第12話 渤海の商人(864年)
第十二話:
朝霧の立ち込める博多の港。夜明け前にもかかわらず、既に活気に満ちていた。
菅原道真は葦切と共に、小高い丘の上から港の動きを見下ろしていた。先日の情報によれば、この日の明け方に怪しい荷物を積んだ船が入港するという。
「あれでしょうか」
道真は東の水平線から姿を現した一隻の船を指さした。
「かもしれません」
葦切は目を細めた。
「渤海の旗印のようですね」
渤海は唐の北東に位置する国で、高句麗の遺民が建国した。日本とは公式な交流があり、通常なら怪しむ必要はない。しかし、近年の情報では渤海内部の混乱により、様々な勢力が独自の活動を始めているという。
「船尾に赤い印がある…鶏林社の関係者かもしれません」
葦切の指摘に、道真は息を飲んだ。鶏林社——先日の偽経事件で名前が挙がった新羅系の秘密組織だ。新羅と渤海が手を組むとは、何か大きな動きがあるのかもしれない。
「港に降りましょう」
道真が言うと、葦切は少し躊躇した様子を見せた。
「危険ですよ。昨日の刺客もまだ捕まっていません」
「だからこそ、直接確かめる必要があります」
葦切は渋々頷き、二人は丘を下りて港へと向かった。朝霧に紛れ、目立たないように船着き場に近づく。
渤海の船が徐々に港に近づくにつれ、波止場には数人の男たちが集まり始めた。彼らは普通の商人たちとは違う緊張感を漂わせていた。
「少し離れていましょう」
葦切が道真の袖を引いた。二人は魚市場の陰に身を隠し、状況を窺った。
船が岸に着くと、素早く荷降ろしが始まった。重そうな木箱が次々と陸に運ばれていく。
「武器でしょうか」
道真がささやくと、葦切はうなずいた。
「間違いないでしょう。あの運び方は、中身が刀剣類だと思われます」
荷物を受け取る側の男たちも手慣れた様子で、箱を小さな荷車に積み込んでいく。すべてが計画的に、そして隠密に行われているようだった。
その時、道真の目に見覚えのある人物が映った。
「あれは…」
波止場の端に立ち、すべてを見守るように立っていたのは、かつて道真が船旅で命を救われた新羅商人——金竜山だった。
「私の知り合いです」
道真は葦切に告げた。
「筑紫に来る途中、船で出会った新羅商人です」
「新羅の方ですか…」
葦切の目が鋭くなった。
「では、やはり鶏林社と関わりが…」
「わかりません」
道真は首を振った。
「彼は私の命を救ってくれた恩人です。簡単に敵と決めつけるわけにはいきません」
葦切はしばらく考え込んでいたが、やがて小さく頷いた。
「では、接触してみましょう。ただし、十分に警戒して」
二人が次の行動を相談していると、金竜山の姿が波止場から消えた。
「行ってしまった…」
道真が焦ったように言うと、葦切は冷静に周囲を見回した。
「市場の方に向かったようです。追いましょう」
***
博多の朝市は既に活気づいていた。海の幸を売る店、大陸から運ばれた珍しい品々を扱う店、香辛料の香りが漂う通りを、二人は金竜山の姿を探しながら進んでいった。
「道真様!」
突然、背後から声がかかった。振り返ると、そこには金竜山が立っていた。
「やはりあなたでしたか」
金竜山は微笑んだ。
「港で見かけたと思ったのです」
「金竜山さん…」
道真は少し緊張しながらも挨拶を返した。
「お久しぶりです」
「約束通り、博多で再会できましたね」
金竜山の目は、道真の隣に立つ葦切を一瞬見たが、特に気にする様子もなかった。
「体調はいかがですか?あの嵐の後、心配していました」
「おかげさまで元気です。あの時は本当にありがとうございました」
「どういたしまして」
金竜山は穏やかに微笑んだ。
「さて、私の店に来てくださいませんか?前にお話しした書物のことで」
道真は葦切と視線を交わした。葦切は僅かに頷いた。
「ぜひ、伺いたいです」
金竜山は二人を案内し始めた。市場を抜け、少し離れた通りに入っていく。やがて赤い門のある建物の前で立ち止まった。
