第2話 文の道、武の門(859年)
第二話:
朝靄が平安京の街を薄く覆い、初夏の日差しはまだその力を十分に発揮していなかった。十四歳になった菅原道真《すがわら の みちざね》は、父と共に朱雀大路を北へと進んでいた。道真の心臓は早鐘を打っていた。この日は、彼にとって初めての公開試験の日だったからだ。
「緊張するな」
菅原是善が息子の肩に手を置いた。
「お前の才は既に証明されている。ただ、それを皆の前で示すだけだ」
「はい、父上」
道真は頷いたが、内心は不安で一杯だった。今日の試験は、藤原氏が主催する私塾での競闘詩会。都の名家の子弟たちが集まり、即興で詩を作り、その出来を競う場である。
「藤原氏には多くの優秀な子弟がいる」
是善は歩きながら語った。
「特に藤原冬嗣の孫にあたる若者たちは要注意だ」
「はい。南家の保則と北家の良世ですね」
「よく覚えていた」
是善は満足げに頷いた。
「彼らは既に朝廷で頭角を現しつつある。今日はその縁者も多く参加するだろう」
二人が目的地に着くと、すでに多くの貴族の子弟たちが集まっていた。藤原氏の邸宅は広く、立派な庭園を持ち、そこには特設の会場が設けられていた。
「菅原殿、よくぞ来てくださいました」
出迎えたのは、この私塾の主催者である藤原良房の側近だった。彼は道真を見て微笑んだ。
「これが噂の菅原家の神童ですか。楽しみにしておりました」
道真は丁寧に礼をすると、父と共に案内された席に着いた。周囲を見渡すと、十代前半から二十代前半と思われる若者たちが三十人ほど集まっていた。彼らの多くは藤原氏の血を引く者たちだが、中には他の名家の子息も見受けられた。
「あれが藤原良世だ」
是善が小声で教えた。
「まだ二十代半ばだが、既に従五位下に叙せられている」
道真が目を向けると、すらりとした体躯の青年が、周囲の者たちと談笑していた。その表情には余裕が漂い、貴公子然としていた。
「では、競闘詩会を始めます」
主催者の宣言で、会場が静まり返った。
「今日の題は『夏日即事』。夏の一日の景や感を詠んでください。時間は一刻。始めなさい」
道真は筆を握り、白い紙を前に考え始めた。夏の日の情景…。彼の脳裏に浮かんだのは、先日訪れた賀茂川での光景だった。水面に映る日差し、川辺に遊ぶ子供たち、岸辺で羽を休める白鷺。
詩句が自然と浮かんできた。
***
「では、順に詠み上げてください」
一刻が過ぎ、詩の発表が始まった。名家の子弟たちは順番に立ち上がり、自分の作品を堂々と詠み上げていく。多くは上手ではあったが、どこか形式的で、独創性に欠けるものだった。
「次は菅原道真殿」
道真の名が呼ばれた時、会場に小さなざわめきが起こった。噂の神童への興味が、参加者たちの間に広がっていたのだ。
道真はゆっくりと立ち上がり、深呼吸した。そして、はっきりとした声で詠み始めた。
「炎天照川面、游魚避浅瀬。岸辺童子戯、驚起栖鷺飛」
詩を詠み終えると、しばらく静寂が続いた。やがて、年長の参加者の一人が語り始めた。
「なるほど。暑い日差しが川面を照らし、魚たちは浅瀬を避ける。岸では子供たちが遊び、それに驚いた白鷺が飛び立つ…。実に生き生きとした情景だ」
「十四歳とは思えぬ出来栄えだ」別の参加者も続いた。
「菅原家の血筋はやはり違いますな」
称賛の声が続き、道真は少し恥ずかしさを感じながらも、どこか誇らしい気持ちで席に戻った。
「よくやった」
父の是善も小声で褒めた。珍しいことだった。
全員の発表が終わると、藤原良世が立ち上がった。
「皆、素晴らしい詩でした。特に…」
良世は一瞬道真の方を見た。
「新しい才能の登場を喜ばしく思います」
道真はその言葉に驚きつつも、礼儀正しく頭を下げた。
***
試験が終わり、歓談の場が設けられた。是善は知人たちと会話を交わし、道真は少し離れた場所で休んでいた。
「菅原殿、先ほどの詩は素晴らしかった」
声をかけてきたのは、同年代と思われる少年だった。整った顔立ちで、気品ある振る舞いが印象的だ。
「橘広相と申します。私も詩を学んでおります」
道真は丁寧に礼をした。
「菅原道真です。お褒めいただき恐縮です」
「謙遜なさらずとも」
