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第17話 祭礼の炎(864年)

第十七話:


 入江での密会から二日が過ぎた。菅原道真すがわらのみちざねは窓際に立ち、博多はかたの町を見下ろしていた。朝から町は異様な活気に包まれている。祭礼の準備が進んでいるのだ。


鶏林社けいりんしゃ華胥道かしょどうの争いは、さらに激しくなっているようです」


 葦切あしきりが入ってきて、道真に報告した。


「あの夜、私たちが仕掛けた計略は効いているようですね」


 道真は静かに頷いた。入江での決戦の夜、白き札と朱き封の書状は確かに両方の組織の首領に届けられた。その結果、互いに相手を疑い始めた二つの組織は、表面上の協力関係を打ち切り、今や公然と対立していた。


「鶏林社の幹部二人が昨夜殺されたそうです」


 葦切の報告に、道真の表情が曇った。彼の計略によって血が流れている。それは負わなければならない責任だった。


「しかし、これで終わりではありません」


 葦切は続けた。


「今夜の祭礼を利用して、鶏林社が何か大きな行動を起こすという情報が入りました」


「祭礼?」


 道真は窓の外に目を向けた。町では今夜、春の訪れを祝う火祭りが行われる予定だった。博多の住人だけでなく、近郷からも多くの人々が集まる大きな祭りだ。


「そうです。彼らは祭礼の混乱に乗じて暴動を起こし、大宰府だざいふの施設を襲撃するつもりのようです」


 道真は眉をひそめた。これはもはや、外つ国の者同士が利を争うだけの騒ぎではない。

わが朝廷の政道そのものを揺るがしかねぬ、謀反の兆しがそこにあった。


「どこからその情報が?」


大封臣だいほうしん殿からです」


 葦切が答えると、まるで呼応するように、部屋の扉が開いた。そこには僧の姿を脱ぎ捨て、商人の装いに戻った大封臣が立っていた。


「詳しく教えてください」


 道真が促すと、大封臣は部屋に入り、扉を閉めた。


「私の手の者が偶然、鶏林社の密談を聞いたのです」


 大封臣は静かに語り始めた。


「彼らは今夜の祭礼で、新羅しらぎ系の商人たちを使って暴動を起こします。そして混乱に乗じて、大宰府の役人を襲い、捕らえられている仲間を救出するつもりです」


 道真と葦切は顔を見合わせた。これは予想を超える事態だった。


「なぜそこまで?」


 道真が尋ねると、大封臣は肩をすくめた。


「彼らは追い詰められています。あなた方の計略で華胥道との関係も壊れ、居場所もなくなりつつある。最後の手段として、力に訴えるつもりなのでしょう」


 道真は窓の外に視線を戻した。すでに祭りの準備のために飾り付けられた通りには、多くの人々が行き交っている。


「大宰府には知らせましたか?」


 葦切が大封臣に尋ねた。


「いいえ。私の立場では…」


「分かっています」


 道真が大封臣に向き直った。


「では、私たちが知らせねばなりません。しかし、単なる風聞として届けても、取り合ってもらえないかもしれない」


 道真は考え込んだ。確かな証拠もなく、「新羅の密偵から聞いた」などと言えば、逆に彼ら自身が疑われる恐れもある。


「では、どうすれば…」


 葦切が言いかけたとき、道真はふと閃いた。


「祭礼の神官に助力を求めましょう」


 道真は決意を固めたように言った。


「祭礼の祝詞のりとに、暴動への警告を織り込むのです」


***


 正午を過ぎた博多の町は、さらに活気づいていた。祭りで使われる松明や飾り付けが並び、屋台の準備も始まっている。道真と葦切は、祭礼を執り行う地元の神社へと向かった。


 社殿に着くと、すでに神官たちが祭りの準備に追われていた。


「長官にお会いしたいのですが」


 葦切が若い神官に声をかけると、彼は急ぎ足で社殿の奥へと消えていった。しばらくして、白髪の老神官が現れた。


