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第23話 鴉からの新指令(865年)

 第23話:


 春の陽気が、みやこの町をやわらかく包んでいた。菅原道真すがわらのみちざね鴨川かもがわのほとりを歩きながら、この一年の変化を振り返っていた。帰京してから八ヶ月、京での生活にもようやく慣れてきた。


 しかし、平穏な日々の裏では、様々な暗雲が立ち込めていることも感じていた。藤原清廉ふじわらのきよかどから受け取った詩集の分析結果は、予想以上に深刻だった。


「道真殿」


 背後から声をかけられた。振り返ると、黒衣こくいの影が、静かに佇んでいた。からす連絡係れんらくがかりだった。


「お疲れさまです」


 道真は頭を下げた。


「こちらこそ。京での活動、順調に進んでいるようですね」


 連絡係は満足そうに言った。


「清廉から入手した詩集の分析報告、拝見させていただきました」


 道真は頷いた。あの詩集には、確かに華胥道かじょどうの思想が巧妙に織り込まれていた。表面的には美しい自然詩や恋愛詩に見えるが、読み解くと政治的なメッセージが隠されている。


「今後の方針についてお話があります」


 連絡係は声を潜めた。


「少し場所を変えましょう」


 二人は川沿いを歩きながら、人気ひとけのない場所へ向かった。


「華胥道の京都浸透は、我々が予想した以上に進んでいます」


 連絡係が口を開いた。


「詩文の会合、商人の結びつき、そして一部の寺院にまで影響が及んでいる可能性があります」


 道真は深刻な表情を見せた。


「寺院にも?」


「はい。特に新しく建立された寺や、地方から移ってきた僧侶の中に怪しい動きがあります」


 連絡係は続けた。


「彼らは仏の教えを装い、現世の苦を強調し、理想郷への憧れを人々の胸に植え付けているようです」


 道真は筑紫での経験を思い出した。華胥道は宗教も利用する。彼らにとって、手段は問わないのだ。


「具体的にはどのような活動を?」


「法話の中で『この世は苦しみに満ちている』『真の救いは理想の国にある』といった内容を説いているようです」


 連絡係の表情が曇った。


「表面的には仏教の基本的な教えに見えますが、実際には現体制への不満を掻き立てる意図があります」


 道真は頷いた。実に巧妙な手法だった。


「今後、道真殿には学者としての立場を活かして、より深く潜入していただきたいと思います」


 連絡係が新たな指令を告げた。


「具体的には?」


「まず、大学寮だいがくりょうでの情報収集を強化してください。特に新しく参加した学者や、思想的に変化を見せている人物に注目を」


 道真は理解を示した。


「それと、可能であれば菅家廊下かんけろうかを利用した情報網の構築もお願いします」


「菅家廊下を?」


 道真は少し驚いた。


「はい。菅家廊下の門人もんじんたちは将来、朝廷の重要な地位に就く可能性が高い。今のうちに信頼関係を築いておけば、貴重な情報源となります」


 連絡係の提案は理にかなっていた。しかし、父・是善これよしの私塾を鴉の活動に利用することには、道真は複雑な思いを抱いた。


「もちろん、是善殿には知られないよう、細心の注意を払ってください」


 連絡係は道真の心境を察したように言った。


「我々の目的は国家の安泰です。そのためには、あらゆる手段を講じる必要があります」


 道真は沈黙した。鴉としての使命と、学者としての良心の間で揺れていた。


「時間をかけて考えていただいて結構です」


 連絡係は理解を示した。


「ただし、華胥道の活動は日々拡大しています。我々も迅速に対応する必要があります」


 そう言うと、連絡係は静かに立ち去った。


 ***


 その夜、道真は自室で一人考え込んでいた。鴉からの新しい指令は重要だが、同時に困難でもあった。


 菅家廊下を情報網として利用する。それは確かに効果的な方法だろうが、真摯に学問を志す門人らを、影の任務に巻き込むことにもなりかねぬ。


 道真は机の上に置かれた清廉の詩集を見つめた。この詩集を分析している時、彼は学者としての純粋な興味と、鴉としての任務意識の間で複雑な気持ちを抱いていた。


 学問の場が政治的謀略に利用される。それは道真が最も嫌うことの一つだった。しかし、自分もまた、同じことをしようとしているのではないか。


 窓の外では、京の夜が静かに更けていた。遠くで夜警の拍子木ひょうしぎの音が響く。


 道真は筆を取り、短い詩を書いた。


「学問の道に迷いあり 純なる心と使命の間 いずれを選ぶべきか 天に問いても答えなし」


 詩を書き終えると、道真は深いため息をついた。明日からまた、難しい選択を迫られる日々が続くだろう。


 ***


 翌朝、道真は久しぶりに菅家廊下を訪れた。朝の光が差し込む教室では、様々な身分の若者たちが熱心に学んでいる。


「皆、よく励んでいるな」


 是善が満足そうに言った。


