第15話 白き札と朱き封(864年)
第十五話:
朝霧が晴れゆく寺院の庭を、菅原道真は静かに歩いていた。僧の姿をした大封臣が昨晩示した入江への地図を、頭の中で何度も確認している。夜になれば、彼らは鶏林社と華胥道の決戦の場に向かうことになる。
湿った苔の匂いが鼻をくすぐる。道真は小さな石の上に腰を下ろし、瞑想するかのように目を閉じた。昨夜は眠れぬまま夜を過ごしたにもかかわらず、不思議と疲労は感じなかった。むしろ、全身が緊張で引き締まっていた。
「道真様」
葦切の声に目を開けると、彼は庭の入口に立っていた。
「伝令が到着しました」
道真は素早く立ち上がり、庫裏へと戻った。そこには見慣れぬ僧侶が一人、身をかがめて座っていた。大封臣も静かに傍らに控えている。
僧は道真を見るなり、懐から一通の書状を取り出した。
「これは、鴉より」
道真は息を呑んだ。それは鴉の印である墨染めの布で包まれていた。この寺院にまで鴉の連絡が届くとは思わなかった。
書状を受け取った道真は、葦切と視線を交わし、少し離れた縁側へと移動した。
「見せてください」
葦切の静かな声に、道真は頷き、布を解いて中の書状を広げた。
そこには墨で書かれた文字が並んでいた。鴉の特殊な暗号で記されているが、道真はすぐにその意味を理解した。
「新たな密命です」
道真は小声で言った。書状の内容を読み進むにつれ、彼の表情は徐々に変わっていった。
「何と?」
葦切も驚いた様子でのぞき込む。
書状には、入江での会合に関する詳細な情報と、驚くべき指示が書かれていた。
「鶏林社のみならず、華胥道の首領も特定せよ」
そして、その後に記された血のような朱の文字。
「彼らの争いを、我らが勝利へと導け」
二人は沈黙した。これは単なる観察任務ではない。鴉は彼らに、二つの組織の対立に介入し、日本に有利な形で結末を導くよう命じていたのだ。
「どういうことなのでしょうか」
道真が困惑した表情で言う。
「私たちは調査のためにここにいるのではなかったのですか?」
葦切は慎重に言葉を選んだ。
「状況が変わったのでしょう。博多での二つの組織の争いが、予想以上に大きくなっています」
道真は書状をもう一度読み返した。その中には、鶏林社について新たな情報も記されていた。
「鶏林社は、新羅の宮廷と直接つながっているようです。彼らの背後には新羅の王族がいるかもしれない」
一方、華胥道は唐の一部の官僚と結びつき、独自の思想集団を形成しているという情報も記されていた。両者は表面上は協力関係にありながら、実は互いを利用し合っているに過ぎなかった。
さらに、書状の最後には朱の印が押されていた。これは、鴉の最高位からの命令を意味する。つまり、天皇直々の指示である可能性が高い。
「私たちに求められているのは…」
道真は言葉に詰まった。
「討つことですか?それとも、書くことですか?」
葦切は道真をじっと見つめた。
「その選択は、道真様がなさるべきでしょう」
道真は深く息を吸った。彼はただの学者であり、剣を振るうことはできない。かといって、鴉の密命を無視することもできない。
「私の武器は、筆だけです」
道真は静かに言った。
「しかし、その筆で何を記すかを決めるのは私自身」
葦切は小さく頷いた。
「では、どうなさいますか?」
道真は庭を見つめながら考え込んだ。昨日、大封臣と交わした「国の形」についての会話が蘇る。そして源行成の死。彼は命を懸けて道真を守った。それは、道真にも何かを守る使命があるからだ。
長い沈黙の後、道真は決意を固めたように顔を上げた。
「私は討ちません。しかし、書きます」
葦切は不思議そうな表情を浮かべた。
「どういうことでしょうか?」
「私は今夜、入江に行き、二つの組織の会合を観察します。そして、彼らが何を企んでいるのかを正確に記録します」