「ここが私の店です。どうぞお入りください」
中に入ると、そこは書物と骨董品が並ぶ雅な空間だった。壁際の棚には数多くの書物が並び、中央には中国風の調度品が配置されている。
「素晴らしい…」
道真は思わず声を漏らした。彼の目は自然と書棚に向かっていた。
「お茶をどうぞ」
金竜山は二人に座るよう促し、丁寧に茶を淹れ始めた。
「ご友人もご一緒に」
金竜山は葦切にも微笑みかけた。
「藤原葦切と申します。道真様の旅のお供をしております」
葦切は簡潔に答えた。その警戒心は隠せていない。
金竜山は三人分の茶碗を並べ、香り高い茶を注いだ。
「さて、道真様」
金竜山が話し始めた。
「あなたが求めている書物とは何でしょう?」
「唐や新羅の最新の書物です。特に仏典や漢詩集に興味があります」
「なるほど」
金竜山は頷きながら立ち上がると、奥の部屋へ向かった。
葦切は小声で道真に言った。
「彼は本当に新羅人なのでしょうか。言葉遣いや仕草が…」
葦切の疑問に答えるように、金竜山は数冊の書物を抱えて戻ってきた。
「これらはいかがでしょう。元暁の著作と、最近の唐の詩集です」
道真は熱心に書物を手に取り、ページをめくり始めた。確かに貴重なものだった。
「これは…都では見られないものです」
「博多の良いところですよ」
金竜山は微笑んだ。
「様々な国の知識が集まる場所ですから」
道真が夢中で書物を見ている間、葦切は金竜山をじっと観察していた。そして急に質問を投げかけた。
「あなたは本当に新羅の商人ですか?」
場の空気が一瞬凍りついた。金竜山はゆっくりと葦切を見つめ、そして小さく笑った。
「鋭いご指摘です」
金竜山は立ち上がり、部屋の奥に歩み寄った。壁に掛けられた布を引くと、その下から古びた地図が現れた。それは現在の渤海国の地図だった。
「私は新羅ではなく、渤海の人間です」
道真も驚いて顔を上げた。
「なぜ偽りを?」
「身の安全のためです」
金竜山は静かに言った。
「今の博多では、渤海人というだけで警戒される時代。特に私のような立場の者は…」
「あなたのような?」
葦切が鋭く問うた。
金竜山はしばらく二人を見つめ、決意を固めたように深く息を吸った。
「私の本名は大封臣。渤海国王族の血を引く者です」
道真と葦切は驚きの表情を交換した。
「王族であれば、なぜこのような商人として…」
「亡命者なのです」
大封臣は苦笑した。
「渤海内部の政争に敗れ、命からがら逃げてきました」
彼は壁の地図を指さした。
「渤海は表向き唐との関係を保っていますが、内部では様々な勢力が権力を争っています。私は『大祚盟』という一派に属していました」
「大祚盟?」
「渤海の建国者・大祚榮の志を受け継ぐ集団です。彼の直系の血を引く者たちが集まり、国の将来を模索していました」
大封臣の表情は真剣さを増した。
「しかし、今の渤海は建国の理想からかけ離れています。唐への従属を深め、一方で新羅との対立も激化する。そんな中、私たちは独自の道を模索していました」
「そして敗れた…」
道真がつぶやくと、大封臣は静かに頷いた。
「五年前、クーデターを計画しましたが、事前に漏れ、多くの同志が処刑されました。私は九死に一生を得て、日本に逃れてきたのです」
「ではあなたは今、何を?」
葦切が尋ねた。
「ただ生きているだけです」
大封臣は疲れたように笑った。
「商売をして日々を過ごし、いつか状況が変わることを待っています」
道真は彼の目をじっと見つめた。
「先ほど港で見かけたのは偶然ではないでしょう。あなたはあの船と関係があるのでは?」
大封臣は少し驚いたように道真を見た。
「…鋭い観察眼ですね」
「あの船は渤海からのもので、武器を運んでいました」
葦切が詰め寄った。
「あなたはそれと関わっているのですか?」
大封臣は長い間黙っていたが、やがて静かに話し始めた。
「私は政治には関わらないと決めています。しかし…故郷とのつながりは完全には断ち切れません」
