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第21話 変わりゆく都(864年)

 第21話: 


 帰京から、すでに一週間が経っていた。菅原道真すがわらのみちざねは毎日のように京の町を歩き回り、三年間の変化を確かめていた。表向きは懐かしい故郷を再発見する喜びだったが、実際にはからすとしての任務の一環でもあった。


 この日の午前、道真は東市ひがしいちを訪れていた。商人たちの活気ある声が響く中を歩きながら、彼は変化を観察していた。


「随分と新羅しらぎの商品が増えましたね」


 馴染みの書籍商に声をかけた。


「ああ、道真様。お帰りなさいませ」


 商人は喜んで頭を下げた。


「そうですな。この三年で随分と変わりました。新羅の商人だけでなく、渤海ぼっかいの者たちも頻繁に来るようになりました」


 道真は興味深そうに頷いた。


「どのような商品を?」


「書物が多いですな。特に仏典と詩集。それに香料や薬草も」


 商人は声を潜めて続けた。


「中には、少々風変わりな書もございます」


「変わった書物?」


「ええ、普通の仏典とは少し違うような...まあ、詳しいことは分かりませんが」


 道真の表情が引き締まった。華胥道かじょどうの影響が既に京にも及んでいるのかもしれない。


「機会があれば、その書物を見せていただけませんか?」


「もちろんです。また今度、お持ちしましょう」


 ***


 午後、道真は大学寮だいがくりょうを訪れた。久しぶりに学問の場に身を置くのは心地よかった。しかし、同時に筑紫での経験と京の学問世界との違いも感じていた。


「道真殿!」


 声をかけてきたのは文室真象ふんやのまさかただった。道真と同年代の優秀な文章生で、以前から親交があった。


「真象殿、お元気でしたか」


「こちらこそ。筑紫での経験について、ぜひ詳しく聞かせてください」


 二人は大学寮の一角に座り、話し始めた。


「筑紫では、いかなる学問に臨まれておられたのですか?」


 真象が尋ねた。


「主に渡来人とらいじんから持ち込まれた書物の研究でした」


 道真は慎重に答えた。


「特に詩の分野では、大陸とは異なる新しい傾向が見られました」


「それは興味深いですね。具体的にはどのような?」


「言葉の使い方が微妙に変化しているのです。表面的には従来の形式を保ちながら、込められた意味が異なる」


 道真の言葉に、真象は困惑した表情を見せた。


「意味が異なる、と言いますと?」


「例えば、本来は自然を詠んだ詩が、実際には政治的な主張を含んでいる場合があります」


 道真は華胥道の暗号詩のことを念頭に置いて言った。


「詩文というものは、ときに秘められた意図を孕むものでございます。我々学者は、その真意を見抜く眼力を持たねばなりません」


 真象は深く頷いた。


「確かに、最近の詩会でも妙に凝った表現をする者が増えています」


「詩会で?」


 道真の関心が高まった。


「ええ。特に新しく参加した何人かの学者が、独特の作風を披露しています。美しい詩なのですが、どこか違和感があるのです」


 道真は心の中で警戒を強めた。華胥道の浸透工作が、既に京の学者サークルにも及んでいるのかもしれない。


「その詩会に、私も参加させていただけませんか?」


「もちろんです。次回は五日後の予定です」


 ***


 夕刻、道真は父・是善これよしと書斎で向かい合っていた。今日一日で得た情報を整理し、相談したいことがあった。


「父上、京の学問界の様子はいかがですか?」


 道真は慎重に話を切り出した。


「この三年間で、何か変化はありましたでしょうか?」


 是善は筆を置き、息子の方を向いた。


「変化、か。確かにいくつか気になることがある」


「どのような?」


「まず、新しい学者や文人が増えていることだ。特に地方から上京してきた者が多い」


 是善は続けた。


「彼らの中には優秀な者もいるが、どこか異質な感じがする者もいる」


「異質と言いますと?」


「学問に対する姿勢が、我々とは少し違うのだ。表面的には熱心に見えるが、何か別の目的があるような印象を受ける」


 道真は父の洞察力に感心した。是善も、華胥道の影響を直感的に感じ取っているのかもしれない。


「それと、最近の詩会や文章の集まりでも、妙に政治的な話題が多くなった」


 是善の表情が曇った。


「学問の場が、政の策謀に取り込まれる気配がある」


「具体的には?」


「朝廷の政策に対する批判めいた発言や、理想的な国家について語る者が増えている。一見、高尚な議論に見えるが、その根底に何かしらの意図を感じる」


 道真は頷いた。それはまさに華胥道の手法だった。理想論を掲げながら、実際には現体制への不満を煽る。


「父上、そのような集まりには注意が必要ですね」


「そうだな。学問は純粋でなければならない。政治的野心に汚されてはならない」


 是善は立ち上がり、書棚から一冊の書を取り出した。


「これは先帝・文徳天皇もんとくてんのうの御製詩集だ。真の学問とは何かを示している」


 道真は丁寧に書を受け取った。


「学問は国家に仕えるものだが、決して政争の道具ではない」


 是善は続けた。


「我々菅原家は、その原則を守り続けなければならない」


 ***


 その夜、道真は自室で一人考えていた。今日得た情報を整理すると、華胥道の京都浸透は予想以上に進んでいるようだった。


 商業ルート、学問サークル、そして政治的議論の場。複数のルートから、巧妙に影響力を広げている。筑紫で見た手法と基本的には同じだが、規模と巧妙さが格段に上がっている。


