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第22話 大学寮再び(864年)

 第22話:


 秋の気配が色濃くなる中、菅原道真すがわらのみちざね大学寮だいがくりょうの講堂へと歩を進めていた。橘広相たちばなのひろみから聞いた詩会に参加するためだった。


「道真殿、お待ちしておりました」


 広相が講堂の入り口で迎えてくれた。


「ありがとうございます。楽しみにしていました」


 講堂の中では、既に十数人の文章生もんじょうしょう文章得業生もんじょうとくごうしょうが集まっていた。道真が知らない顔も多い。


「皆さん、筑紫つくしから戻られた菅原道真殿です」


 広相が紹介すると、参加者たちが興味深そうに道真を見つめた。


「道真殿のお噂はかねがね伺っております」


 一人の青年が近づいてきた。


文室真象ふんやのまさかたと申します」


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 道真は丁寧に挨拶を返した。真象は道真と同年代で、知的な雰囲気を漂わせている。


「筑紫での三年間、どのような学問に取り組まれたのですか?」


 真象が興味深そうに尋ねた。


「主に渡来人とらいじんが持参した書物の研究でした」


 道真は慎重に答えた。


「特に詩の分野で、興味深い作品に出会うことができました」


「それは素晴らしい。ぜひ詳しくお聞かせください」


 その時、講堂の奥から声が響いた。


「皆さん、お集まりいただきありがとうございます」


 声の主は、道真の知らない中年の男性だった。品のある装いで、学者らしい風格を持っている。


「あちらの御方は?」


 道真が広相に小声で尋ねた。


大江音人おおえのおとひと先生です」


 広相が答えた。


文章博士もんじょうはくしで、この詩会を主宰されています」


 道真は興味深く音人を見つめた。大江音人は当代きっての学者として知られており、道真も名前は聞いたことがあった。


「今日は新しい参加者もおられるようですね」


 音人は道真の方を見た。


「菅原道真殿でしょうか。是善これよし殿のご子息と伺っております」


「はい。お初にお目にかかります」


 道真は立ち上がって挨拶した。


「筑紫でのご経験について、後ほどお聞かせいただきたいと思います」


 音人は温和な笑みを浮かべた。


「さて、今日の詩会を始めましょう。今回のお題は『秋思』です」


 参加者たちがそれぞれ詩作に取り組み始めた。道真も筆を取り、考えを巡らせた。


 秋の思い。故郷に帰った感慨。そして、これから始まる新たな戦いへの決意。様々な思いが頭の中を駆け巡る。


 しばらくして、音人が声をかけた。


「それでは、順番に発表していただきましょう」


 最初に発表したのは真象だった。


「帰雁南飛思故郷 楓葉染紅映夕陽 学問之道雖艱難 志士之心不可忘」


(帰雁南に飛びて故郷を思う 楓葉紅に染まりて夕陽に映ず 学問の道艱難なりといえども 志士の心忘るべからず)


「素晴らしい詩ですね」


 音人が評価した。


「学問への志を込めた、力強い作品です」


 次々と参加者が発表していく中、道真の番が来た。


「故郷帰来三年後 人事已非昔日同 筆墨雖是学者具 時代変遷心亦重」


(故郷に帰り来たりて三年の後 人事已に昔日と同じからず 筆墨学者の具なりといえども 時代変遷して心もまた重し)


 講堂が静まり返った。道真の詩には、単なる感傷を超えた深い思索が込められていた。


「興味深い詩ですね」


 音人がゆっくりと口を開いた。


「三年という歳月がもたらした変化への洞察――そこに滲む、学者としての覚悟と使命感。道真殿の経験の深さが感じられます」


「ありがとうございます」


 道真は頭を下げた。


 詩会が続く中、道真は参加者たちを注意深く観察していた。皆、真摯しんしに学問に取り組んでいるように見える。しかし、中には何か違和感を覚える人物もいた。


 特に気になったのは、隅の方に座っている青年だった。他の参加者よりも少し年上で、その眼差しには、計算高いものを秘めているように思えた。


「あの方はどなたですか?」


 道真が広相に小声で尋ねた。


藤原清廉ふじわらのきよかど殿です」


 広相が答えた。


大宰少弐だざいしょうにのご子息で、半年ほど前から京におられます」


 道真の警戒心が高まった。大宰府関係者ということは、筑紫での出来事と何らかの関係があるかもしれない。


 やがて清廉の番が来た。


「世道澆薄嘆人心 賢愚顛倒失其真 若得聖君施仁政 四海昇平可復臨」


(世道澆薄にして人心を嘆く 賢愚顛倒してその真を失う もし聖君を得て仁政を施さば 四海昇平復た臨むべし)


