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第20話 帰京(864年)

 第20話:


 博多はかたから京へ向かう船旅は十日ほどかかった。菅原道真すがわらのみちざねは船首に立ち、遠くに見える山城国やましろのくにの山々を眺めていた。三年ぶりに見る故郷の風景は、懐かしいはずなのに、まるで見知らぬ場所のようでもあった。


「道真様、京が見えてきました」


 葦切あしきりが隣に立って言った。彼もまた、長い任務を終えた安堵の表情を浮かべている。


「そうですね」


 道真は深く息を吸い、胸の奥の緊張を静かに押し込めた。


「三年という月日は、思っていたより長かったようです」


 船が淀川よどがわの河口に近づくにつれ、都の喧騒が聞こえてきた。商人たちの声、牛車ぎっしゃの音、寺の鐘の響き。すべてが懐かしく、そして新鮮に感じられる。


 道真の心は複雑だった。三年前に京を出発した時、彼は純粋な学者だった。学問への渇望と、新しい知識への憧れを胸に博多へ向かった青年。しかし今、京に戻ろうとしている自分は全く違う人間になっている。


 からすの一員として任務を遂行し、華胥道かじょどう鶏林社けいりんしゃといった異国の勢力と対峙たいじした。筆を剣として使うことの意味を知り、言葉が持つ真の力を体験した。


