第16話 入江の闇(864年)
第十六話:
夕闇が博多の入江を包みはじめていた。潮の香に混じる霧が、月明かりさえも霞ませる中、菅原道真、葦切、そして大封臣の三人は、音も立てずに小径を辿っていた。
三人は灰色の僧衣に身を包み、顔を深く隠している。大封臣が先を行き、人目を避ける経路を選んで進んでいた。
「あと少しでございます」
大封臣の声は低く、それでいて確かな響きを帯びていた。
道真は懐に手をやり、すでに鴉の密使へ託した二通の書状――〈白き札と朱き封〉――の存在を確かめた。策は打たれた。あとは結果をこの目で見届けるのみである。
すなわち、鶏林社と華胥道、二つの組織の頭目が今宵、入江にて密かに対面する――その場に潜み、互いの疑念がいかにして決裂へと至るかを確認せねばならなかった。
「ここからは殊に慎重に」
大封臣が足を止め、前方の岩場を指さす。
霧の切れ間から、月に照らされた水面がわずかに覗く。銀の帯のような入江の輪郭。その周囲の岩陰には、人影がわずかに蠢いていた。
「すでに集まっておるようです」
葦切が囁く。
大封臣は茂みへ身を屈め、三人を見張りの目が届かぬ高所へと導いた。
「ここなら発見されにくい。そして、退き道も確保されております」
背後には獣道が伸びており、最悪の場合には山中へ逃れることもできた。
やがて、入江の右手から小舟が姿を現した。五、六人の人影のうち、中央の一人はひときわ華美な装束に身を包んでいる。
「あれが華胥道の頭目、冷天にございます」
大封臣の声に、道真は眉をひそめた。
冷天――その名に相応しく、彼の姿はどこか冷ややかな威圧感を放っていた。小舟が岩場へ寄ると、冷天は二人の護衛を伴って静かに上陸した。
間もなく、左手からも別の舟が近づく。こちらは三人乗り。中央の男は若く、しかし威風堂々たる気配を纏っていた。
「鶏林社の頭目、金玉桓」
道真はごくりと唾を飲んだ。二人の頭目が岩場に向かい合い、礼を交わしつつも、まるで剣呑な気配が張り詰める。
「……妙ですな」
葦切が目を細める。
「互いに礼を取りつつも、その手つき、足の運びが敵を警戒する者のそれに見えます」
「奏功したか……」
道真は内心で呟いた。送り出した〈白き札と朱き封〉が、それぞれの頭目の疑心を煽り、対立の種となっているとしたら――
そのとき、金玉桓が懐から何かを取り出した。それは、一枚の書状である。
「あれは……!」
道真が思わず声を呑む。朱き封――すなわち、自らがしたためた、華胥道の裏切りを示唆する偽書状だった。
冷天はそれを一瞥し、鼻先で笑ったかと思うと、今度は彼もまた紙片を取り出し、金玉桓に突きつけた。
互いに相手の裏切りを証する「証拠」を掲げ、声高に非難し合い始めた。周囲の護衛たちが手を武器にかけ、気配は一気に殺気を帯びる。
そしてついに、金玉桓の側の護衛が刃を抜き、冷天に向かって斬りかかった。
が、冷天の側も即座に応じ、刃と刃とが交錯する――火花が飛び交い、剣戟の音が入江に響いた。
激突の幕が、音もなく降りた。
戦いは瞬く間に広がり、護衛のみならず、茂みに潜んでいた兵たちも次々と姿を現して戦列に加わる。岩場の上は混沌と怒号に包まれた。
「……ここを離れましょう」
葦切が鋭く告げる。
しかし、道真は動けなかった。筆で仕掛けた計略が、実際に血を流す事態を招いた。その現実を、逃げずに見届けねばならぬという思いが、足を縛っていた。
「道真様、急ぎませぬか!」
葦切の声が強まる。道真はようやく頷き、三人は背後の獣道へと身体を引いた。
その時――
「何奴!」
鋭い声が背後から飛ぶ。一人の男が彼らの気配を察知し、斬りかかってきた。
「走れ!」
大封臣が叫び、三人は一斉に駆け出した。闇の獣道を、松明の光を背にして。
***
夜明け前、三人は博多の町へと帰還した。静まり返った街並みを抜け、ようやく宿へ辿り着いたとき、道真の脚はもはや棒のようであった。
大封臣は短く礼を告げると、再び町の様子を探るために霧の中へ消えた。
葦切と道真は部屋に戻り、床に身を投げた。だが、道真の心は休まらなかった。入江で交わされた刃の音と怒声が、なお耳の奥に残っている。
「私は――正しいことをしたのだろうか」
道真は呟いた。窓の外には、白む空と目覚めぬ町があるだけだった。
葦切はしばらく黙した後、静かに言った。
「完全に正しいことなど、この世にございますまい。しかし、あなた様は日本を守るため、その筆を用いた。誰かがやらねばならぬ役目を、引き受けたのです」
道真は深く息を吐いた。「使命」という言葉の重みが、筆よりも鋭く心に刺さる。
***
昼過ぎ、大封臣が戻った。
彼の報告によれば、入江での衝突は予想以上に激烈を極めたという。金玉桓は重傷、冷天も命からがら逃亡したとのこと。
さらに、鶏林社の幹部の幾人かは、大宰府の役人に捕縛されたという。
「これにて両派の勢力は壊滅的となりましょう」
道真は窓の外に目を向けた。穏やかに見える博多の町。だがその静けさは、幾つもの命の犠牲によってもたらされたものだった。
「筆は……人を斬る刃となるのか」
道真の問いに、大封臣はしばし黙した後、言った。
「筆はただの道具です。誰の手に渡るかで、その刃は人を殺しもすれば、人を救いもする」
葦切も深く頷いた。
「道真様が抱くべきは、筆を振るう覚悟でございます。責めを恐れるのではなく、その結果を見据える覚悟を――」
道真は静かに頷いた。
「筆は、私の剣だ。しかし、その剣をどう振るうかは、常に自らの意志で選ばねばならぬ」
入江の闇は去った。されど、道真の心に残された影は、容易く晴れるものではなかった。
【語り:八咫烏】
「これが、あの入江での真実や。道真はんが放った〈白き札と朱き封〉、それが火種になって、二つの組織が潰し合うことになった。筆の力っちゅうもんを、これほど実感した夜もあらへんかったやろな。
貞観六年(864年)の博多では、新羅系と唐系の商人たちの間で緊張が高まっていた――これは記録にも残っとる。道真はんが若き日にこの地で密命を果たしていたなんて、誰も思わへんかもしれんけどな。
でも、ここで彼は大切なもんを学んだんや。筆いうもんは、人を活かすも殺すも、その使い手次第っちゅうことや。それを知った道真はんは、のちの政治の場で、言葉と知恵で国を導くようになる。
あの闇の中で、彼は一つの覚悟を手に入れたんやな。言葉には、人を動かす力がある。時には刃より鋭い力がな。ほんま、それを学んだ夜やったわけや」