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第14話 霧の寺の対話(864年)

 第十四話:


 三人は入江への侵入経路と観察地点について話し合った。大封臣だいほうしんは地形に詳しく、どこから近づけば発見されにくいかを説明した。

 話し合いが一段落すると、大封臣は奥から食事を持ってきた。


「長くなりそうですから、何か口にしてください」


 簡素な食事だったが、三人は静かに箸を進めた。

 食事を終え、菅原道真すがわらのみちざねが茶碗を置いたとき、庫裏くりの外から物音がした。三人は固唾かたずを飲んで耳を澄ました。


「見つかったか……」


 大封臣は立ち上がり、奥から小さな短剣を取り出した。葦切あしきりも腰の刀に手をかけた。

 しかし、扉が開くと、そこにいたのは一人の若い僧だった。


「大法師様、急ぎの知らせが」


 僧は大封臣に一枚の紙を差し出した。大封臣はそれを読み、表情を変えた。


「計画変更です」


 彼は道真たちに向き直った。


「会合は前倒しになりました。明日の夜、あの入江で行われます」


「なぜそんな急に?」


 葦切が尋ねた。


鶏林社けいりんしゃの一味が捕らえられたそうです。明後日には大宰府だざいふの役人に連行される予定で、それまでに仲間を救出するつもりなのでしょう」


 道真は眉をひそめた。


「では準備を急ぎましょう」


 大封臣は若い僧に何か指示を与え、僧は急いで出ていった。


「彼は?」


 道真が尋ねると、大封臣は小さく微笑んだ。


「私の協力者です。この寺には渤海ぼっかいからの亡命者が何人かいます」


 道真は驚いた表情を隠せなかった。


「あなたはたったの一人ではなかったのですね」


「亡命者は多くいます。ただ、私のような政治的な立場の者は珍しいだけです」


 大封臣は窓の外を見た。霧はまだ晴れていなかった。


「この国に来て、私は多くを学びました。あなたの国は、乱れはあれど、まだ希望があります」


 彼の言葉に、道真は複雑な思いを抱いた。確かに日本の朝廷も完璧ではない。藤原氏の台頭、皇位継承の不安定さ、地方の統治の乱れ。そして今、からすとしての自分の立場。


「国の形とは何でしょうか」


 道真は思わず口にした。

 大封臣はしばらく黙っていたが、やがて静かに語り始めた。


「私の祖国・渤海は、高句麗こうくりの遺民が建てた国です。理想を持って始まりました。しかし今や、唐の影響下で本来の姿を失いつつある」


 彼の目には深い悲しみが浮かんでいた。


「国の形とは、そこに住む人々の願いであるべきです。しかし現実は、権力者の欲望に左右されることが多い」


 道真はその言葉に強く共感した。朝廷での権力闘争、外交の駆け引き、そして今博多で起きていること。それらはすべて、国の姿を形作るものだった。


「だからこそ、あなたのような人が必要なのです」


 大封臣は道真を見つめた。


「真実を見極め、正しい道を照らす人が」


 道真は沈黙した。自分にそのような力があるだろうか。彼はただの学者であり、そして今は鴉の初任務に就いたばかりの若者に過ぎない。

 しかし、彼の内側には確かに何かが芽生えていた。単なる知識を超えた、何かより大きなものへの使命感。


「私はただ、筆を持つだけです」


 道真は静かに言った。


「しかし、その筆で何を記すかが大切なのでしょう」


 大封臣は微笑んだ。


「そう、まさにその通りです」


 葦切はこの対話をじっと聞いていたが、ようやく口を開いた。


「明日の準備をしましょう。時間がありません」


 三人は再び入江の地図に向かい、侵入経路と観察地点を確認し始めた。大封臣は地形や潮の流れまで詳しく説明した。

 しかし、道真の心の中では別の思いが渦巻いていた。この任務を通して見えてきた「国の形」とは何か。そして自分はその中でどのような役割を果たすべきなのか。

 彼が学問を志したのは純粋な知識欲からだった。しかし今、その知識は国を守るための武器にもなり得ることを実感している。筆は時に剣よりも鋭く、遠くまで届くことがある。


 ***


 夕方になり、庫裏の外はようやく霧が晴れ始めていた。大封臣は再び僧の姿に戻り、道真たちに告げた。


「今夜はここで過ごしてください。町に戻るのは危険です」


 道真と葦切はそれに従った。今や彼らは鶏林社と華胥道かしょどうの両方から狙われている可能性がある。

 夜が更けると、大封臣は二人に寝床を用意し、自分は別室へと引き下がった。

 薄暗い灯りの中、道真は眠れずにいた。


「葦切さん」


 隣で横になっている葦切に声をかけた。


「はい」


 葦切もまた目を閉じていなかった。


「明日、何が起きるかわかりませんが……」


 道真は言葉を選んでいた。


「あなたにはどうか、無理をしないでほしい」


 源行成みなもとのゆきなりの死が重く道真の心にのしかかっていた。もう誰も自分のために命を落とすことがあってはならない。

 葦切は小さく笑った。


「それはこちらの台詞です。道真様こそ、無謀なことをなさらないでください」


 二人は暗闇の中で目を合わせた。


「私たちが見るべきは真実だけです」


 葦切は続けた。


「鶏林社と華胥道が何を企んでいるのか。それを知り、報告する。それだけに集中しましょう」


 道真は静かに頷いた。確かにその通りだ。しかし、彼の心の中にはもう一つの思いがあった。これは単なる情報収集の任務ではない。国の形を左右しかねない大きな謀略に巻き込まれているのだ。


「ありがとう」


 道真はつぶやき、目を閉じた。明日に備えて、少しでも休まなければならない。

 しかし、彼の心は依然として霧の中にいた。黒き霧の中で、どこに進むべき道があるのか。真実は闇の中に隠れ、簡単には姿を現さない。

 道真は静かに呼吸を整えながら、自分の使命を思い返した。筆を持つ者としての、そして鴉としての使命を。

 窓の外では、港町博多の夜が静かに更けていった。そして明日、入江ではきっと新たな血が流れるだろう。

 道真はようやく眠りに落ちた。夢の中でさえ、黒い霧が彼を包み込んでいた。

【語り:八咫烏やたがらす

「わかっとったかどうかは知らんが、この博多での出来事は、後の道真の生き方に大きな影響を与えることになるんや。この黒い霧の中で菅原道真という人は、学者から国家の盾へと変わり始めたんや。道真が「国の形」について考え始めたのもこの頃やろな。目に見える表の政治だけが国を形作るんやない。陰で動く者たちの思惑が、時に国の進む道を大きく左右する。「筆は時に剣よりも鋭い」—この気づきが、後の道真の政治手腕に繋がっていくんや。そうやって一人の学者が国を支える柱へと成長していくんや。その瞬間を、我らは見届けねばならん」

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