第11話 暗手と詩人(864年)
第十一話:
偽経の書写場を急襲してから三日が過ぎた。博多の鴉詰所では、捕らえられた新羅僧からの尋問が続いていた。菅原道真は葦切とともに、次の一手を話し合っていた。
「金徳成の証言通り、鶏林社の影響は広がっています」
葦切は広げた地図の上に、新たな印を付けた。博多周辺に点在する寺院や市場が赤く印されていた。
「彼らの拠点はどこなのでしょう?」
道真は地図を覗き込みながら尋ねた。
「まだ特定できていません」
葦切は首を振った。
「彼らは常に移動しているようです。しかし...」
葦切は地図の南側を指さした。そこは博多から少し離れた湾岸の集落だった。
「斥候によれば、この辺りに不審な交易船が出入りしているとのこと。鶏林社の物資輸送拠点かもしれません」
道真は思案顔でその場所を見つめた。正規の交易路ではなく、人目につかない場所が選ばれているのは意味深だった。
「調査してみるべきですね」
葦切は少し躊躇した様子を見せた。
「危険が伴います。先日の急襲で我々の存在は鶏林社に知られました。彼らは警戒を強めているはずです」
「だからこそ、今のうちに」
道真の言葉に、葦切は驚いたような目で見つめた。
「道真様、あなたはまだ...」
「学者だからこそ、彼らの文書や記録を調べる必要があります」
道真は静かに言った。
「彼らの思想的背景を知らなければ、次の対策は立てられません」
葦切はしばらく黙って考え込んでいたが、やがて小さく頷いた。
「わかりました。しかし、厳重な護衛をつけます」
道真は感謝の意を示し、明日の調査行について詰所を出た。夕暮れの博多は、行き交う人々で賑わっていた。市場では渡来人の商人たちが呼び声を上げ、魚や香辛料、絹織物を売っている。表向きは平和な交易都市に見えるが、その裏では暗闘が続いていることを、今や道真は知っていた。
宿に戻る道すがら、道真は先日の急襲のことを思い返していた。金徳成の「文の兵士」という言葉が妙に心に引っかかる。言葉や文化を通じて国を揺るがす――それは直接的な暴力よりも巧妙で危険な戦略ではないか。
宿に近づいたとき、道真は何かが違うと感じた。門番の姿が見えない。いつもなら挨拶をしてくれる老人の姿がどこにも見当たらなかった。
警戒しながら中庭に足を踏み入れると、ふと物陰から人影が現れた。
「道真様」
榊という名の鴉の構成員だった。彼は普段は道真の警護を担当していたが、今日は詰所で別の任務についていたはずだった。
「榊殿、どうして...」
榊は急いで道真に近づくと、小声で言った。
「危険です。すぐに裏口へ」
「何が...」
言葉が終わらないうちに、庭の向こうから黒装束の影が三つ、闇から現れた。彼らの手には刀が握られていた。
「逃げて!」
榊は叫ぶと、すぐさま相手に向かって走り出した。道真が反応する間もなく、榊と黒装束の者たちの間で刃が交わされた。
「榊殿!」
道真は思わず叫んだが、榊は振り返りもせず戦いを続けていた。一対三の不利な戦いだったが、榊の剣さばきは見事だった。一人を倒し、二人目に斬りかかったところで、不意に三人目の刺客が榊の背後から忍び寄った。
「後ろだ!」
道真の警告は遅かった。刺客の刀が榊の背中を貫いた。榊は短い悲鳴を上げ、膝をついた。しかし、彼は最後の力を振り絞り、背後の刺客の腹を掻き切った。二人目の刺客も榊の一撃を受けて倒れたが、榊自身もついに力尽き、地面に崩れ落ちた。
静寂が戻った庭に、道真はしばらく立ち尽くしていた。やがて我に返り、急いで榊の元へ駆け寄った。
「榊殿!」
榊の呼吸は浅く、胸と背中から血が流れ出ていた。彼は道真の姿を認めると、かすかに微笑んだ。
「無事で...よかった」
「なぜ、ここに?」
「鶏林社が...動いていると...情報が」
榊は苦しそうに言葉を継いだ。「道真様を...狙っていると」
榊の言葉に、道真は愕然とした。鶏林社が自分を標的にしているというのか。
「助けを呼びます。しばらく持ちこたえて」
道真が立ち上がろうとすると、榊が彼の袖を掴んだ。
「遅い...です。私は...もう」
「そんな!」
道真の目に涙が浮かんだ。彼は学問の世界に生きてきた人間だ。死と直面することはなかった。特に、自分を守るために命を捧げる者の死など。
「ただ...一つだけ...」
榊の声はさらに弱くなっていた。
