第24話 文章得業生への道(865年)
第24話:
梅雨の季節が過ぎ、京の町にも、夏の気配が色濃くなりつつあった。菅原道真は書斎で父・是善と向かい合っていた。この日は、道真の将来について重要な相談があった。
「道真、お前もそろそろ文章得業生を目指す時期に来ている」
是善は真剣な表情で切り出した。
「文章生としての基礎は十分身についた。次の段階に進むべきだろう」
道真は深く頷いた。文章得業生は紀伝道における重要な段階で、将来の対策受験に向けた準備期間でもある。
「承知いたしました。ご指導をお願いします」
「うむ」
是善は満足そうに答えた。
「文章得業生になれば、より高度な学問に取り組むことになる。『文選』『史記』『漢書』の精密な読解、そして詩作と散文の技術向上が必要だ」
道真は真剣に聞いていた。筑紫での経験を通じて、学問の奥深さを実感していた彼にとって、さらなる研鑽は願ってもないことだった。
「それに、お前には特別な経験がある」
是善は続けた。
「筑紫での三年間で得た見識は、他の文章生にはないものだ。それを活かせば、きっと優秀な文章得業生になれるだろう」
道真は胸が熱くなった。父の期待に応えたい気持ちと、鴉としての使命を果たさなければならない責任感が、複雑に絡み合っていた。
「父上、菅原家の学統について改めて教えていただけませんか?」
道真は慎重に尋ねた。
「我々が代々文章博士を務めてきた意味を、もう一度確認したいのです」
是善は息子の真剣な態度に感心した様子を見せた。
「よい心がけだ」
是善は立ち上がり、書棚から古い書物を取り出した。
「これは祖父・清公の手記だ。菅原家の使命について書かれている」
道真は丁寧に書物を受け取った。
「清公は何と記しておられるのですか?」
「『文章は国家の基なり。美しき言葉もて民を導き、正しき道理もて君主を補佐すべし』」
是善は暗誦するように言った。
「我々の学問は、決して個人の栄達のためではない。国家の安泰と民の幸福のためにある」
道真は深く頷いた。祖父の教えは、鴉としての使命と通じるものがあった。
「では、文章得業生としての心構えを教えてください」
「まず、謙虚であることだ」
是善は指を折りながら説明した。
「学問に終わりはない。常に学び続ける姿勢を忘れてはならない」
「はい」
「次に、実用性を重視することだ。ただ美文を綴るのみでは不十分。その文章が実際に国家や社会の役に立つものでなければならない」
道真はこの点に特に関心を示した。筑紫での経験を通じて、言葉の実用的な力を痛感していたからだ。
「そして最後に、品格を保つことだ」
是善の表情が厳しくなった。
「学者は常に多くの人から注目される。その言動は菅原家の名誉に関わる。軽率な行動は慎まなければならない」
道真は背筋を伸ばした。鴉としての活動は、まさにこの「品格」との兼ね合いが難しい部分だった。
***
その後、道真は菅家廊下の門人たちとの勉強会に参加した。今日の参加者は十人ほどで、様々な身分の若者が集まっていた。
「今日は『文選』の中から、陸機の「文賦」を読みましょう」
道真が提案した。
「文章作成の理論について学ぶのに適した作品です」
門人たちは興味深そうに書物を開いた。
「道真殿」
一人の門人が手を挙げた。
「陸機の文章論で最も重要な点は何でしょうか?」
「それは『情に発して文に成る』という考え方だと思います」
道真は丁寧に答えた。
「真の文章は、作者の内なる感情や思想から生まれる。技巧だけでは本当の文章は書けないということです」
門人たちは深く頷いた。
「では、我らが筆を執る際、最も心すべきことは何でしょうか?」
別の門人が質問した。
「まず、自分の心を正直に見つめることです」
道真は筑紫での経験を思い出しながら答えた。
「そして、その文章が読む人にどのような影響を与えるかを考えること。文章には人の心を動かす力があります。その力を正しく使わなければなりません」
門人の一人、橘清風が発言した。
