴善男殿が本当に犯人なのか、それとも政治的な犠牲者なのか」
「それは分からない」
是善は正直に答えた。
「しかし、政治の世界では真実よりも力関係が重要な場合がある。残念なことだが、それが現実だ」
道真は複雑な気持ちだった。学者として真実を追求したい気持ちと、政治の現実を受け入れなければならない状況の間で揺れていた。
***
さらに数日後、ついに密告により伴善男が真犯人とされ、遠地へと配流された。同時に、伴善男に連座した大伴氏、紀氏の多くが処罰を受けた。
道真は大学寮で、この結果について同僚たちと議論していた。
「大伴氏、紀氏への打撃は深刻ですね」
真象が心配そうに言った。
「古代からの名族が、一度の事件でこれほど没落するとは」
「それが政治の恐ろしさです」
広相が答えた。
「一つの判断ミスが、一族全体の運命を左右する」
道真は黙って聞いていた。この事件を通じて、彼は政治の冷酷さと複雑さを深く理解した。
「我々学者も他人事ではありません」
道真がついに口を開いた。
「学問の世界も政治と無縁ではない。常に注意深く行動する必要があります」
二人は深く頷いた。
その時、道真は菅家廊下の門人である橘清風のことを思い出した。彼のような政治的発言をする者は、このような時代にどのような行動を取るだろうか。
道真は、胸の奥底で一層の警戒を誓った。
応天門の変は、道真にとって政治の現実を学ぶ貴重な機会となった。同時に、鴉としての活動がより重要になることも実感していた。
京の都に平穏が戻るには、まだ時間がかかりそうだった。
【語り:八咫烏】
「貞観八年(866年)三月十日の応天門炎上は、平安時代前期の重大事件や。この事件で伴善男が失脚し、大伴氏・紀氏が大打撃を受けた。一方で藤原良房の権力はさらに強固なものとなった。事件の真相は後世に至るまで諸説紛々とし、伴善男が源信を陥れようとして逆に自分が破滅したというのが通説や。藤原基経が良相の逮捕命令を疑って良房に相談したのは史実で、これが源信救済につながった。この事件により、古代からの名族である大伴氏・紀氏の勢力が大幅に削がれ、藤原氏の他氏排斥が決定的になった。道真はこの時21歳で、政治の恐ろしさを間近で目撃することになる。応天門は平安宮の正門で、その炎上は都の人々に大きな衝撃を与えた。この事件の影響は長く続き、後の政治情勢にも大きな変化をもたらした」