「何用でしょうか」


 神官は厳かな雰囲気を漂わせながら二人に問うた。


「火祭りの警護について、お話があります」


 道真が答えると、老神官は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに平静を取り戻した。


「こちらへどうぞ」


 彼は二人を社殿の裏手にある小さな部屋へと案内した。


 部屋に入ると、老神官は周囲を警戒するように窓を閉め、静かに座った。


「どうぞ、お座りください」


 道真と葦切が向かい合って座ると、老神官は低い声で語り始めた。


「実は私も、今夜の祭礼について不安を抱いておりました」


 彼の言葉に、道真は目を見開いた。


「どういうことですか?」


「最近、新羅からの商人たちが祭りに異常な関心を示しているのです。彼らは祭りの内容や順序について詳しく聞き、特に松明行列の際の混雑具合を気にしていました」


 その言葉に、道真と葦切は互いに目配せした。


「長官、今夜の祭礼で暴動が起きる可能性があります」


 道真が切り出すと、老神官は深刻な表情でうなずいた。


「やはり…そう思っていました」


 道真は驚いた。この神官はただの宗教家ではないようだ。


「あなたは…」


「私は若い頃、大宰府の役人をしておりました」


 老神官は静かに答えた。


「今も時々、大宰府とは…連絡を取り合っております」


 それを聞いて、道真はある考えが浮かんだ。彼は葦切に目で合図を送り、老神官に向き直った。


「長官、今夜の祭典で、私たちにできることはありませんか?」


 老神官は少し考え込み、やがて決意を固めたように言った。


「実は、祭りの始まりに私が祝詞を奏上します。その中に何か…警告を込められるかもしれません」


 道真の目が輝いた。それはまさに彼が考えていたことだった。


「ぜひ、そうしていただけないでしょうか」


 老神官は頷き、静かに続けた。


「しかし、あからさまな警告では、かえって混乱を招きます。暗示的な言葉で、大宰府の役人や警護の者たちに警戒を促す必要があります」


「それは私にお任せください」


 道真は確信を持って言った。彼は文才に自信があった。今こそ、その才能を活かすときだ。


「私が祝詞の草稿を書きましょう。暗号のように、特定の人々だけに意味が通じる言葉を織り込みます」


 老神官は感心したように道真を見つめた。


「あなたは…どなたですか?」


 道真は一瞬迷ったが、素直に答えることにした。


「菅原道真と申します。都より学問の研究のために博多に来ております」


 老神官の目が見開かれた。


「菅原氏…是善殿の…」


「私は彼の息子です」


 道真が頷くと、老神官は深々と頭を下げた。


「それは失礼いたしました。菅原家のお名前は、学者の家として広く知られております」


 道真は謙虚に頭を下げ返した。父のおかげで、まだ若い自分にも一定の信頼が得られることに、あらためて感謝の念を抱いた。


「では、祝詞の草稿を書かせていただきます。紙と筆を…」


 老神官は急いで道具を用意させた。道真は筆を手に取り、深く息を吸った。これは単なる文章ではない。人々の命を守るための言葉だ。


***


 夕暮れが近づき、博多の町は祭りの熱気で沸き立っていた。通りには提灯が灯され、屋台から食べ物の香ばしい匂いが漂っている。人々は晴れ着を身にまとい、笑顔で歩いていた。


 しかし、その笑顔の下に潜む緊張を、道真は感じ取っていた。町のあちこちに、いつもより多くの武装した男たちが配置されている。彼らは大宰府の役人だ。道真の警告は確かに届いていた。


 祭りの中心地である広場に到着すると、そこには大きな神輿みこしが置かれ、その周りに松明を持った男たちが集まっていた。老神官も白い装束に身を包み、厳かな表情で立っていた。


