第19話 帰京の舟(864年)
はい、ということでここまでお付き合いいただいた方ありがとうございました。
初連載ということで書き溜めていたものを一気に放出しました。
今後は作品の校正なんかをやりつつ、次回作に手をつけようかと思います。次の鴉は平将門さんの予定です。
菅原道真さんの今後はカクヨムにて連載していきます。
お読みいただきありがとうございました。
あぁ、そうだ!!話末の八咫烏の正体は・・・
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だったのですが、以外となろうでの続編希望があったため、連載再開します。反応があるのは嬉しいですね。
第十九話:
早朝の博多港は、すでに活気に満ちていた。漁師たちが夜明けとともに出漁し、商人たちが店の準備を始める。その喧騒の中、一隻の船が静かに出港の準備を整えていた。
菅原道真は岸壁に立ち、その船を見つめていた。京へ戻るための船だ。博多での任務を終え、彼は都へと帰る時を迎えていた。
「すべての準備は整いました」
葦切が道真の横に立った。
「あとは乗船するだけです」
道真は頷いたが、その目は名残惜しそうに博多の町を見渡していた。ここでの日々は短かったが、彼の人生を大きく変えるものだった。
「さようなら、博多」
道真は心の中でつぶやいた。しかし、それは完全な別れではないことを彼は知っていた。いずれまた、この地を訪れる機会があるだろう。その時は、学者として、純粋に学問を求めて。
船へと向かう途中、見慣れた姿が現れた。
「道真様!」
大封臣が小走りでやってきた。今日は商人の装いだ。
「お見送りに来ました」
道真は嬉しそうに笑った。
「来てくださって、ありがとうございます」
大封臣は袖から小さな包みを取り出した。
「これを持っていってください。私の故郷・渤海の詩集です。あなたのような学者にこそ、読んでいただきたい」
道真は感謝して包みを受け取った。
「大切にします。そして必ず、またお会いしましょう」
二人は固く手を握り合った。短い付き合いではあったが、二人の間には深い絆が生まれていた。
「京の学者たちに、渤海の文化を伝えてください」
大封臣が言った。
「国は違えど、言葉は通じ合うのですから」
道真は深く頷いた。国境を越えた学問の交流。それは彼が常に望んでいたことだった。
別れを告げ、道真と葦切は船に乗り込んだ。船頭の合図で、船はゆっくりと岸を離れ始める。道真は船首に立ち、岸壁で手を振る大封臣の姿が小さくなっていくのを見つめていた。
博多の町並みが徐々に遠ざかっていく。道真は深く息を吸い、潮の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
***
船はやがて湾を抜け、広い海へと出た。博多の町はもはや小さな点となり、やがて視界から消えた。
道真は甲板に座り、大封臣から贈られた詩集を開いた。そこには渤海の詩人たちの作品が、中国風の漢詩の形式で記されていた。しかし、その内容には独特の感性が宿っている。
「面白いですね」
葦切が隣に座り、詩集を覗き込んだ。
「渤海の詩には独自の風があります」
道真は頷いた。
「彼らは高句麗の流れを汲む民族です。大陸文化を取り入れながらも、独自の文化を育んでいる。それはある意味、私たちと似ています」
二人は静かに詩集を読み進めた。船は穏やかな波に揺られ、北上していく。
昼過ぎ、道真は甲板の片隅で筆を取り出した。小さな紙に、彼は博多での思い出を詩に綴り始めた。
「何を書いておられるのですか?」
葦切が尋ねた。
「博多での日々を、忘れないようにするための詩です」
道真は筆を走らせながら答えた。
「記すこと、それは記憶を留めること。私はこの経験を、言葉によって永遠のものにしたいのです」
葦切は黙って頷いた。道真にとって「記すこと」がどれほど重要な行為か、彼は理解していた。
やがて道真の筆が止まり、一首の漢詩が完成した。
「博多津の岸辺に立ちて風を聞く 海の彼方より来たる声あり 筆は我が剣、詩は我が盾 言葉の力もて国を守らん」
道真は詩を読み上げ、静かに紙を折りたたんだ。
「これは序章に過ぎないのでしょう」
彼は遠くを見つめながら言った。
「私の道はまだ始まったばかりです」
***
夜になり、星空が広がった。道真は甲板に一人座り、星々を見上げていた。
歌を詠みたい気分だった。彼は静かに筆を取り、月明かりのもとで和歌を書き始めた。
「筑紫なる 波路を遙か 帰りゆく 心に残る あまたの思い」
単純な歌だが、彼の感情がそのまま込められている。筑紫での日々、出会った人々、経験したこと。それらはすべて彼の心に深く刻まれていた。
葦切が静かに近づいてきた。
「眠れませんか?」
「ええ」
道真は微笑んだ。
「星を見ていると、人の営みがなんと小さいものか思い知らされます」
葦切も空を見上げた。
「しかし、その小さな営みの中に、守るべき大切なものがある」
「そうですね」
道真は同意した。
「私たちは小さな光かもしれない。しかし、闇を照らすためには、小さな光でも必要なのです」
二人は静かに星空を見つめ続けた。船は穏やかな波に乗って進み、道真の心も少しずつ穏やかになっていった。
京へ戻れば、また学問の日々が始まる。しかし、もう以前と同じではない。彼は新たな視点、新たな使命を持って、学問に取り組むことになるだろう。
「これは序章に過ぎない」
道真は再び心の中でつぶやいた。そして、その言葉には確信があった。
【語り:八咫烏】
「帰京の船の上で、道真はんは自分の変化を実感しとったんやろな。京を出発した時は学者としての旅やったものが、帰りは鴉の一員、国を守る者としての自覚を持った旅になっとる。貞観六年(864年)、道真はまだ十九歳。この若さで筑紫での密命を果たし、『筆は我が剣、詩は我が盾』という境地に至ったんや。史料には残ってへんけど、この頃から道真の政治感覚は磨かれていったに違いない。船上で冷天らしき人物を見かけたっちゅうのも面白い話や。実際、新羅の商人たちは日本各地を行き来しとったし、道真の警戒心は間違うてなかったんやろな。彼は京に帰ってからも、学問だけやなく、外交や政治にも目を向けるようになる。そして『これは序章に過ぎない』っちゅう言葉の通り、これからの道真の人生には、もっと大きな舞台が用意されとったんや。筆を剣として振るう道真の本当の戦いは、これからやったんやな」