「これから先、どのような日々が待っているのでしょうか」


 道真は心の中でつぶやいた。


 ***


 夕刻、道真は父・是善これよしの待つ菅原家すがわらけの邸宅に到着した。門をくぐると、使用人たちが慌ただしく出迎える。


「道真様、お帰りなさいませ!」


「ご無事でなによりでございます」


 口々に声をかけられながら、道真は母屋へと向かった。その時、書斎から父の姿が現れた。


「道真か」


 是善の声は静かだったが、その静かな声には言葉にできぬ安堵がにじんでいた。


「ただいま戻りました、父上」


 道真は深々と頭を下げた。


 是善は息子に近づき、その顔をじっと見つめた。三年前と比べて、道真の顔立ちは大人びていた。しかし、それ以上に目の奥に宿る光が変わっている。


「ずいぶん逞しくなったものだな」


 是善は静かに言った。


筑紫つくしでの三年間、様々な経験をしたようだ」


「はい。多くのことを学ばせていただきました」


 道真の答えを聞きながら、是善は何かを感じ取ったようだった。長年学者として人を見てきた経験が、息子の変化を敏感に察知している。


「今夜はゆっくり休め。明日、詳しく話を聞かせてもらおう」


 是善は優しく微笑んだ。


「お前が無事に帰ってきてくれて、本当に嬉しい」


 ***


 その夜、道真は久しぶりに自分の部屋で過ごした。畳の感触、障子しょうじ越しに聞こえる虫の音、すべてが懐かしかった。


 机の上には、三年前に残していた書物がそのまま置かれていた。『論語』『史記』『文選もんぜん』。どれも幼い頃から親しんできた書物だが、今見ると全く違って見える。


 道真は『論語』を手に取り、ページをめくった。「学而時習之がくじじしゅうし」。学んだことを時を置いて復習する。この言葉の意味も、今なら以前より深く理解できる。


 積んだ知識も、経験を経てこそ骨となり血となる……そう思えた。筑紫での三年間で、道真はそのことを骨身に染みて理解した。


 窓の外を見ると、京の夜景が広がっていた。数え切れない灯火ともしびが点々と光り、都の大きさを物語っている。


「ここから、新たな戦いが始まるのだろうな」


 道真は小声でつぶやいた。


 鴉として、そして学者として、自分にはやるべきことがある。京という大きな舞台で、どのような役割を果たすことになるのか。


 ***


 翌朝、道真は父と書斎で向かい合っていた。朝の光が差し込む静かな空間で、三年間の出来事を報告する時が来た。


「筑紫では、想像以上に多くのことを学びました」


 道真は慎重に言葉を選びながら話し始めた。


渡来人とらいじんとの交流、異国の文化に触れること、そして学問の真の意味について」


 是善は静かに聞いていた。


「具体的には、どのような経験をしたのだ?」


「まず、新羅しらぎ渤海ぼっかいとうの人々と直接言葉を交わしたことです」


 道真は大封臣だいほうしんとの出会いを思い出しながら言った。


「彼らから多くの書物を入手し、詩の交換も行いました。特に渤海の詩には独特の美しさがありました」


 是善は興味深そうに頷いた。


「それは素晴らしい経験だったろうな。しかし道真、お前の目つきが変わっている」


 是善の言葉に、道真は身を引き締めた。


「学問だけを積んだ者の目ではない。何か深刻な経験をした者の目だ」


 道真は沈黙した。父の洞察力の鋭さに驚くと同時に、どこまで話すべきか迷った。鴉としての活動を明かすわけにはいかない。


「父上のおっしゃる通りです」


 道真はゆっくりと口を開いた。


「筑紫では、学問以外のことも多く学びました。人の心の複雑さ、異国との関係の微妙さ、そして何より、言葉の持つ力について」


 是善は息子の言葉に深く頷いた。


「言葉の持つ力、か。それは我々菅原家が最も大切にしてきたものだ」


「はい。詩や文章は、単なる美しい表現ではありません。人の心を動かし、時には国の行方をも左右する力を持っています」


 道真の言葉に、是善は満足そうな表情を見せた。


「その通りだ。我々が代々文章博士もんじょうはくしを務めてきたのも、言葉の力を正しく理解し、それを国家のために用いるためだ」


 是善は立ち上がり、書棚から一冊の書物を取り出した。


「これは祖父・清公きよきみが残した文章集だ。お前も読んだことがあるだろうが、改めて読み返してみるといい」


 道真は丁寧に書物を受け取った。


「祖父上の文章は、確かに単なる美文ではありませんね。国家への深い思いが込められています」


「そうだ。我々菅原家の使命は、美しい文章を書くことではない。国家と民のために、正しい言葉を紡ぐことだ」


 是善の言葉が、道真の心に深く響いた。鴉としての使命と、菅原家の当主としての責任。二つは表面的には違って見えるが、本質的には同じなのかもしれない。


 ***


 午後、道真は久しぶりに京の町を歩いた。三年の間に、街の様子も少しずつ変わっている。新しい店が建ち、古い建物が取り壊されている場所もあった。


 大学寮だいがくりょうに向かう途中、知った顔に出会った。


「道真殿!」


 声をかけたのは橘広相たちばなのひろみだった。道真より二歳年上の文章生で、以前から交流があった。