 机の上には、筑紫から持ち帰った大封臣だいほうしんの詩集が置かれていた。彼の詩を読み返すと、改めてその純粋さが心に響く。


「真なる学びと、偽なる学び」


 道真は小声でつぶやいた。


「見分けるのは容易ではないが、心の奥底で感じ取ることはできる」


 窓の外では、京の夜が静かに更けていた。遠くで夜警の拍子木ひょうしぎの音が響く。


 明後日の詩会で、どのような人物に出会うことになるだろうか。華胥道の影響を受けた学者がいるとすれば、どのような手法で近づいてくるだろうか。


 道真は筆を取り、短い詩を書いた。


「故郷に帰りて見れば変わりゆく 人の心も時代の流れ 真実見抜く眼こそ大切 学びの道に惑いなきよう」


 詩を書き終えると、道真は静かに眠りについた。明日からまた、新たな戦いが始まる。


 ***


 翌朝、道真は早めに起きて鴨川かもがわのほとりを散歩していた。朝霧の中を歩きながら、頭の中を整理していた。


「道真様」


 背後から声がかけられた。振り返ると、葦切あしきりが立っていた。


「おはようございます。早いお目覚めですね」


「ええ、少し考え事がありまして」


 道真は苦笑いした。


「京での生活に慣れるまで、もう少し時間がかかりそうです」


「無理もありません。三年間の空白は大きいでしょう」


 葦切は理解を示した。


「ところで、昨日の調査はいかがでしたか?」


「予想以上に深刻かもしれません」


 道真は声を潜めた。


「華胥道の影響は、既に様々な分野に及んでいるようです」


「やはり、そうでしたか」


 葦切も表情を引き締めた。


「今後の対策はいかがしますか?」


「まずは、詳細な実態把握が必要です」


 道真は川面を見つめながら言った。


「学者としての立場を利用して、内部から情報を収集します」


「危険ではありませんか?」


「もちろん危険です。しかし、それが最も効果的な方法でもあります」


 道真は決意を固めた表情で言った。


「筑紫にて得た経験を糧に、慎重に事を運びます」


 二人は並んで川のほとりを歩き続けた。朝日が昇り始め、京の町が静かに目覚めていく。


 新たな一日の始まり。そして、新たな戦いの始まりでもあった。


 ***


 午前中、道真は久しぶりに菅原家の私塾・菅家廊下かんけろうかを見学した。父・是善が主宰するこの私塾は、多くの優秀な人材を輩出していることで知られている。


「皆、熱心に学んでいますね」


 道真は感心して言った。教室では、様々な身分の若者たちが漢文の講読に取り組んでいる。


「優秀な者が多い」


 是善は満足そうに答えた。


「中には地方から出てきた者もいるが、皆真摯しんしに学問に取り組んでいる」


 道真は学生たちの顔を一人一人見回した。その中に、少し気になる人物がいた。


「あの若者は、いかなる者でございましょう?」


 道真は一人の学生を指差した。他の学生よりも年上で、どこか大人びた雰囲気を持っている。


「彼は伊予いよから来た橘清風たちばなのきよかぜという者だ」


 是善が答えた。


「非常に優秀で、特に詩作に長けている」


 道真はその青年をしばらく観察した。確かに優秀そうだが、どこか計算高い印象も受ける。


「どれくらい前から学んでいるのですか?」


「二年ほど前からだ。最初は少し変わった詩風だったが、最近は非常に洗練されてきた」


 道真の警戒心が高まった。時期的にも、手法的にも、華胥道の可能性がある。


「機会があれば、彼と話をしてみたいと思います」


「もちろんだ。お前の帰京を知れば、彼も喜ぶだろう」


 講義が終わると、学生たちが道真のもとに集まってきた。


「道真先生!」


「筑紫からお戻りになったと聞きました」


「ぜひお話を聞かせてください」


 口々に声をかけられる中、橘清風も近づいてきた。


「道真先生、お初にお目にかかります。橘清風と申します」


 挨拶は礼儀正しく、見た目には何ら異を感じさせぬ。


「清風殿ですね。父からお話を伺っています」


 道真は注意深く観察しながら答えた。


「筑紫での経験について、ぜひお聞かせください」


 清風の目に、一瞬鋭い光が宿ったような気がした。


「機会があれば、ゆっくりお話ししましょう」


 道真は当たり障りなく答えた。


 その後、学生たちとしばらく談話したが、道真の頭の中では様々な推測が巡っていた。


 清風の正体は何者なのか。もし華胥道の関係者だとすれば、菅家廊下への浸透を狙っているのかもしれない。


 夕方、道真は一人で考え込んでいた。京での戦いは、筑紫以上に複雑で困難になりそうだった。


 しかし、同時に決意も固めた。学問の聖域を守るため、そして国家の安泰のため、自分にできることを精一杯やり抜こう。

【語り:八咫烏やたがらす

「帰京一週間後の道真はんの動きや。このころには既に、華胥道の京都浸透がかなり進んどったことが分かる。東市での書籍商の話、大学寮での詩会、そして菅家廊下にまで怪しい人物が紛れ込んどる可能性がある。道真はんの鋭い観察眼と、是善はんの勘の冴えがよう出とる場面やな。特に菅家廊下の橘清風っちゅう人物は要注意や。時期的にも手法的にも、華胥道の工作員の可能性が高い。学問の場を政治工作に利用するっちゅうのは、まさに華胥道の得意手段や。道真はんが『真の学問と偽りの学問』について考えとるのも深い意味がある。表面的には同じように見えても、根底にある動機や目的が全く違う。これを見抜くんが、鴉としての道真の重要な任務になってくる。京都での戦いは筑紫以上に複雑で、敵も味方も入り乱れた状況になりそうや」

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