「道真先生のお話はいつも実践的ですね。筑紫でのご経験が活かされているのでしょう」
道真は清風を注意深く見つめた。以前から気になっている人物だった。
「清風殿も詩作に優れておられますが、どのような心がけで書いておられるのですか?」
「私は『時代の要請に応える』ことを心がけています」
清風は自信に満ちた表情で答えた。
「今の世の中には多くの問題があります。学者として、それらの問題を詩や文章で表現し、解決の糸口を示すべきだと思います」
道真は内心で警戒を強めた。この発言には華胥道の影響を感じる。
「具体的にはどのような問題をお考えですか?」
「例えば、貧富の差の拡大や、政治の硬直化などです」
清風は熱弁を振るった。
「学びの徒が象牙の塔に籠もってばかりではなりませぬ。現実の社会問題に向き合うべきです」
他の門人たちは清風の話に興味を示していたが、道真は違和感を覚えた。
「清風殿のお考えは理解できます」
道真は慎重に答えた。
「しかし、学者が政治的な問題に関わる時は、十分な注意が必要だと思います」
「なぜでしょうか?」
清風が反論した。
「学問は社会のためにあるのではないでしょうか?」
「もちろんです。しかし、学問の中立性を保つことも重要です」
道真は冷静に答えた。
「偏狭なる政論に傾けば、学問の中立性は失われてしまいます」
清風は少し不満そうな表情を見せたが、それ以上は反論しなかった。
勉強会が終わった後、道真は清風の動向をさらに注意深く観察する必要があると感じていた。
***
夕方、道真は久しぶりに大学寮を訪れた。文章得業生を目指すにあたって、正式な手続きについて確認するためだった。
「道真殿」
大学頭の菅原清公の後任である学官が、道真を迎えた。
「文章得業生への昇進を希望されるとのこと、承知いたしました」
「よろしくお願いします」
道真は丁寧に頭を下げた。
「是善殿からも推薦状をいただいております。手続きは問題ないでしょう」
学官は書類を確認しながら言った。
「ただし、文章得業生になれば、より高度な責任も伴います」
「どのような責任でしょうか?」
「後進の指導、公文書の起草補助、そして将来の対策受験準備などです」
学官は続けた。
「特に公文書の起草は重要です。朝廷の文書に筆を入れることすらあり得ましょう」
道真は胸の高鳴りを感じた。それは鴉としての活動にも大きく関わってくる可能性があった。
「承知いたしました。責任を持って取り組みます」
「期待しております」
学官は満足そうに頷いた。
「手続きは来月には完了するでしょう」
***
その夜、道真は自室で一人考えていた。文章得業生への昇進は、彼の人生における重要な転換点になりそうだった。
学者としての道が本格的に始まる。同時に、鴉としての活動もより複雑で重要なものになるだろう。
窓の外では、京の夜が静かに更けていた。遠くで寺の鐘が響く。
道真は筆を取り、自分の決意を詩に表した。
「学問の道深くして険しけれど 志を立てて歩まん真理の径 筆を持つ手に責任重く 国を思う心忘れじ」
詩を書き終えると、道真は深く息を吸った。明日からまた、新たな挑戦が始まる。
学者として、そして鴉として、自分の使命を果たすために。
【語り:八咫烏】
「貞観七年(865年)夏の頃、道真はんが文章得業生を目指し始めた時期や。実際に道真が文章得業生に登用されるのは867年(貞観九年)やから、この時期は、文章得業生となるための助走期間やったわけやな。菅原清公は道真の祖父で、大学頭・文章博士を務めた名門学者や。菅原家は清公の時代から文章道の家として確立され、是善、道真と三代続けて文章博士を務めることになる。『文選』は中国南朝梁の昭明太子が編纂した詩文集で、平安時代の学者にとって必読書やった。陸機の「文賦」は文学理論の古典として重要視されとった。大学寮では文章生から文章得業生への昇進は重要な段階で、より高度な学問と実務を学ぶことになる。この時期の道真はまだ20歳で、将来への大きな期待と責任を感じとったことやろう」