「では、やはり武器の密輸に…」
「違います」
大封臣は強く否定した。
「あの船で運ばれているのは確かに武器ですが、それは商品として扱われているもの。私はただの仲介者に過ぎません」
「しかし、鶏林社との関わりは?」
葦切が追及した。
「利の道にて交わるばかりのことです」
大封臣は冷静に答えた。
「彼らが何を企んでいるかは知りませんし、知りたくもない。私は単に生き延びるために必要な商売をしているだけです」
道真は大封臣の表情を観察していた。彼の言葉には嘘はないようだが、全てを語っているわけでもなさそうだった。
「私を疑うのは当然です」
大封臣は苦笑した。
「しかし、私には道真様を騙す理由がありません。むしろ、あの嵐の夜に命を救ったことを覚えていてください」
「もちろん」
道真は頷いた。
「あれは忘れません。だからこそ、あなたを信じたいのです」
大封臣は深い安堵の表情を浮かべた。
「では、もう一つの真実をお伝えしましょう」
彼は声を落とした。
「私は確かに武器の仲介をしています。しかし、それは単なる商売ではなく、情報を得るためでもあるのです」
「情報?」
「鶏林社と華胥道の動向です」
大封臣は真剣な表情で言った。
「彼らが何を企んでいるのか、私は見張っているのです」
「なぜ?」
「個人的な理由です」
大封臣の目に悲しみが浮かんだ。
「かつて彼らの策略で、私の家族が犠牲になりました。二度とそのような悲劇を起こさせたくない」
部屋に重い沈黙が流れた。
「そして、道真様」
大封臣は続けた。
「あなたがなぜ博多にいるのかは知りません。しかし、もし彼らの調査をしているのなら、私はお力になれるかもしれません」
「なぜそう思うのですか?」
道真は警戒しながら尋ねた。
「あなたの目です」
大封臣は微笑んだ。
「単なる学者の目ではありません。何か使命を帯びた人の目をしています」
道真は葦切と視線を交わした。さらなる詮索は危険かもしれない。しかし、彼が提供してくれる情報は貴重だ。
「大封臣殿」
道真は慎重に言葉を選んだ。
「私たちは博多で起きている不穏な動きを調査しています。もし協力していただけるなら…」
「喜んで」
大封臣は頷いた。
「ただし一つ条件があります」
「条件?」
「私の正体を明かさないでください。表向きは、私はただの新羅商人・金竜山のままでいたい」
「わかりました」
道真は約束した。
「あなたの秘密は守ります」
大封臣は安堵の表情を見せた。
「では、情報を共有しましょう」
彼は静かに、板張りの床の一角へと膝をついた。人目につかぬよう巧妙に仕組まれた隠し板をそっと外すと、その奥より、小さき箱がひとつ現れた。漆を薄くかけた木の匣――中には巻物が一巻、丁寧に納められている。
彼はそれを取り上げ、灯のもとでゆるゆると広げた。そこに描かれていたのは、筑前・博多の浜辺を中心とした地図であった。浜の入り、町の裏路、寺の境内に至るまで、細やかに筆が運ばれている。
そして……その図のいくつかの地点には、朱の点が、まるで血のごとく滲んでいた。
「これが鶏林社の主要拠点です。そして、これが華胥道の活動場所」
大封臣は地図の上に指を走らせながら説明した。
「三日後、この入江で彼らの重要な会合があります。鶏林社と華胥道の代表者たちが集まり、何らかの取引をするようです」
「それが先日、我々の斥候が報告してきた情報と一致します」
葦切が言った。
「だろうと思いました」
大封臣は頷いた。
「彼らの動きは最近、明らかに活発化しています。何か大きな計画があるのでしょう」
「この機会に彼らの目的を突き止めなければ」
道真は決意を固めた。
「まさに我々が求めていた情報です」
大封臣は道真の熱意を見て、微笑んだ。
「道真様、あなたが単なる学者でないことはわかっています。しかし、何者であれ、この博多の地で何かを守ろうとしていることは理解できます」
彼は茶を一口飲み、続けた。