 道真は眉をひそめた。一見すると堂々たる詩文だが、よく読めば現政への批判が仄めかされているようでもあった。


「力強い詩ですね」


 音人が評価した。


「政治への関心の高さが窺えます」


 しかし、音人の表情にも微かな困惑が見えた。詩会の場で政治的な内容を詠むのは、少し場違いかもしれない。


 詩会が終わった後、清廉が道真に近づいてきた。


「道真殿、素晴らしい詩でした」


「ありがとうございます。清廉殿の詩も印象的でした」


 道真は表面的には友好的に応じた。


「『時代変遷』という言葉が心に残りました」


 清廉は意味深な笑みを浮かべた。


「確かに時代は変わりつつありますね。我々学者も、その変化に対応しなければなりません」


「どのような対応をお考えですか?」


 道真は探るように尋ねた。


「まずは、現状を正しく認識することです」


 清廉の答えは曖昧だった。


「そして、理想を見失わないこと」


「理想、ですか」


「ええ。より良い世を作るという理想です」


 清廉の目に、一瞬鋭い光が宿った。


「道真殿も筑紫でのご経験を通じて、様々なことをお感じになったでしょう」


 道真は内心で警戒を強めた。この男は何かを知っているのかもしれない。


「確かに多くのことを学びました」


 道真は慎重に答えた。


「機会があれば、ゆっくりお話をお聞かせください」


 清廉は満足そうに頷いた。


「ぜひそうしましょう。同じ志を持つ者同士、語り合うことは有意義です」


 ***


 その夜、道真は父・是善に詩会での出来事を報告していた。


「藤原清廉という人物に注意が必要かもしれません」


 道真は慎重に言った。


「どのような印象を受けたのだ?」


 是善は息子の報告を聞きながら尋ねた。


「表面的には優秀な学者ですが、政治的な思惑を感じます」


 是善は深刻な表情を見せた。


「最近、そのような人物が増えているような気がするな」


「どういうことでしょうか?」


「学問の場に政治的な意図を持ち込む者が多くなったということだ」


 是善は続けた。


「純粋に学問を愛する者が減り、学問を手段として利用しようとする者が増えておる」


 道真は頷いた。それはまさに華胥道かじょどうの浸透工作の結果だった。


「我々は学問の純粋性を守らねばなりませんね」


「その通りだ。特に若い学者たちが誤った方向に導かれぬよう、注意深く見守る必要がある」


 是善は立ち上がり、書棚から一冊の書を取り出した。


「これは清公きよきみが残した文章集だ。お前も読んだことがあるだろうが、改めて読み返してみるがよい」


 道真は丁寧に書物を受け取った。


「祖父上の文章は、確かに単なる美文ではありませんね。国家への深い思いが込められています」


「そうだ。我々菅原家の使命は、美しい文章を書くことではない。国と民のために、正しき言の葉を選び取ることに他ならぬ」


 是善の言葉が、道真の心に深く響いた。からすとしての使命と、菅原家の当主としての責任。二つは表面的には違って見えるが、本質的には同じなのかもしれない。


「お前が筑紫で学んだことを、この京で活かす時が来たようだな」


 是善は息子を見つめて言った。


「学問を守るため、そして国を守るため、お前の力が必要だ」


 道真は深く頷いた。父は鴉のことは知らないが、自分の使命を直感的に理解してくれているようだった。


 ***


 翌日、道真は再び大学寮を訪れた。今度は意図的に清廉に近づき、もう少し詳しく探ってみることにした。


「おはようございます、清廉殿」


 道真は親しみやすい表情で声をかけた。


「道真殿、おはようございます」


 清廉は喜んだような表情を見せた。


「昨日のお話の続きをお聞かせいただけませんか?」


「もちろんです。どのようなことについて?」


「『人々の意識を変える』という点についてです」


 道真は探るように尋ねた。


「具体的にはどのような方法をお考えですか?」


 清廉は少し考える素振りを見せた。


「まず、詩や文章を通じて人々の心に訴えかけることです」


「詩や文章で?」


「ええ。美しい言葉には、人の心を動かす力があります。その力を使って、より良い世への憧れを育てるのです」


 道真は内心で警戒を強めた。これはまさに華胥道の手法だった。


「それはまた、興味深いお考えでございますね。何か参考になる作品はありませんか?」


「実は、最近入手した詩集があります」


 清廉は嬉しそうに答えた。


「大陸の詩人の作品ですが、非常に感動的な内容です」


「ぜひ拝見させていただきたいです」


「では、明日お持ちしましょう」


 清廉は快く承諾した。


 道真は心の中で微笑んだ。ついに華胥道の教材を入手する機会が得られそうだった。


 この詩集を分析すれば、彼らの思想工作の手法がより詳しく分かるだろう。そして、効果的な対策を立てることもできるはずだった。


 筑紫での経験が、確実に京での戦いに活かされ始めていた。

【語り:八咫烏やたがらす

「この時期の京都では、詩会や文章の集まりが盛んに行われとった。大江音人は実在の人物で、当代きっての文章博士として知られとった。音人は春澄善縄はるずみのよしつなと並ぶ大学者で、嵯峨天皇の時代から文章道の発展に貢献しとった。文室真象も実在で、後に文章博士になる秀才や。当時の詩会では『秋思』『春興』『月下吟』といった季節や自然をテーマにした漢詩が多く詠まれた。参加者は文章生、文章得業生、そして既に官職に就いた若手官人たちで、将来の朝廷を担う人材が集まる重要な場やった。詩の評価においては、その技巧の巧拙のみならず、内に宿る思想や人となりまでもが重んじられた。道真が詠んだような『時代変遷』への言及は、当時の知識人の共通した関心事でもあった」

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