「広相殿、お久しぶりです」


「筑紫から戻られたと聞きました。お疲れさまでした」


 二人は久しぶりの再会を喜んだ。


「筑紫での経験はいかがでしたか?」


「得るものが多い三年間でした。特に異文化との接触は貴重な体験でした」


 広相の表情は複雑だった。彼も優秀な学者だが、まだ地方での経験がない。道真の経験を少し羨んでいるようだった。


「私も機会があれば、地方で学びたいと思っています」


「広相殿の実力なら、きっと良い機会が巡ってくるでしょう」


 二人が話していると、大学寮の方から騒がしい声が聞こえてきた。


「何事でしょう?」


 広相が首をかしげた。


 声の方向に向かうと、数人の文章生が激しい議論を交わしていた。


「新羅の使者の態度は無礼だった」


「それは誤解だ。彼らなりの礼儀がある」


「外国の礼儀など知ったことか!我が国には我が国の作法がある」


 議論は白熱していた。道真は眉をひそめた。筑紫で実際に渡来人と接した経験から見ると、彼らの議論は机上の空論に聞こえる。


「皆さん」


 道真が声をかけた。


「外国のことについて議論されているようですが」


 文章生たちは道真を振り返った。


「道真殿は筑紫で渡来人と交流されたと聞きました。実際のところはいかがでしたか?」


 一人の文章生が尋ねた。


 道真は慎重に言葉を選んだ。


「確かに文化の違いはあります。言葉や作法は違えども、詩を愛し、学を求める心は――彼らも、我らも、同じだった」


「でも、彼らは本当に信用できるのでしょうか?」


 別の文章生が疑問を投げかけた。


「信用とは、一朝一夕に築かれるものではありません」


 道真は静かに答えた。


「大切なのは、相手を理解しようとする姿勢です。偏見を持って接すれば、真の交流は生まれません。また、相手の本心を見抜く眼力も必要です」


 最後の言葉には、華胥道や鶏林社との対峙で得た教訓が込められていた。


 文章生たちは道真の言葉に聞き入った。実際に渡来人と接した者の言葉には、重みがあった。


「我々も、もっと広い視野を持つべきですね」


 一人の文章生がつぶやいた。


「学問とは、狭い世界に閉じこもることではありません」


 道真は続けた。


「世界を広く知り、深く理解することです。そして、その知識を国家のために役立てることです」


 ***


 夕刻、道真は鴨川かもがわのほとりを一人で歩いていた。流れる水の音を聞きながら、これからのことを考えていた。


 筑紫での任務は終わったが、鴉としての活動はこれからも続く。京という大きな舞台で、より複雑で困難な任務が待っているだろう。


「道真殿」


 背後から声がかけられた。振り返ると、見慣れた黒い装束の人物が立っていた。鴉の連絡係れんらくがかりだった。


「お疲れさまでした」


 連絡係は頭を下げた。


「筑紫での任務、見事に完遂されました」


「ありがとうございます」


 道真も礼を返した。


「今後の活動についてですが、しばらくは学者としての本分に専念してください」


「承知いたしました」


 連絡係は続けた。


「ただし、京でも注意すべき動きがあります。華胥道の影響は筑紫だけに留まりません」


 道真の表情が引き締まった。


「京にも浸透しているのですか?」


「はい。特に学者や文人の間での工作活動が活発化しています。詳細は後日お伝えしますが、心の準備をしておいてください」


 連絡係はそう言うと、川霧の中に静かに消えていった。


 道真は川面を見つめた。筑紫での戦いは序章に過ぎなかった。本当の戦いは、これから始まるのだ。


 京という巨大な舞台で、より巧妙な敵と対峙することになる。しかし、筑紫での経験が必ず役に立つはずだ。

 剣を取らぬ身にも、闘いはある。


「筆は我が剣、詩は我が盾」


 道真は筑紫で詠んだ詩の一節を心の中で繰り返した。


 学者として、そして鴉として、自分の道を歩み続けよう。


 夕日が京の町並みを染める中、道真は静かに決意を新たにした。新たな戦いの舞台で、自分にできることを精一杯やり抜こう。

【語り:八咫烏やたがらす

「貞観六年(864年)、道真はんが筑紫から帰京した時のことや。この時、道真は十九歳。三年間の筑紫経験で、単なる学者から鴉の一員へと変貌を遂げとった。父の是善はんも、息子の変化を敏感に察知しとったやろな。長年学者として人を見てきた眼力は侮れへん。『言葉の持つ力』について語った道真の言葉は、筑紫での実戦経験に裏打ちされたもんや。大学寮での議論も興味深い。当時の京の文章生たちは、外国のことを理論でしか知らん者が多かった。実際に現地で渡来人と交流し、華胥道や鶏林社と対峙した道真の言葉には、重みがあったんやろな。そして最後の鴉連絡係との会話。華胥道の京都浸透が本格化しとるっちゅうのは、これからの展開を予感させる。筑紫は地方戦線やったが、京都は真の決戦場になる。道真の『筆は我が剣、詩は我が盾』っちゅう信念が、いよいよ試される時が来るんや」

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