「うまくいきそうですね」


 葦切が道真に小声で言った。二人は広場の端に立ち、人ごみに紛れていた。


「まだわかりません」


 道真は周囲を警戒しながら答えた。


「鶏林社の動きが見えません」


 実際、町には多くの新羅系と思われる人々がいたが、特に不審な様子は見られなかった。


 やがて、太鼓の音が鳴り響き、祭りの開始を告げた。人々が広場に集まり始め、老神官が神輿の前に立った。


 彼は両手を広げ、祝詞を奏上し始めた。


天津神あまつかみ大前おおまえに申す…」


 厳かな声が広場に響き渡る。道真は息を潜めて聞いていた。彼が書いた暗号の言葉がいつ現れるか、見守っていた。


 祝詞は続き、やがて重要な部分に差し掛かった。


「この夜、火の祭りに集いし人々よ、南からの風に注意せよ。火はますとなりて照らし、害となりて焼く。おかしくる者あらば、神の怒りを受くべし…」


 道真は満足げに頷いた。「南からの風」は新羅からの脅威を、「侵しくる者」は反乱分子を指す言葉だった。大宰府の役人なら、その意味を理解するはずだ。


 実際、祝詞が奏上されるにつれ、広場の周囲に配置された役人たちがさらに警戒を強めていくのが見て取れた。


 祝詞が終わり、老神官が最後の祈りを捧げると、祭りは次の段階へと進んだ。松明に火が灯され、人々は行列を作り始めた。


 その時だった。


 広場の一角で突然、怒号が上がった。道真は身を乗り出し、その方向を見た。


 数人の男たちが揉み合いを始めたようだった。周囲の人々が不安げに離れていく。


「始まりました」


 葦切が緊張した声で言った。


「あれは仕掛けです。混乱を作り出そうとしています」


 確かに、揉み合いはすぐに広がり、押し合いへと発展していた。人々の悲鳴が上がり始める。


 しかし、大宰府の役人たちは素早く対応した。彼らは揉み合いの場所に駆けつけ、混乱を鎮めようとしていた。


 それでも、混乱は広がっていった。松明を持った人々が慌てふためき、危険な状況が生まれつつあった。


「道真様」


 葦切が道真の袖を引いた。


「あちらを」


 広場の反対側に目を向けると、数人の男たちが密かに動いているのが見えた。彼らは混乱に乗じて、町の外れにある大宰府の施設に向かっているようだった。


「本当の目的はあちらか」


 道真は素早く判断した。


「広場での騒ぎはおとりなのです」


 二人は視線を交わし、即座に行動した。広場を離れ、男たちの後を追う。しかし、人混みをかき分けるのは容易ではなかった。


 焦りを感じながらも、二人は何とか追跡を続けた。やがて、人混みを抜け、大宰府の施設が見えてきた。それは囚人を収容する建物だった。


 その前では、すでに争いが始まっていた。十数人の男たちが、施設を守る役人たちと戦っている。男たちは新羅風の衣装をまとっており、鶏林社の構成員に違いなかった。


「少し遅れました」


 葦切が悔しげに言った。


「しかし、大丈夫です。役人たちも準備ができているようです」


 確かに、施設を守る役人の数は通常より多く、彼らは組織的に反撃していた。道真の警告が効果を発揮していたのだ。


 二人は少し離れた場所から状況を見守っていた。突然、道真の背後から声がかけられた。


「道真様、無事でしたか」


 振り返ると、そこには大封臣が立っていた。彼は今日は商人としての装いだった。


「大封臣殿!あなたも来ていたのですか」


「ええ、何かあれば協力するつもりでした」


 三人は施設の前での戦いを見つめた。役人たちは優勢だったが、鶏林社の男たちも必死に抵抗していた。


「このままでは、彼らも死傷者が…」


 道真がつぶやくと、大封臣は静かに頷いた。


「彼らも追い詰められているのです。新羅でも、彼らの派閥は危ういとの話です」


 その時、施設の中から悲鳴が聞こえた。何者かが内部に侵入したようだった。


「中にも仲間がいたのか」


 葦切が緊張した様子で言った。


「これは想定外でした」


 三人は状況を見守るしかなかった。直接介入すれば、彼ら自身の存在が明るみに出てしまう。それは避けねばならない。


 しばらくして、施設の門が開き、数人の男たちが走り出てきた。彼らは拘束されていた仲間を救出したようだった。


 役人たちは追いかけようとしたが、すでに男たちは闇の中に消えつつあった。


「追わせるわけにはいきません」


 大封臣が突然言った。


「彼らは港に隠れていた船で逃げるつもりです。そこに私の仲間が待ち構えています」


 道真と葦切は驚いた顔で大封臣を見た。


「あなたも…対策を講じていたのですね」


「はい。彼らが脱出しようとすれば、私の仲間が捕らえる手はずになっています」


 大封臣は静かに微笑んだ。


「あなた方だけに活躍させるわけにはいきませんから」


 三人は施設での戦いが収束していくのを見た。役人たちは負傷者の手当てを始めていた。


「行きましょう」


 大封臣が言った。


「港で何が起きるか確認しませんか?」


***


 博多の港は、祭りの喧騒からは少し離れていた。しかし、そこでも別の形の緊張が漂っていた。


 道真たちが港に着いたとき、すでに事態は動いていた。鶏林社の逃亡者たちは確かに船に乗り込もうとしていたが、そこに待ち構えていたのは大封臣の仲間ではなく、華胥道かしょどうの刺客たちだった。


