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第18話 ことばの仕掛け(864年)

 第十八話:


 祭礼の翌日、博多はかたの町は静かに朝を迎えていた。夜通し続いた祭りの喧騒が嘘のように、通りには落ち着いた日常が戻りつつある。

 菅原道真すがわらのみちざねは宿の窓辺に立ち、朝日に照らされる博多の町並みを見つめていた。昨夜の祭礼では、彼女が祝詞のりとに仕掛けた暗号のおかげで、鶏林社けいりんしゃによる暴動は未然に防がれた。大宰府だざいふの役人たちは事前に準備ができており、混乱は最小限に抑えられたのだ。

 しかし、すべてが丸く収まったわけではなかった。


「道真様」


 葦切あしきりが部屋に入ってきた。彼女の表情は沈痛だった。


「何かあったのですか?」


 道真の問いに、葦切は静かに頷いた。


「昨夜の混乱で…からすの一人が命を落としました」


 道真は息を呑んだ。


「誰が…?」


鶺鴒せきれいという者です。港で鶏林社の逃亡者たちを追っていたところを…」


 葦切は言葉を選ぶように一瞬躊躇ちゅうちょした。


「背後から刺されたそうです」


 道真は窓枠を強く握りしめた。また一人、自分のために命を落とした者がいる。源行成みなもとのゆきなりに続いて。


「私のせいで…」


「いいえ」


 葦切は即座に否定した。


「鶺鴒は自らの意思で任務に就いていました。それに、あなたのおかげで町全体は守られたのです」


 道真はその言葉に慰められることなく、重く沈黙した。祭礼は成功した。しかし、その代償は大きかった。


「彼女には…家族が?」


「年老いた母がいるそうです」


 葦切の答えに、道真の胸は更に痛んだ。


「私に何かできることは?」


「…実は」

 葦切は懐から一通の手紙を取り出した。


「鶺鴒は命を落とす前に、これをあなたに届けるよう頼んだそうです」


 道真は静かに手紙を受け取った。封には鴉の印が押されている。


「彼女は鴉の連絡役でした。あなたの書状を首領たちに届けたのも彼女です」


 道真の手が震えた。まさに自分の計略を実行した者が命を落としたのだ。

 彼は封を開き、中の紙を広げた。そこには簡潔な文字が記されていた。


「鴉の使命を全うせよ。我が名を記し留めて欲しい。」


 簡素な言葉だが、その意味は深い。鶺鴒は道真に、自分の名を忘れないよう、そして鴉としての使命を果たすよう求めていたのだ。

 道真は手紙を懐に収め、深く息を吸った。


「筆を持ってきてください」


 葦切は少し驚いたようだったが、すぐに道真の求めに応じた。

 道真は机に向かい、一枚の白い紙を広げた。そして筆を墨に浸し、静かに書き始めた。


「鶺鴒が亡くなったことを報告する文ですか?」


 葦切が尋ねると、道真は首を横に振った。


「いいえ。彼女への弔辞です」


 筆を走らせながら、道真は説明した。


「鶺鴒は、私に名を記し留めよと言いました。私は彼女の願いを叶え、彼女の存在を言葉で永遠のものにするのです」


 道真の筆は滑らかに紙の上を移動していく。そこには鶺鴒の勇気と忠誠、そして彼女の最期の様子が記されていった。


「記すこと、それは生かすことです」


 道真は真剣な表情で言った。


「歴史に名を残さない者たちも、誰かがその名を記し留めることで、永遠に生き続けるのです」


 葦切は道真の言葉の深さに感じ入った様子で、静かに見守っていた。


「これが私の筆の使い方です」


 道真は書き終えると、紙を軽く揺らして乾かした。


「剣で戦うことはできなくても、筆で命を救うことはできる。そして、筆で命を永らえさせることもできるのです」


 ***


 昼過ぎ、大封臣だいほうしんが宿を訪れた。


「祭礼は無事に終わりましたね」


 彼は落ち着いた様子で言った。


「あなたの計らいのおかげです」


 道真は静かに頷いた。しかし、彼の表情には影があった。


「亡くなられた方のことは聞きました」


 大封臣も沈痛な面持ちになった。


「彼女は誠実な人でした。私も何度か会ったことがあります」


 道真は驚いた。


「あなたも鴉と関わりが?」


「いいえ」


 大封臣は首を横に振った。


「私は鴉の一員ではありません。しかし、時に情報を共有することはあります。渤海ぼっかいの亡命者として、私にもできることがあるのです」


 道真は納得した。大封臣は自分の立場を利用して、日本のために働いていたのだ。


「博多の状況はどうなっていますか?」


 道真が尋ねると、大封臣は窓の外に目をやった。


「鶏林社はほぼ壊滅しました。幹部の多くが捕らえられ、残りも散り散りになっています」


華胥道かしょどうは?」


「彼らも大きな打撃を受けました。冷天れいてんは生き延びましたが、すでに博多を離れたという噂です」


 道真は安堵のため息をついた。二つの組織からの脅威は、当面なくなったようだ。


「これで私たちの任務も終わりですね」


 葦切が言った。


「そろそろ京へ戻る準備をしなければ」