「おかげさまで、優秀な人材が多く集まっています」


 道真は学生たちの顔を一人一人見回した。彼らの多くは純粋に学問を愛し、将来への希望を抱いている。そんな彼らを、果たして諜報活動に利用してよいものだろうか。


「道真、どうした?」


 是善が息子の様子に気づいた。


「何か悩みがあるのか?」


「いえ、特には...」


 道真は曖昧に答えた。


「ただ、学問の在り方について考えることがあります」


「学問の在り方?」


「はい。学問は純粋であるべきか、それとも現実の問題解決に役立つべきか」


 是善は深く考える表情を見せた。


「それは古くからの問題だな」


 是善は続けた。


「しかし、我々菅原家の立場は明確だ。学問は国家と民のために存在する。ただしそれが、政の争いの具と成り下がることとは、まるで異なる」


 道真は父の言葉に耳を傾けた。


「学問を通じて国を支える。それが我々の使命だ。しかし、その過程で学問の純粋性を失ってはならない」


 是善の言葉が、道真の心に響いた。父は鴉のことは知らないが、自分の葛藤を理解してくれているようだった。


「父上の教えを心に刻みます」


 道真は深く頭を下げた。


 ***


 午後、道真は大学寮を訪れた。文室真象ふんやのまさかたと約束していた勉強会があった。


「道真殿、お待ちしておりました」


 真象が迎えてくれた。


「今日は『史記』の講読でしたね」


「はい。楽しみにしていました」


 二人は図書室の一角に座り、書物を開いた。


「ところで道真殿」


 真象が話し始めた。


「最近、妙な噂を耳にするのです」


「どのような噂ですか?」


「朝廷に不満を持つ者たちが、密かに集まっているという話です」


 道真の警戒心が高まった。


「どこで、そのような話を?」


「詩会や文章の集まりで、それとなく聞こえてくるのです」


 真象は声を潜めた。


「表面的には学問的な議論なのですが、その根底に政治的な意図を感じることがあります」


 道真は頷いた。真象も華胥道の影響に気づき始めているようだった。


「具体的にはどのような内容でしょうか?」


「『現在の政治は民の心を理解していない』『真の学者であれば、より良い統治を考えるべき』といった話です」


 真象は困惑した表情を見せた。


「言っていることは間違いではないのですが、何か違和感があるのです」


「違和感、ですか」


「はい。まるで誰かが意図的に、そのような話題を持ち出しているような印象を受けます」


 道真は真象の洞察力に感心した。彼もまた、華胥道の工作に気づいているのだ。


「真象殿はどのように思われますか?」


「学問と政治は密接な関係にありますが、学問の場が政治的謀略に利用されるのは好ましくありません」


 真象は真剣な表情で言った。


「我々は純粋に学問を愛し、その成果を国家のために役立てるべきです」


 道真は深く頷いた。真象の考えは、自分の理想と一致していた。


「もし真象殿がおっしゃるような動きがあるとすれば、我々はどう対処すべきでしょうか?」


「まずは、正確な情報を収集することです」


 真象は慎重に答えた。


「そして、純粋な学問の場を守るため、結束することです」


 道真は真象との対話を通じて、新たな可能性を見出した。鴉の情報網を構築するのではなく、学問を愛する者たちの自然な結束を促すこと。それが最も効果的で、かつ道徳的な方法かもしれない。


 ***


 夕刻、道真は再び鴨川のほとりを歩いていた。今日の出来事を整理し、今後の方針を考えるためだった。


 連絡係からの指令と、父や真象との対話。様々な要素を総合すると、一つの結論が見えてきた。


 菅家廊下や大学寮を諜報網として利用するのではなく、学問を愛する者たちの自発的な結束を促進する。その結果として、華胥道の浸透工作に対抗する力を生み出す。


 それが、学者としての良心と、鴉としての使命を両立させる方法かもしれない。


 道真は決意を固めた。明日から、新たなアプローチを試してみよう。


 学の潔きを保ちつつ、国の安寧に尽くす――それこそが、己の歩むべき道なのだ。それが自分の道だった。

【語り:八咄烏やたがらす

「貞観七年(865年)、道真はんが帰京してから一年ほど経った頃や。この時期の道真は、まだ文章生の身分。文章得業生に登用されるのは、貞観九年(867年)のことで、あと二年先の話や。菅家廊下は是善が主宰する私塾で、多くの優秀な門人を抱えとった。当時の私塾は官学である大学寮と並ぶ重要な教育機関やった。文室真象は実在の人物で、後に文章博士になる秀才。道真とは同世代で、学問を通じた親交があった。この時代の学者たちは政治への関心も高く、学問と政治の関係について常に議論しとった。ただし、まだ摂関政治が本格化する前で、学者の政治参加は限定的やった。鴨川は平安京の東を流れる川で、学者や文人がよく散策に訪れる場所やった」

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