「私は政治には関わらないと決めていますが、鶏林社と華胥道の野望を止めることには協力します。彼らが成功すれば、渤海も日本も不安定になるでしょう」
「ありがとうございます」
道真は深々と頭を下げた。
「あなたの協力は大きな力になります」
大封臣は微笑み、書棚から別の巻物を取り出した。
「これは、私が渡海の際に持ち出した『大勢記録』という渤海の秘史です。儀礼的な内容ですが、あなたのような学者の方には興味深いかもしれません」
道真は感謝して巻物を受け取った。それは確かに貴重な史料だった。
「では、三日後の会合に向けて準備しましょう」
葦切が言った。
「詳しい計画を立てる必要があります」
三人は今後の連絡方法や、情報の共有手段について話し合った。最後に、大封臣は道真の肩に手を置いた。
「あの嵐の夜、私があなたを助けたのは偶然ではなかったのかもしれません。私たちはそれぞれの使命を持ちながら、ここで出会ったのです」
道真はその言葉の意味を噛みしめた。確かに彼らの出会いは不思議な縁を感じる。異国の亡命王族と、密命を帯びた若き学者。二人の道が交差したのは単なる偶然なのだろうか。
「また明日、詳細を話し合いましょう」
大封臣は二人を店の出口まで案内した。
「気をつけて。鶏林社の目は至るところにあります」
道真と葦切は大封臣に別れを告げ、店を後にした。博多の街は既に太陽が高く昇り、活気に満ちていた。しかし、その賑やかさの裏に潜む闇の存在を、道真は今や強く意識していた。
「彼を信じますか?」
歩きながら葦切が尋ねた。
「全てではありませんが、ある程度は」
道真は答えた。
「彼には何か隠された目的があるでしょう。しかし、私を助けてくれたことは事実です」
「慎重に進めましょう」
葦切は同意した。
「彼の情報は貴重ですが、完全に頼りきるわけにはいきません」
二人は静かに宿へと戻った。道真の脳裏には、大封臣の言葉と源行成の死が交錯していた。彼はもはや、単なる学問の旅ではないことを痛感していた。彼の前には、命をかけた真実の探求が待っていたのだ。
部屋に戻った道真は、大封臣から受け取った『大勢記録』の巻物を開き、渤海の歴史に思いを馳せた。そして、三日後に迫った鶏林社と華胥道の会合に向けて、心を引き締めるのだった。
【語り:八咫烏?】
「この物語に登場する渤海っていう国は実在したんや。七世紀から十世紀にかけて、今の中国東北部から朝鮮半島北部にかけて栄えた国でな、正式には渤海国、唐からは渤海郡と呼ばれてたんや。高句麗が滅んだ後、その遺民たちが建てた国で、初代国王の大祚榮は高句麗の将軍やったとされとる。物語に出てくる「大祚盟」は創作やけど、創建者の名に由来する組織という設定は歴史的には自然やね。
渤海は日本とも交流があり、平安時代には何度も使節団が来日したことが『続日本紀』などに記録されとる。特に「渤海使」として朝廷から丁重にもてなされ、外交関係を築いていたんや。
この話の時代設定である貞観六年(864年)頃は、実際に渤海内部で複雑な政治情勢があったという記録もある。特に第十代国王・大諲譔の死後に起きた内紛は有名やな。また、唐と新羅と渤海の三国間の複雑な関係も史実に基づいとる。
道真自身が博多で渤海人や新羅人と交流したという記録は残ってへんけど、彼が若い頃から漢籍に通じ、国際的な見識を持っていたことは間違いない。後年、遣唐使廃止を建議したのも、唐の情勢を的確に把握していたからこそやったんやろな。
また、物語に出てくる武器の密輸という設定も、実際に当時の九州では大陸との非公式な交易が盛んで、時に朝廷の管理から外れた活動も行われていたと考えられとる。特に博多(当時は「博多津」と呼ばれてた)は国際交易の重要拠点やったんや。
この話のなかの大封臣(金竜山)や鶏林社、華胥道などの組織・人物は創作やけど、東アジアの複雑な国際関係や、渤海王族の亡命という設定は、当時の歴史的背景からみて十分にありえた出来事やと言えるやろな」