道真の目は強い決意に満ちていた。
「しかし、それだけではありません。私は何かを仕掛けるつもりです」
***
大封臣の部屋へ戻った道真と葦切は、密命の内容を詳しく説明した。ただし、鴉の存在については伏せたままだった。
「なるほど」
大封臣は深く頷いた。
「あなた方の本当の目的は、単なる観察ではなかったのですね」
「いいえ、最初から情報収集が目的でした」
道真は正直に答えた。
「ただ、事態が変わり、より積極的な行動が求められているのです」
大封臣は道真をしばらく見つめ、やがて静かに言った。
「……博多の騒ぎは、ただの地の争いにはござらぬ。これは――海を隔てた地と地の、目には見えぬ争いが、ここに滲み出ておるのです……この港に起きる波風は、いずれ日の本と大陸を巻き込むやもしれませぬ」
道真は頷いた。
「私もそう理解しています。だからこそ、正確な情報が必要なのです」
大封臣は自分の袖の中から、小さな巻物を取り出した。
「私も、あなたにこれを渡そうと思っていました」
彼が広げたのは、入江周辺の更に詳細な地図だった。潮の満ち引きの時刻まで書き込まれている。
「この入江には、秘密の抜け道があります。万が一のときには、ここから逃げることができます」
道真は地図を真剣に見つめた。そして、一つの考えが浮かんだ。
「大封臣殿、お尋ねしたいことがあります」
道真は真剣な表情で言った。
「鶏林社と華胥道は、互いをどのように見ているのでしょうか?」
大封臣は少し考え込み、やがて答えた。
「彼らは表面上は協力者のふりをしていますが、互いを利用しているに過ぎません。そして、互いの弱点を探り合っています」
「では、もし一方に相手の計画に関する情報が漏れたとしたら?」
大封臣は道真の意図を察したように目を見開いた。
「混乱が生じるでしょう。いや、最悪の場合、彼らは互いを攻撃し始めるかもしれません」
道真はゆっくりと頷いた。
「私にも、それが考えられます」
葦切は道真の考えを理解し、驚いた表情を浮かべた。
「道真様、それは非常に危険です」
「分かっています」
道真は静かに言った。
「しかし、私たちが直接手を下さずとも、真実を伝えるだけで事態を動かすことはできるのです」
大封臣は道真の考えを理解して、深く頷いた。
「知識は力であり、時に武器にもなる。あなたは本当に筆の武人ですね」
道真は目を閉じた。学者として、彼は常に真実を追究してきた。しかし今、彼は真実を操ることで戦おうとしていた。それは学者としての誓いを破ることなのではないか。
長い沈黙の後、道真は目を開けた。
「私が伝えるのは、真実だけです。ただ、その真実をどこに、どのように伝えるかを選ぶだけ」
葦切と大封臣は道真の決意を感じ取り、静かに頷いた。
***
昼過ぎ、道真は小さな机に向かい、筆を手に取った。目の前には、白い紙が二枚。そして朱墨が一つ。
道真は深く息を吸い、集中力を高めた。そして筆を墨に浸し、一枚目の紙に書き始めた。それは鶏林社の首領に宛てた書状だった。
華胥道の計画と、その裏に隠された真の意図。そして、華胥道が鶏林社をどう利用しようとしているのか。すべて道真の推測だが、これまでの情報を総合すれば、ある程度の確信を持って書くことができた。
一枚目を書き終えると、道真は筆を清め、今度は二枚目に向かった。華胥道の首領に宛てた書状である。今度は鶏林社の秘密と、彼らが華胥道をどう裏切ろうとしているのかを記した。
二枚の書状。どちらも真実に基づいているが、どちらも相手を疑わせるに十分な内容だった。
道真は朱墨に筆を浸し、それぞれの書状に印を押した。大宰府の役人が使うような公印に似せたものだ。本物ではないが、受け取った者が一瞬でも疑うことなく読むには十分だろう。