 港の一角で、激しい戦いが繰り広げられていた。


「これは…」


 大封臣は困惑した表情を浮かべた。


「私の仲間は別の船を準備していたはずです。ここにいるのは華胥道の者たちです」


 道真は状況を素早く把握した。彼の計略がさらなる展開を見せていた。華胥道も鶏林社の動きを察知し、彼らを捕らえようとしていたのだ。


 港では、二つの組織の構成員が死闘を繰り広げていた。時折、悲鳴が夜の闇に消えていく。


「これは…私の責任では…」


 道真は自分の計略がもたらした結果に、胸が締め付けられる思いだった。


 その時、港の別の場所で呼び声が聞こえた。


「大封臣様!こちらです!」


 穏やかな声だった。振り返ると、そこには渤海ぼっかい風の服装をした男が立っていた。


禅玄ぜんげん!」


 大封臣は駆け寄り、男と短く言葉を交わした。


「あれが私の仲間です」


 大封臣が道真たちに説明した。


「彼の話では、華胥道の者たちが先に気づき、私たちの計画を阻んだそうです」


 港での戦いは激しさを増していた。しかし、数的優位に立つ華胥道の者たちが徐々に優勢になっていった。


 突然、大きな悲鳴が聞こえた。鶏林社の一人が海に落ちたようだ。


「これ以上、見ていられません」


 道真が言った。


「何か手を…」


 その言葉が終わらないうちに、港の入り口から松明の灯りが見えた。大宰府の役人たちが多数やってきたのだ。


 彼らは素早く戦いを鎮圧し始めた。華胥道の者たちも、鶏林社の残りの者たちも、次々と取り押さえられていく。


「これで…すべて終わりでしょうか」


 道真が小声で言うと、葦切は静かに頷いた。


「少なくとも、この博多での動きは収束するでしょう」


 三人は港の片隅から、役人たちが作業を終えるのを見守った。負傷者が運び出され、捕らえられた者たちが連行されていく。


 夜が更けていく中、港は再び静けさを取り戻していった。


 「行きましょう」


 大封臣が囁いた。


 「ここにいると、私たちまで疑われる恐れがあります」


 三人は静かに港を離れ、裏路地を通って宿へと戻っていった。


 道真の心は複雑な思いで満ちていた。彼の計略は成功し、二つの組織は壊滅的な打撃を受けた。しかし、その代償として、多くの命が失われたのだ。


 大宰府の施設で見た光景、港での戦い。それらはすべて、彼の「筆」がもたらした結果だった。筆は確かに剣となった。しかし、その剣は道真自身の心も切り裂いていた。


 宿に戻る道すがら、道真は空を見上げた。祭りの夜を照らす炎が、遠くで揺れていた。その炎の下で、今夜、何が失われ、何が生まれたのか。


 道真は無言のまま歩き続けた。心の中には、一人の男の姿が浮かんでいた。源行成みなもとのゆきなり。彼の死を無駄にしないために、道真は今夜、筆を剣として振るったのだ。


 「次は何が?」


 葦切が静かに尋ねた。


 「大宰府への報告です」


 道真は迷いなく答えた。


 「すべてを正確に記録し、都へ送らねばなりません」


 それが、彼にできる最後の責務だった。そして、彼の筆が持つ本当の力を示す機会でもあった。

【語り:八咫烏やたがらす

「祭礼の夜、道真はんは筆の力で人々を救う決断をしたんや。祝詞に暗号を忍ばせて大宰府に警告するっちゅう方法は、まさに学者らしい知恵やった。貞観六年(864年)の博多では、確かに春の祭礼があったという記録が残っとる。ただ、暴動の記録はないから、これは未然に防がれたということやろな。当時の大宰府は、新羅の脅威に常に警戒しとった時代やからな。道真の名が記録に残らんのは、この任務が密命やったからやろう。若き日の道真は、この経験から多くを学んだに違いない。知識は守るための武器にもなる。言葉は人を救うこともあれば、傷つけることもある。この博多での日々が、後の政治家・菅原道真の礎になったんやと思うんや」

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