 道真はしばらく黙っていたが、やがて決意を固めたように頷いた。


「そうですね。私たちがここでやるべきことは終わりました」


 大封臣は寂しそうな表情を見せた。


「もう会えなくなるのですね」


「いいえ」


 道真は微笑んだ。


「私はすぐにでも、また博多を訪れたいと思っています。学問の旅として」


 大封臣の顔が明るくなった。


「その時は、ぜひまた私の店にお立ち寄りください。今度は密命ではなく、純粋に学問を語り合いましょう」


「はい、必ず」


 道真は約束した。

 この博多での経験は、道真にとって大きな転機となった。彼女はここで学者としての自分と、国を守る者としての自分を一つに結びつける方法を見つけたのだ。それは「言葉」という鎧であり、「筆」という剣だった。


 ***


 夕方、道真は港に出て、筑紫の海を見つめていた。明後日には船で京へ戻る予定だ。


「道真様」


 背後から葦切の声がした。


「大宰府から連絡がありました」


 道真は振り返った。


「どんな内容ですか?」


「昨夜の件についての正式な報告書を求められています」


 葦切が言った。


「私たちの立場を明かさずに、どう報告すれば…」


「私が書きましょう」


 道真は即座に答えた。


「真実を伝えつつも、我々の存在を隠す方法はあります」


 二人は宿に戻り、道真は早速報告書の草稿を書き始めた。それは、祭礼の混乱とその背景にあった鶏林社の計画、そして大宰府の素早い対応を淡々と記した文書だった。しかし、その中に道真たちの存在を示す言葉はない。


「この報告書は、我々が介入したことを示していません」


 葦切が指摘した。


「その通りです」


 道真は静かに答えた。


「歴史に記されるのは、表の出来事だけです。私たちのような者の存在は、影に留まるべきなのでしょう」


 しかし、道真は別の紙に何かを書き加えた。それは「鶺鴒追悼文」とでも呼ぶべきものだった。


「こちらは公式の記録には残りませんが、鴉の記録には残るでしょう」


 道真は言った。


「彼女の名と行いを忘れないために」


 葦切は深く頷いた。道真が見出した「筆の道」を、彼女も理解し始めていた。

 道真は書き終えると、窓の外を見た。空には鴉の姿はなく、ただ静かな夕暮れが広がっていた。


 ***


 出発の前日、道真はもう一つの文書を書き上げていた。それは彼が博多で見聞きしたことすべてを記録した詳細な報告書だった。


「これはお父上に見せるのですか?」


 葦切が尋ねると、道真は少し考え込んだ後、答えた。


「いいえ。父にはまだ話しません。これは…私自身のための記録です」


 道真はその文書を丁寧に折り、袖の中にしまった。


「いずれ、私の言葉が必要になる時が来るかもしれません。その時のために、すべてを覚えておく必要があるのです」


 葦切は尊敬の眼差しで道真を見つめた。この若き学者は、博多での経験を通じて大きく成長していた。学問だけでなく、政治の世界での立ち回り方も学んだのだ。

 夜、道真は最後に小さなほこらを訪れた。そこには、彼が初めて博多に到着した日に見た古い石仏があった。

 道真は石仏の前に座り、静かに瞑目した。この博多での日々を振り返り、感謝と決意を込めて祈りを捧げた。

 祈りを終えると、道真は懐から一枚の和紙を取り出した。そこには、彼が詠んだ漢詩が記されていた。


言霊ことだまの力知りぬる旅の果て

 筆もて守る国の形

 死者の名は永遠に記し

 生者の道を照らさん」


 道真は紙を石仏の足元に置き、深く頭を下げた。

 帰り道、彼は星空を見上げた。京に戻れば、また学問の日々が始まる。しかし、もはや以前と同じではない。彼は「言葉の仕掛け人」としての自覚を持ち、その力と責任を背負うことになったのだ。

 博多での最後の夜、道真の心には静かな決意が灯っていた。筆を持つ者として、国を守り、人々の記憶を永らえさせる。それが彼女の見出した道だった。

 夜風が彼の髪を揺らし、まるで次なる旅へと誘うように、優しく背中を押した。

【語り:八咫烏やたがらす

「鶺鴒っちゅう名前の鴉の一員が実際に存在したかどうかは、もう誰も知らん。ただ、道真はんが人の命と記憶を大事にする人やったことは確かや。道真が貞観六年(864年)の博多で何を感じ、何を学んだのか。表の記録には残ってへんけど、この経験が彼の中に『言葉の力』への深い理解を植え付けたんやろな。『記すこと、それは生かすことです』っちゅうこの言葉は、後の道真の行動にも表れてる。彼は政治家になっても、常に記録を重んじ、亡くなった人々の名を忘れんかった。人は死んでも、その名が記されることで生き続ける——これこそが『ことばの仕掛け』なんや。そして、この経験から生まれた道真の文才と政治感覚は、のちに朝廷で大きな力を発揮することになるんやな。筆は時に剣より強い——この若き日の洞察が、菅原道真という人を形作ったんやと思うんや」

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