書き終えた道真は、筆を置き、深く息を吐いた。
「これでいいのでしょうか…」
道真は自問した。彼がしようとしていることは、二つの組織の対立を激化させ、互いに潰し合わせることだ。それは直接手を下さずとも、間接的に人を傷つける行為かもしれない。
しかし、それは鴉としての使命を果たすための唯一の道だった。博多、そして日本を守るために。
葦切が静かに部屋に入ってきた。
「準備はよろしいですか?」
道真は二枚の書状を見つめながら頷いた。
「ええ。これらが…私の武器です」
葦切は書状に目を通し、その巧妙さに感心した様子だった。
「見事です。これなら確かに…」
「しかし、これを届ける方法が問題です」
道真が言うと、葦切は小さく笑った。
「それについては、心配いりません」
葦切は袖から小さな布を取り出した。それを広げると、そこには二羽の小さな鳥の絵が描かれていた。鴉の連絡員を示す印だ。
「鴉の仲間が港で待機しています。入江に向かう前に、彼らに書状を託すことができます」
道真は安堵した。これで計画は完成した。彼は二枚の書状を注意深く折り、それぞれ別の封筒に入れた。一方には「鶏林の主へ」、もう一方には「華胥の主へ」と記し、朱の蝋で封をした。
「あとは、入江での様子を見るだけです」
道真は静かに言った。彼の心には不安と期待が入り混じっていた。この計画が成功すれば、博多の町から二つの危険な組織を一掃できるかもしれない。しかし、失敗すれば…
「恐れないでください」
葦切が道真の肩に手を置いた。
「あなたは正しいことをしているのです」
道真は小さく頷いた。彼自身がそう信じたかった。
そのとき、大封臣が急いで部屋に入ってきた。
「準備はよろしいですか?そろそろ出発の時間です」
道真は決意を固め、立ち上がった。
「はい。行きましょう」
彼は二通の書状を懐に入れ、葦切と大封臣に続いて部屋を出た。今夜、入江では何が起こるのか。道真は自分の計画が、博多の運命を、そして自分自身の運命をどう変えるのか想像もつかなかった。
しかし一つだけ確かなことがあった。彼はもはや単なる学者ではなく、筆を剣として振るう者になっていたのだ。
***
寺を出る前、道真は静かに庭に立ち寄った。小さな石の上に一枚の紙が置かれていた。その上には、一首の漢詩が記されている。
「白き札に朱き封印を施し
我が使命は国の形を守ること
筆こそは我が唯一の剣
真実もて闇を照らし出さん」
道真はその詩を見つめ、静かに頷いた。これが自分の選んだ道。そして彼は、その道を歩み続けるだろう。
「行きましょう」
彼は葦切と大封臣に向かって言った。三人は僧衣に身を包み、寺の裏門から静かに出ていった。
博多の町は、いつもよりも静かだった。人々は緊張した空気を感じ取り、早々に家に引きこもっているようだった。三人は誰にも気づかれないよう、町の端を通って港へと向かった。
白き札と朱き封。道真の仕掛けた計略が、今夜、博多の運命を変えることになる。
【語り:八咫烏】
「ここで道真はんは、重大な決断をしたんや。武力で解決するんやなく、知恵と筆の力で相手を討つ道を選んだ。これこそが、後の菅原道真っちゅう政治家の原点やったんやないかな。貞観六年(864年)の博多での出来事について、正式な歴史書には何も残ってないんやけど、この頃、確かに新羅からの密使や怪しい商人の動きが活発やったっちゅう記録はあるんや。中国や朝鮮半島の情勢不安が、日本の九州沿岸にも及んでいた時代やった。道真はこの頃から「筆は剣よりも強し」という信念を抱くようになったんやろな。その信念が後の政治家としての手腕に繋がっていくんや。時に知恵は、刀よりも鋭い刃になるんやな。この若き日の経験が、後の道真を形作ったんやと思うんや」