広相は笑った。
「あなたの才は本物です。いずれ文章博士の地位も継がれるのでしょうね」
二人は詩や学問について語り合った。広相もまた博学で、道真は久しぶりに対等に語り合える友を見つけた喜びを感じていた。
「そういえば、最近都は騒がしいですね」
広相が話題を変えた。
「応天門の件で」
道真は頷いた。先月、内裏の正門である応天門が焼け落ち、犯人探しで朝廷中が揺れていた。
「父上によれば、大納言の伴善男が左大臣の源信を讒言したとか」
「ええ、しかし真相はまだ闇の中」
広相は声を落とした。
「この事件、ただの火災ではなく、朝廷の権力争いの一端だという噂もあります」
道真は不思議な感覚に襲われた。詩文の世界と政治の世界。両者は別のものだと思っていたが、実際には深く絡み合っているようだった。
「広相殿、政治にも興味をお持ちですか?」
「興味というより…」
広相は少し言葉を選ぶように間を置いた。
「私たち学者の家に生まれた者も、いずれは朝廷で役目を担うことになる。それは避けられない宿命です」
「なるほど…」
「文の道を極めるだけでは不十分なのです。武の門、いや、政の門も知らねばならない」
広相の言葉は、道真の心に強く響いた。彼はこれまで純粋に学問だけを追求してきたが、それだけでは不十分なのかもしれない。政治の現実も知る必要があるのだろうか。
***
帰り道、道真は父に尋ねた。
「父上、応天門の件、実際はどうなのでしょうか?」
是善は息子を見つめ、少し考えてから答えた。
「難しい問題だ。表向きは伴善男の讒言ということになっている。だが…」
「真実は違うのですか?」
「真実とは何か」
是善は哲学者のように言った。
「権力者にとっての真実と、民にとっての真実は異なることもある」
道真は黙って父の言葉を噛みしめた。
「道真、お前は今日、文の道の第一歩を踏み出した。だが覚えておけ。文は時に武よりも鋭い刃となる。言葉は正しく使わねばならぬ」
「はい」
彼らが歩いていると、突然路地の影から黒衣の男が現れた。道真は驚いたが、それは以前庭で会った例の男だった。
男は是善に一礼すると、道真に向かって言った。
「試験、見事だったぞ」
「あなたも見ていたのですか?」
「ああ。お前の才は本物だ。だが…」
男は周囲を見回し、声を落とした。
「学びが剣となることもある。その剣の使い方を心得よ」
道真が返答する前に、男は再び路地の闇に消えた。
是善は特に驚いた様子もなく、ただ息子を見つめていた。
「あの人を知っているのですか?」
道真が尋ねた。
「いずれわかる」
是善はそれだけ言って、また歩き始めた。
道真は父の背中を追いながら、この日の出来事が自分の人生の転機になるような予感を抱いていた。詩の試験、橘広相《たちばな の ひろすけ》との出会い、応天門の政治的陰謀、そして黒衣の男の謎めいた言葉…。
彼はまだ気づいていなかったが、彼の歩む道は、やがて文の道と武の門、両方の世界を横断することになるのだった。
【語り:八咫烏?】
「あんさんがたった今読まはったのは、菅原道真《すがわら の みちざね》が若かりし頃の競闘詩会の様子やけど、実際の史料では道真が十四歳頃の詩才についてはよう分かっとらんのや。でもな、道真は貞観四年(862年)に十八歳で文章生になっとるさかい、その前からかなりの才能を示してたんは間違いないやろね。
橘広相との出会いも創作やけど、この人物は実在した重要な人物やで。初めは博覧という名前やったんが、貞観十年(868年)に広相に改名しとる。道真より四歳ほど年長で、後に宇多天皇の側近として重きをなすねん。
応天門の変は史実やで。貞観八年(866年)四月に内裏の正門・応天門が炎上して、大納言の伴善男が左大臣の源信《みなもと の まこと》の仕業やと讒言した事件や。後に伴善男の讒言とわかり、伴氏一族は没落するんやけど、この事件は藤原氏が台頭する大きなきっかけになった。
藤原良房から藤原基経、藤原時平につながる北家の権力拡大と、道真の運命は深く絡みあうことになるんや。そして…ワシらもな。でもそれは、まだまだ先の話。道真にはまず学問の道を極めてもらわなあかんのやさかいな」