「私の...名を...忘れないで...ほしい」
「もちろんです」
道真は蔵人の手を握った。
「決して忘れません」
「本名は...桓武の血を引く...源の...」
言葉が途切れた。榊の手が力なく滑り落ちる。道真は呆然と、息絶えた榊の顔を見つめていた。
その時、庭の入り口から足音がした。道真は反射的に身構えたが、現れたのは葦切と鴉の武闘員たちだった。
「道真様!」
葦切は急いで駆け寄り、現場の状況を確認した。倒れた刺客たちを調べ、そして榊の亡骸を見て表情を曇らせた。
「間に合わなかったか...」
「榊殿が...私を守って」
道真の声は震えていた。
「わかっています」
葦切は静かに頷いた。
「彼は忠実な鴉でした」
武闘員たちが刺客の遺体を調べ始めた。彼らの装束を剥ぐと、衣の内側に特殊な紋様が刺繍されていた。
「やはり鶏林社の刺客です」
葦切の予想通りだった。急襲による新羅僧の捕縛に対する報復か、あるいは道真自身が彼らの計画を知り過ぎたために標的にされたのかもしれない。
「この宿はもう安全ではありません」
葦切は言った。
「すぐに移動します」
道真はまだ榊の遺体に向き合ったままだった。
「彼の...本名を聞きそびれました」
葦切は少し驚いたように道真を見つめた。
「本名ですか? 彼は鴉の者です。我々は羽名で呼び合います」
「でも、彼は最期に...源の血筋だと」
葦切は静かに頷いた。
「そうです。彼の出自は貴族でした。源朝臣の流れを汲む家柄で、本名は源行成。王族の血を引きながらも、鴉の道を選んだ男です」
道真は源行成の顔を最後にもう一度見つめた。穏やかな表情で、まるで眠っているかのようだった。
「私を...守るために」
「それが我々の使命です」
葦切は言った。
「天皇と本朝のために」
その夜、道真たちは急いで別の隠れ家へと移動した。博多の港から少し離れた小さな寺院で、鴉がかねてから用意していた安全な場所だった。そこには前もって護衛の武闘員が配置されており、周囲には見張りが立っていた。
夜も更け、道真は一人部屋に座り込んでいた。榊――いや、源行成の死の光景が脳裏から離れなかった。自分のために命を捧げた人間。それは道真にとって初めての経験だった。
彼は硯を取り出し、墨を擦り始めた。何か言葉を記さなければ、この胸の痛みを抑えられない気がした。筆を執ると、言葉が自然と流れ出した。
朝露のごとく消え行く命かな 我が盾となりて散りし花の如
墨が滲んだ。道真の目から涙が落ちていた。
名を刻む 筆のみどりの力なき 汝の最期に 剣持たぬ我
漢詩の形式に則りながらも、道真の感情はそのまま言葉となって紙面に広がっていった。彼は自分の無力さを痛感していた。学者としての知識も、漢詩の才能も、目の前で人が死ぬのを防ぐことはできなかった。
十九の春 知らざりき 血の匂い 我が代わりに 散りし忠魂
書き終えると、道真は静かに紙を畳んだ。これが源行成への唯一の手向だった。文の人間にできる精一杯の弔いだった。
翌朝、葦切が部屋を訪れた。
「道真様、お休みになれましたか?」
道真は首を振った。眠れなかったことは、疲れた顔に現れていた。
「昨晩、書きました」
道真は詩を葦切に渡した。葦切はそれを静かに読み、深く頷いた。
「素晴らしい弔いの言葉です。蔵人も...いえ、源行成も喜んでいることでしょう」
「私は...何もできなかった」
道真の声は重かった。
「いいえ」
葦切は強く言った。
「道真様は最も大切なことをされました。彼の命を記憶に留め、言葉にすることで」
「しかし、それで彼が戻ってくるわけではない」
「そうです。だからこそ、我々は前に進まなければなりません」
葦切は道真の肩に手を置いた。
「彼の死を無駄にしないために」
道真はしばらく黙っていたが、やがて静かに頷いた。
「鶏林社の拠点...調査しましょう」
「よろしいのですか?」
「はい」
道真は決意を固めた目で言った。
「彼らの真の目的を明らかにし、これ以上の犠牲者を出さないために」
葦切は道真の決意を見て取り、頷いた。
「では、準備を整えます。今度は万全の体制で」
二人が部屋を出ようとした時、外から騒がしい声が聞こえてきた。葦切は素早く窓辺に移動し、外の様子を窺った。
「何事?」
「鴉の斥候が戻ってきたようです」
