第13話 黒き霧の中で(864年)
第十三話:
博多の朝は、いつもより霧深かった。海から立ち上る白い靄が、港町を覆い尽くしている。菅原道真は、宿の窓から外を眺めながら、自らの心の中も霧に閉ざされているように感じていた。
鴉の構成員として与えられた最初の任務。博多で蠢く新羅の密使たちと、彼らが広めようとしている書物の真意を暴くという使命。それは数日前まで、単なる調査だと思っていた。
しかし現実は違った。書物の背後には命が懸かっていた。
「源行成殿……」
道真はつぶやいた。宴席で出会った鴉の同僚。穏やかな笑みを浮かべながら、自らを「ただの護衛」と呼んだ男。彼は道真を守るために命を落とした。
室内には、葦切の姿もあった。彼は黙って道真を見つめている。
「そろそろ、大封臣殿との約束の時刻です」
葦切の言葉に、道真は深く息を吸った。
「行きましょう」
二人は霧の街へと歩み出た。
大封臣――表向きは新羅商人・金竜山として知られる渤海の亡命王族――が待つ書肆へと向かう道中、博多の町は異様な雰囲気に包まれていた。
通りを行き交う人々の視線には警戒の色が濃い。話し声は小さく、足早に目的地へと急ぐ姿が多く見られる。誰もが何かを恐れているようだった。
「昨夜、港で血が流れたそうです」
葦切が小声で告げた。
「鶏林社の手の者二人が殺された。華胥道の仕業だという噂です」
道真は顔をしかめた。二つの組織の対立は、もはや水面下ではなくなりつつあった。
曲がり角を過ぎたとき、葦切が突然立ち止まり、道真の肩を掴んだ。目の前には新羅風の装いをした男たちが三人、剣を腰に下げて立っていた。
「帰りましょう」
葦切は静かに言い、二人は別の道へと向かった。しかし、そちらにも同じような集団が見えた。
「包囲されていますね」
道真は冷静さを装いながら言った。
「書肆に行くのを阻まれているようです」
葦切は周囲を見回し、小さな路地を指さした。
「あちらから回りこみましょう」
二人は人目を避けながら、狭い路地を進んだ。しかし、その先にも見張りがいるのか、男たちの話し声が聞こえてくる。
「ここも駄目か……」
道真が呟いたとき、背後から声がかけられた。
「道真様」
振り返ると、そこには僧侶の姿があった。しかし、その目は見覚えがある。
「大封臣殿?」
僧の姿に身を隠した大封臣は、道真たちを手招きした。
「こちらです。寺への抜け道があります」
二人は彼に従い、路地の奥へと進んだ。やがて木戸にたどり着き、大封臣はそれを静かに開けた。
「何が起きているのですか?」
塀の中に入り、道真が尋ねた。
「昨夜から鶏林社と華胥道の全面対立が始まりました」
大封臣は急ぎ足で先導しながら説明した。
「互いの拠点を襲撃し、町中で小競り合いが起きています。そして彼らは私を探しているのです」
「なぜです?」
「どうやら、私が両方に情報を売っていることがバレたようです」
大封臣の表情は暗かった。
「そして、あなた方との接触も気づかれたようです。だから、あなた方も危険な状態に」
やがて三人は小さな寺の裏手にたどり着いた。ここなら安全だと言って、大封臣は本堂の裏にある小さな庫裏に二人を招き入れた。
庫裏の中は質素だが清潔だった。大封臣は僧衣を脱ぎ、奥から巻物を取り出した。
「これが三日後の会合に関する情報です」
彼は巻物を広げて見せた。港から少し離れた入江の地図と、周辺の地形が詳細に描かれている。
「しかし、状況は変わりました」
大封臣は沈痛な表情で続けた。
「会合はもはや協議の場ではなく、決戦の場になるでしょう。互いの首領が姿を現すはずです」
道真は地図を熱心に見つめた。
「私たちはどうすべきでしょうか」
「観察です」
葦切が即答した。
「両者が何を企んでいるか、その全容を掴む絶好の機会です」
大封臣は同意するように頷いた。
「しかし危険が伴います。二つの組織が全面衝突すれば、巻き込まれる可能性もある」
道真は静かに考え込んだ。確かに危険だが、これが最大の情報収集の機会でもある。鴉としての使命を果たすためには、ときに命の危険も覚悟しなければならない。それは源行成の死が教えてくれたことだった。
「行きましょう」
道真の決意に、大封臣は意外そうな表情を浮かべた。
「学者らしからぬ決断ですね」
「私はただの学者ではありません」
道真の目には強い決意が宿っていた。
「わかりました」
大封臣は頷いた。
「では私も協力します。三日後、あの入江へご案内しましょう」
【語り:八咫烏】
「道真はん、このあたりから政の闇を見始めたんやな。博多の町で鶏林社と華胥道っちゅう二つの組織が対立して、血で血を洗う争いが始まったんや。実際の貞観六年(864年)頃の九州では、新羅との対立が続いており、唐と渤海の関係も不安定やった。大宰府では、諸外国との交易と同時に、大陸からの情報や文化の流入を監視する役目もあったんや。まだ若い道真が、そんな危険な場所で命がけの任務に就いていた——これが菅原道真の知られざる一面やったんやろな」