葦切は警戒しながら部屋の扉を開けた。外には鴉の構成員と、旅装束の男が立っていた。男は明らかに長旅の疲れを見せていたが、目には切迫した色があった。
「葦切様」
男は深々と頭を下げた。
「重要な情報を持ち帰りました」
男は声を潜めて、博多の西の湾岸で確認された動きを報告した。鶏林社の主要な構成員が集結し、何らかの取引が行われるという。時期は三日後の夜半だという。
「ついに彼らの拠点が...」
葦切の表情が引き締まった。これは大きな進展だった。
「これは重要な情報だ」
葦切は斥候に感謝を示した。
「よく戻ってきてくれた」
斥候が退出すると、葦切は道真に向き直った。
「鶏林社の主要人物が集まる機会です。この好機を逃すわけにはいきません」
道真は窓の外を見つめた。夕暮れの空が赤く染まっていた。昨日まで自分が見ていた世界とは、あまりにも違う光景に思えた。そして今や、その世界で自分のために命を落とした男がいる。
「葦切殿」
道真は決意を固めた表情で言った。
「私も行きます」
「しかし、危険が...」
「わかっています」
道真はきっぱりと言った。
「しかし、源行成殿の死を無駄にはできません。彼らの真の目的を明らかにするために」
葦切はしばらく道真の表情を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「わかりました。ただし、万全の体制で臨みます。これ以上の犠牲は出せません」
「はい」
道真は窓辺に戻り、空を見上げた。源行成のことを思い、胸が痛んだ。もう二度と、自分のために誰かが命を落とすようなことがあってはならない。だからこそ、この任務を完遂しなければならなかった。
「明日から準備を始めましょう」
葦切が言った。
「陸奥を中心とした精鋭を集め、周到な計画を立てます」
「お願いします」
道真は再び源行成のことを思った。彼の死は決して忘れない。そして、彼の犠牲を無駄にしないためにも、鶏林社の脅威を取り除かねばならなかった。
博多での経験は、学問だけでは得られない貴重な学びとなった。そして何より、源行成の死は生涯忘れることのできない記憶として刻まれた。道真の人生の大きな転機となることを、彼自身も薄々感じていた。
部屋に戻った道真は、昨夜詠んだ詩をもう一度読み返した。そして新たに一首を付け加えた。
忘れまじ 命賭して守りし汝を 我が筆もて 永久に記さん
これが源行成への約束だった。そして道真自身への誓いでもあった。
彼は筆を武器とする者として、この先どのような道を歩むべきか。源行成の死を前に、菅原道真は人生の大きな岐路に立っていた。そして、その答えを求めるためにも、まずは博多での任務を全うしなければならないと心に誓った。
【語り:八咫烏?】
「この話に出てくる刺客や、榊こと源行成といった人物は創作やが、菅原道真の実際の経験とはどうやったのかを考えてみよう。貞観六年(864年)、道真は実際には文章生になったばかりで、都で学問に励んでいた時期やった。しかし、十一歳で漢詩を詠み、若くして才能を発揮していたことは史実やな。
道真の漢詩は『菅家文草』『菅家後集』に収められているけど、そこには確かに生と死、友情と別離の悲しみを詠んだ作品がある。彼は三十一歳の時に友人の島田忠臣を亡くし、深い悲しみを詩に表現している。また、最愛の子・阿満の死に際しては『夢阿満』という長詩を作っている。これらの詩からは、道真が人の死をどれほど深く悲しむ人物やったかがわかる。
また、菅原家は代々学者の家系で、道真の父・是善も文章博士として朝廷に仕え、貞観十二年(870年)には参議にまで昇って公卿に列した人物や。実際の是善の死は元慶四年(880年)八月で、道真は三十六歳のときやった。是善亡き後、道真は清公以来の私塾である菅家廊下を主宰し、朝廷における文人社会の中心的な存在となっていった。
物語では道真が「筆を武器とする」決意をしているが、これは後に右大臣となり、政治家としても活躍した道真の生涯を象徴するような表現やな。実際、彼は学問と政治の両方で才能を発揮し、『日本三代実録』の編纂や、遣唐使停止の建議など、重要な判断に関わってきた。
血で血を洗う権力闘争の中で、道真は常に筆の力を信じ続けた人物やった。昌泰の変で大宰府に左遷された後も、彼は詩文を書き続けた。その筆の力こそが、今日まで彼の名を伝える原動力となったんやな」